8.15はアジアの人々にとっていかなる日か
ー天皇とアジアの人々

歴史教育者協議会編『日本歴史と天皇―古代から現代まで50問50答』
大月書店、1989年7月

林 博史


 ずいぶん前に書いた小論ですが、基本的な問題は何も変っていないと思います。 2000.7.5


 「報因」

  これは昭和天皇が倒れたとき、あるマレーシア人が手紙に書いてきた言葉である。戦争中、彼の住んでいたカンウェイ村は日本軍の粛清をうけ、女性や子どもも含めて六七五人が殺された。家は焼きはらわれ、村は全滅した。このとき彼の両親と二人の弟妹は殺された。彼は七か所に銃剣で傷を受けたが、母親がかばってくれたおかげで致命傷にならず生き延びることができた。
 天皇は一九八八年九月一八日に発熱し、翌一九日に吐血した。その五七年前の九月一八日は、日本軍によって満州事変が引き起こされた日であり、中国への侵略戦争が始まった日である。天皇が倒れ たのは、その中国侵略の報いというのだ。

 アジアにとっての原爆の意味   

 一九八八年八月、彼を含めて五人のマレーシアの華人が日本に来た。いずれも日本軍によって両親や兄弟を殺され、本人も殺されかけた人たちだ。彼らは広島で原爆資料館などを見て、原爆によって女性や子どもたちがたくさん犠牲になっていることを悲しみ、同じ戦争の被害者としての思いを持ったようだった。しかし一方で原爆投下について「南京、マニラ、シ ンガポール、マレーなどで虐殺をおこなわなければ、原爆は落とされなかったはずだ」「原爆がなければマレーやアジアの犠牲者がもっとたくさん出ていたと思う」とつぎつぎと語った。
 つまり日本の侵略の帰結が原爆の投下であり、それによって日本は負け、アジアが解放されたというのだ。太平洋戦争はマレー半島への上陸によって始まったが、そのマレー半島で華人を虐殺した部隊の中心が広島の部隊であった。広島の部隊だったということは偶然のことかもしれないが、それにしても原爆投下が日本の侵略と切り離せないことを示す象徴的なできごとである。

 マレーシアに滞在していたある人は、東マレーシアのサラワクの映画館で「ライジング・サン」という第一次・二次世界大戦のドキュメント映画を見たとき、映画のラストシーンに原爆の雲がでてく ると、見ていた華人の観客が一斉に大きな拍手をしたのに心底驚いたという経験を語っている(荒川 純太郎「アジアの民衆から見た日本」)。原爆についてのこのような受け止め方は、日本軍によって痛めつけられた華人だけではない。分断 統治のために利用されたマレー人の場合を、マレーシアの作家イスマイル・フセインが語っている。
 「原爆の投下をラジオで聴いて、家族は、大変な技術の進歩だ、三日間で長い間の戦争に終止符 をうってくれた、と話していました。長い間のマレーシアの苦しみがこれで終わって、戦争から解放 されたという興奮がマレーシアの村々を駆け巡ったのです」(『反核と第三世界』)。

 インドネシアのジャワでも、原爆投下の話を聞いた街の人々は喜び、一人のイスラム導師は「日本は神から罰せられたのだ」と語ったという(中村平治はか編「アジア一九四五年」)。原爆の投下は、けっしてアジアの解放のためではなく、むしろアメリカによる冷戦の開始を告げる ものであり、人類にとって核時代という新たな危機の時代を示すものであるが、アジアの人々は、原 爆を日本の圧政からの「神の救い」と受け止めたのである(高嶋伸欣『族しよう東南アジアヘ』)。

  八・一五の光景  

  朝鮮の人々にとって、八・一五は解放の日であった。八月一六日朝鮮建国準備委員会委員長呂運亨は、「朝鮮民族解放の日は来た。我が民族は、解放の第一歩を踏みだすことになった。われらが過去 に味わった苦しみは、この場ですべて忘れ去ろう。そして今、この地に真に合理的な理想の楽園を建設しようではないか」と演説した(『アジア一九四五年』)。
 中国の重慶に日本の敗戦が伝えられたのは八月一〇日だった。ポツダム宣言受諾が伝えられたこの日、群衆が街にあふれ、爆竹が鳴り響き、抗日戦争勝利の歓声が続いた。八月一五日は韓国や中国で は「光復」の日とされている。「光復」とは緒黒の世界から解放され、再び太陽が昇ることを意味している。
 マラヤでは八月一一日頃から日本が降伏したという噂が流れはじめた。抗日軍や農村の人たちはお祝いのために豚やにわとりを潰し、酔いつぶれるまで酒を飲んだという噂が町では流れた。だが町の人々にはまだ信じられなかった。この噂が流れると、二、三日のうちに賭博場が閉鎖された。日本軍は降伏の話を秘密にし、噂を流す者は警察が取り締まった。しかしそのもとでも、人々はあちこちでひそかな祝いをもった。一方、人々は食料品店や雑貨屋などに殺到した。というのは日本軍の発行した軍票を使いきってしまうためだった。イギリス軍が戻ってくれば日本軍の軍票は価値がなくなってしまうからだ。日本の降伏がシンガポールの人々に知らされたのは一七日で、新聞が報道したのは二一日になってからだった。

 日本の降伏がはっきりすると、マラヤの人々は歓喜にわいた。みんなにこにこ顔で握手をし挨拶を してまわり、パーティーがいたるところで開かれた。店ではカタカナを消して看板を書き直し、家々 では日の丸を投げ捨てた。中国、アメリカ、イギリス、ソ連の連合国の旗が町になびき、人々はイギリス軍の到来を待った。イギリス軍はようやく九月三日にペナンに上陸し、シンガポールには五日に到着した。この日、イギリス軍を迎えるために、港からキャセイビルまで五キロにわたって歓迎の人々であふれた。「祖国万歳」「大中華民国万歳」「連合国万歳」などと書いた旗やのぽりを持ち、パレードをくりひろげた。そこには華人だけではなくマレー人も加わっていた。両手を掲げて手を振っている人々の笑顔がまぶしい(Malaya Upside Down,Singapore;An Illustrated History 1941 −1984,The Japanese Occupation;Singapore1942−1945)。

  天皇と日本軍支配   

 マレーシアのクアラルンプールにある国立博物館の正面には、モザイクでマレーシアの歴史が描かれている。一番最後が一九五七年の独立の絵だが、その手前が日本の占領時代である。その絵は、日の丸を背景に銃を持った日本兵が足を高くあげて行進をしており、その足の下に人々がひれ伏しているというものだ。日の丸は日本軍支配の象徴なのだ。
 裕仁天皇が倒れたとき、シンガポールの華字紙 『連合早報』は、「年老いたシンガポール人はさまざまな思いをもつ。ある者は、天皇ときけば、即 座三年八か月の『昭南』時代を連想し、憲兵、日の丸と、そのすべてが心にわき出てくる。日本語学 校に無理やり通わされ、あ、い、う、え、お、を覚えさせられ、毎朝東京に向かって『宮城遥拝』を させられた辛い記憶を思い出す者もいる」と書き、日本の野心は「原爆の洗礼にあい」失敗したが、 天皇は「戦犯となって刑を受けることもなく、厄災から逃れることができた」と論評した。
 またマレーシアの英字紙『スター』は、天皇の死を報じた記事のなかで、「日本以外の国民にとっては、日本帝国軍隊のシンガポル占領を記念して軍服姿で白馬にまたがり、軍人たちを閲兵している天皇の色あせた写真やニュース映画の一コマが、いまも脳裏に焼きついている」と指摘し、「裕仁は死んでも、 日本の軍事拡張で果たした彼の役割はけっして許されないであろうし、また忘れられない。……彼の死は日本占領中にとくに恐ろしい災難にあった人たちからの怒りをわき起こした」と伝えた。

 日本軍の圧政はことごとく、軍服を着て白馬にまたがっている大元帥=天皇の記憶と結びついているのだ。しかもちょうど天皇が倒れ、マスコミのキャンペーンがはられていた九月から一〇月にかけて、英語の教科書問題がおきた。これは、戦争中マレー半島で日本軍が赤ん坊を放りなげて銃剣で刺し殺した、という記述が自民党の圧力で差し替えられた事件だ。天皇を平和主義者と美化するキャンペーンとマレー半島での日本軍の残虐行為をおおいかくす動きが並行して進められたことは、「日本軍国主義」に対する強い警戒心を引き起こすことになった。

 日本によって引き起こされた戦争のなかでのアジアの人々の犠牲者は二千万人をこえるとみられている。漠然とした数字しかわからないが、中国千数百万、朝鮮二〇万以上、フィリピン一〇〇万以上、 インドシナ二〇〇万、インドネシア二〇〇万、マラヤ一〇万、などとなっている。このほとんどが民間人であり、軍人の死者が多い日本(軍人二三〇万、民間人八○万)とは対照的である。侵略戦争と しての性格がこの数字にはっきりと示されている(本多公栄『ぼくらの太平洋戦争』など)。

   独立への出発点   

 さて、イギリス軍を心から歓迎したマラヤの人々は、けっしてイギリスによる支配の復活を望んでいなかった。マラヤの人々は日本軍政下の苛酷な体験のなかで、自由や正義の大切さを学び、しかもそれらは誰かに頼ることによってではなく、自らの手で勝ちとらなくてはならないことを学んだ。シンガポールの小学校の教科書は、つぎのような言葉で日本支配時代の章を閉じている(The Struggle  For Freedom: PartT)。

 占領はすべての人にとって大きな苦難であった。しかし、それはある貴重な教訓をもたらしてもく  れた。それは東南アジアの多くの人々の目を開かせてくれた。これによって日本の支配より西洋の支配の方がまだましだが、自主独立の方がもっとすばらしいであろうということを、彼らは悟ったのである(シンガポール日本人会『南十字星』)。

 日本の敗戦、すなわち八・一五はアジアの人々にとって、解放の日、光復の日であり、同時に独立への出発点となった日であった。しかし、日本人は敗戦を終戦といいかえ、日本の敗北の意味を理解できなかった。このことは、日本のアジアヘの侵略戦争の責任をあいまいにし、さらに天皇の死去をめぐって、天皇と日本に対するアジアからの厳しい批判を受けることにつながっているのだ。

   参考文献

高鳴伸欣『旅しよう東南アジアヘ』(岩波ブックレツト、一九八七年)
中野孝次編 『反核と第三世界』(岩波ブックレット、一九八三年)
中村平治・桐山昇編『アジア一九四五年』 (青木書店、一九八五年)
YMCA国際平和研究所編「日本はアジアの友人か」(東研出版、一九八八年)
Chin Kee Onn, Malaya Upside Down, Federal Publications(クアラルンプール、一九七六年)
The Information Division, Ministory of Culture, Singapore, 
          SINGAPORE;An Illustrated History 1941−1984 (一九八四年)
林博史「虐殺の証人たちのヒロシマへの旅」(「朝日ジャーナル」一九八八年九月二三日号)