東南アジアから見た開戦   

『歴史地理教育』480号、1991年12月

林 博史


 これはアジア太平洋戦争の開戦50周年にあたっての特集の一つとして依頼された原稿です。アジア太平洋戦争が真珠湾攻撃からではなくマレー半島上陸から始まったことの意味、マレー人の民族運動と日本軍との関係、まだほとんど紹介されていないマレー半島のジョホール州での華僑虐殺、の3点にしぼって書いたものです。
 マレー半島上陸から始まったという事実は、アメリカとの関係だけで太平洋戦争を理解してきた問題を克服し、アジア、特に東南アジアへの侵略戦争であったことを典型的に示すものとして重要だと思います。マレー人の民族運動との関係も、最後まで独立を与えず「帝国の領土」にすることを決定していたマレー半島での日本軍の対応が、まったくの御都合主義的なものでしかなかったことがわかります。またジョホール州での虐殺は、おそらくマレー半島では最大規模のものだったと推測していますが、残念ながら日本軍の史料が残っておらず、まだ十分に明かにされていません。  1999.11.4


 アジア太平洋戦争とは、何よりも東南アジアを占領するための戦争だった。だから東南アジアとの関わりの中で見ることによって初めてその戦争の持つ意味が理解できるだろう。ここではその開戦と開戦初期の問題をいくつか取り上げて、アジア太平洋戦争について考えてみたい。

一 マレー半島上陸で始まったアジア太平洋戦争

 侘美浩少将率いる侘美支隊は一二月四日海南島を出航、七日深夜マレー半島東北部のコタバル沖に到着し、八日一時三五分上陸部隊を積んだ舟艇が一斉に発進した。陸から攻撃を受ける中、二時一五分上陸を開始し、同日中にコタバル市と飛行場を占領した。海軍機動部隊が真珠湾攻撃を開始したのは約一時間後の三時二〇分であった(いずれも日本時間)。このように真珠湾攻撃ではなく、マレー半島上陸によってアジア太平洋戦争が始まったのである。
 陸海軍は当初、ハワイ空襲とマレー半島上陸をほぼ同時刻(二時、ハワイ時間六時半、マラヤ時間〇時または〇時半)に設定した。だがこの時刻では空母からの発艦が夜間になって困難なため一時間半おくらせて黎明発艦にすることにした。この決定は海軍の都合でおこなったので、陸軍にマレー半島上陸時刻の延期を要請することができず、そのまま開戦に突入した。その結果、コタバル上陸が戦争の口火を切ることになったのである(戦史叢書『マレー進攻作戦』)。
 だから戦争がマレー半島上陸で始まったというのは陸海軍間の不調整が原因であるが、結果的に見るとアジア太平洋戦争の性格を象徴する出来事になった。

 ハワイ攻撃は、ハワイを占領するためではなく、米海軍を叩いてしばらく西太平洋に出てこれなくするためだった。その間に東南アジア・西太平洋を占領し「不敗」の態勢を作りあげようというのだった。一方、陸軍は東南アジアを支配するための軍事的経済的要衝であり、英軍の拠点でもあったシンガポール攻略を当面の最大の目標としていた。シンガポールの正面攻撃はできないので、まずマレー半島北部に飛行場を確保し、航空部隊の援護の下で半島を縦断してシンガポールを攻略する作戦を採用した。太平洋戦争の目的遂行はこのマレー作戦の成否にかかっていたのである。
 いうまでもなく、南方を占領し石油などの重要資源を獲得することが最大の戦争目的だった。特にマラヤと蘭印は資源が豊富な地域であった。だから一九四三年五月の御前会議においてマラヤ、スマトラ、ジャワ、ボルネオ、セレベスを「帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之か開発竝に民心の把握に努む」と決定した(大東亜政略指導大綱」)。この中でもマラヤは資源だけでなく、軍事的にも要であり、スマトラとともに「南方経営の核心地帯」(大本営陸軍部「南方占領地各地域別統治要綱」)と位置づけられた。だからフィリピン、ビルマに日本軍は形だけの「独立」を与え、敗戦間近にインドネシアにもその約束をするが、マラヤに関してはついに最後まで「独立」を与えようとしなかった。マラヤは最初から最後まで日本の東南アジア支配の要だった。開戦がマレー半島上陸で始まったことは、そうしたことを象徴しているといえる。

二 マレー民族運動と日本軍

 日本軍が占領直後にマラヤ各地で多数の華僑を虐殺したことはよく知られている。一方、マラヤの先住民であるマレー人を利用して、軍政に協力させた。ここでは日本ではあまり紹介されていないマレー人の民族運動との関係を見てみたい(藤原岩市『F機関』、長井信一『現代マレーシア政治研究』、Cheah Boon Kheng, The Japanese Occupation of Malaya,1941-45:Ibrahim Yaacob and the Struggle for Indonesia Raya, INDONESIA, No.28,1979.10 など参照)。
 戦前のマラヤでは民族主義運動は周辺地域に比べてかなり弱かった。マレー人、中国人、インド人など複雑な民族構成があり、またサルタンの伝統的な支配が温存されていたことなどが指摘できる。そうした中で全マレー人レベルでのマレー・ナショナリズムを意識した、急進的な青年たちによる民族主義運動が一九三八年に結成されたマレー青年連盟だった(代表イブラヒム・ヤコブ)。    
 一九四一年春、日本軍はイブラヒムと接触し、反英宣伝のためにマレー語新聞を出す資金として二万五千海峡ドルを提供し『Warta Malaya(マラヤ新聞)』を買収させている。

 開戦後、藤原機関(マラヤのインド人、マレー人などへの工作を担当、責任者藤原岩市少佐)がマレー半島を南下していく中で、各地のマレー青年連盟の活動家と連絡がとれていった。マラヤ北部のペラ州にいた連盟副会長のオナン・ビン・ハジ・シラジは藤原に対して、連盟が日本軍に協力するかわりにマレー民族運動への日本軍の支援を要請した。藤原はサルタンなどマレー人指導者層や華僑を排除するような運動や思想は日本軍の方針に反すると異議を表明し、「マレイ人の欠陥を是正すべき一大青年文化運動」を提案、それならば「日本軍の保護と支援とを得られるように」斡旋すると約束した。藤原の話を受けた鈴木宗作第二五軍参謀長と馬奈木敬信参謀副長はその趣旨に同意したという。その結果、連盟の青年らは日本軍に協力して宣伝班を組織し、クアラルンプールやマラッカ方面でマレー人への宣伝工作に派遣された。

 オナンと一緒に行動していた幹部のムスタファ・フセインらはクアラルンプールで日本軍に対して、「マラヤ共和国」の樹立を提案したが拒否された。
 シンガポールが陥落し獄中から出たイブラヒムは二月一七日夜ブキテマのある家で開いた連盟の執行委員会の席上、ムスタファが共和国の樹立を日本軍に提案したことについて批判した。「諸君、日本の現在の勝利はわれわれの勝利ではない。われわれの闘いはまだ長い道のりだし、日本の態度についてわれわれはわからない。日本はまた植民地主義者になるかもしれないのだ。」イブラヒムはあわてることはない、状況はかわるかもしれないので、待って様子を見ようと提案し、それが承認された。
 翌一八日イブラヒムは藤原少佐の案内で渡辺渡軍政部総務部長(軍政の実質的担当者)と会い、マレー青年連盟が以前と同じように活動することと連盟がWarta Malayaの発行を再開することを認めるよう要望した。渡辺はその場で承諾したが、なかなか実現されなかった。Warta Malayaは後
に日本軍政部に奪われてしまった。

 藤原の回想によると日本軍は「現住民の政治、文化、経済上の諸団体を否認する頑迷短見な方針を採ろうとしていた」。マレー青年連盟についても政治結社としてはあくまで認めず、藤原が馬奈木参謀副長(軍政部長)に「熱烈に要請」し「数十分にわたる強談の果て」ようやく文化団体として認めさせたにとどまった。
 こうした日本軍の対応に当初から疑念を抱いていたイブラヒムら青年連盟の幹部は、マラヤ各地を歩いて組織の拡大をはかった。マレー青年連盟は当初は急進的な青年グループにすぎなかったが、日本軍によって認められたこともあって急速に勢力を拡大した。伝統的なマレーの支配者層やマレー人官僚たちにも支持を広げていき、二か月後には会員が一万人を越えるまでにいたった(戦前は二〜三百人程度)。こうして力をつけていく一方、スータン・ジュナインをセランゴールに派遣してマラヤ共産党と接触させるなど日本軍との将来のトラブルに備えて地下工作もおこなっていた。
 マレー青年連盟が急成長していくなか、四二年六月日本軍からマレー青年連盟は解散させるという決定を通告され、今後活動を止めること、各支部に解散するよう通達することを指示された。マレー青年連盟はわずか四年で幕を閉じた。

 日本軍はマレー作戦を有利にするためにマレー人工作にマレー青年連盟を利用した。しかし当初から民族主義運動としては認めず、藤原の強い要請で文化団体としてかろうじて認めていたにすぎなかった。マレー戦が終わり、蘭印も三月には占領し、軍政の宣伝以外に利用する価値がなくなった。しかも青年連盟は支持基盤を拡大し、マラヤ各地に支部を広げ、民族主義運動としての力を急速に強めていきつつあった。 「独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」(「南方占領地行政実施要領」)と独立運動を抑える方針だった日本軍にとって、そうした運動はもはや認めることができなかったのである。民族主義運動を利用したのは、インドネシア、ビルマなどでも同様であるが、マラヤでは当初から「独立」させるという口約束すらまったくなかった。ここに東南アジア支配の拠点であるマラヤに対する日本軍の姿勢がはっきりと示されている。

 なお日本軍は戦局が不利になってきた四三年一二月マレー人を組織して義勇軍と義勇隊を編成し、イブラヒムを義勇軍の指揮官に就任させた。イブラヒムなど元青年連盟のメンバーは義勇軍内部で地下工作を進め、マラヤ共産党の指導するマラヤ人民抗日軍のマレー人部とも連絡をとった。さらにパハン州に組織されたマレー人の地下抗日運動組織ワタニアと英軍がセイロンから送りこんできた一三六部隊との連絡もとり、連合軍がマラヤに進攻してきたときに内部から呼応して日本軍と戦う準備をおこなっていた。マラヤの民族主義者たちが日本軍をけっして信用していなかったことがわかる。
 日本軍に引き立てられたマレー人が、日本がマレーシアを独立させたかのように言うのを引いて、それがマレー人全般を代表するもののように主張する論者もいるが(たとえば、土生良樹『日本人よありがとう』)、マレー・ナショナリズムを掲げた運動への対応は上述のようであり、そこに日本の植民地主義的性格がはっきりと示されている。

三 開戦の口火を切った部隊のその後

 コタバル上陸をおこなった侘美支隊は第一八師団第五六連隊(連隊長那須義雄大佐)を主力とする部隊だった。マレー半島での華僑虐殺というと広島の第五師団が知られているが、第一八師団もその部隊だったことを忘れてはならない。
 第一八師団は一九三七年九月久留米で編成され、まず第一〇軍の下で杭州湾に上陸して南京攻略戦に参加、途中、南京に行かず杭州を攻略した。その後、中国各地を転戦したのちマレー戦に参加した。第一八師団は、第五師団と同じ二月二一日第二五軍命令を受け、ジョホール州の治安粛清にあたった。師団司令部は州中央のクルアンに位置し、第五六連隊は西海岸のバトパハに移駐した。三月末までここで粛清にあたり、四月二日シンガポールを出発してビルマに向かった。バトパハでの約一か月について『菊歩兵第五十六連隊戦記』は「所命の任務に服した」と一言で片付けている。

 バトパハはその郊外のスリメダンに石原産業の鉄鉱山があるなど日本人が早くから関わっていた町である。シンパン・キリ川を利用してバトパハに運ばれた鉄鉱はここで積替えられて日本へ運ばれていた。
 一九四二年三月このバトパハとその周辺(バトパハ郡)で日本軍がおこなったことを『華僑殉難義烈史(峇株之部)』(バトパハ中華公会、一九四七年)によって紹介したい(許雲樵・蔡史君編『新馬華人抗日史料』で補った)。
 二月二六日まずバトパハ西北の町パリスロンで三百人余りの男子が検挙され、四つのグループに分けられて、順次連れられていった。李裕厚氏は第三のグループにいれられ、ゴム園の方に連れていかれた。そこには溝が掘られていて、その前で手を縛られたまま銃剣で刺されていった。
 翌二七日バトパハの各組織の幹部約一六名が日本軍によって招集された。そこである軍人が演説をした。
「おまえたちは籌賑会(日中戦争下、献金や宣伝など抗日救国運動をおこなった華僑の団体 筆者注)のメンバーであることは明らかだ。おまえたちは毎月三セントずつ献金してきたが、その金で中国政府は毎月一〇発の銃弾を買うことができた。その一〇発で三人の兵士を殺すことができる。みんな、生きて帰りたいならば抗日分子の名前を五人ずつ言え」というような内容だった。しかし幹部たちはそんなことはできないと言って拒否したところ拘束され、拷問を受けた。さらにムアの領袖一〇数人やバトパハ付近の救国運動をしていた者たちも捕らえられてきて、あわせて五十人余りになった。

 三月一七日この領袖たちは二台の車に乗せられ、バトパハから東のセンガランの方に向かい、その三・五マイル地点と五・五マイル地点のそれぞれのジャングルの中で機関銃で撃たれ、さらに銃剣で刺されて殺された。五.五マイル地点の方に入っていた周細粒氏は傷を受けながらもなんとかそこから脱出した。ほかに二人が脱出したがいずれも傷がもとでまもなく死去した。
 ベヌでは三月六日日本軍が住民を男女に分け、男たちは市場に、女子供はマレー人学校などに集めた。男たちは縛られて、五〇人くらいずつまとまって各所に連れていかれ、機関銃で撃ってから銃剣で刺し殺された。女子供は翌七日朝、服を全部脱がされてから刺殺された。ベヌの虐殺の犠牲者は約一千人といわれている。
 三月九日にはベヌの近くのレンギで一二〇人ほどが捕らえられて市場に集められた。そこから車でスンガイブサーに連れていかれた。生き残った張存平氏の証言では、その車に男装した女性や老婦人もいたという。スンガイブサーで、両手を後ろで縛られたまま二つに分けられてヤシ園に連れていかれ、そこで機関銃で撃たれてから刺し殺された。張氏は三か所に傷を負ったがかろうじて生きのびることができた。

 戦後の籌賑会の調査によるとバトパハ郡で日本軍によって殺された者として、男四五六人、女一二〇人、未成年男一三七人、同女一一七人、不明三人、計八三三人を確認している。バトパハ郡の犠牲者数は全体で千数百人とも三千人ともいわれている。 
 第一八師団の粛清行動の全体像がわからないのでこれらの粛清がすべて第五六連隊のものかどうかはまだ確認していないが、マレー半島一番乗りをはたした部隊がジョホール州でこうした華僑虐殺をおこなったことは疑いようがない。
 なお第一八師団はまもなくビルマに向かい、ビルマで敗戦を迎える。ビルマでは英・中国軍との戦闘や飢えにも苦しめられ多くの犠牲を出している。このビルマで第一八師団の第一一四連隊が、村民が英軍の手引をしたといって女性子供も含めた二七人を壕に閉じ込め手榴弾を投げ入れて虐殺した事件があったことがわかっている(三浦徳平ら『一下士官のビルマ戦記』、吉見義明『草の根のファシズム』)。

 ところでマレー戦の時の第一八師団長は牟田口廉也中将である。彼は一九三七年の盧溝橋事件のとき支那駐屯歩兵第一連隊長として現場で指揮にあたり、事件拡大のきっかけを作った人物である。そしてマレー戦後はビルマで第一五軍司令官になり、インパール作戦を実施、作戦中止を主張した師団長を三人も解任して作戦を強行し、多くの犠牲を出した人物でもある。
 この第一八師団(ならびにその関係者)の歴史を見ると、日中戦争の口火を切った盧溝橋事件、南京攻略戦、太平洋戦争の口火を切ったコタバル上陸、戦争末期の断末魔の日本軍を象徴するビルマ戦線、と一五年戦争の節目に登場してくる。コタバル上陸は、中国侵略とマラヤの華僑虐殺を繋ぐ結節点でもあり、その果ては日本軍兵士そのものが消耗品として棄てられていったビルマ戦線にもつながっている。

おわりに

 太平洋戦争の口火を切ったマレー半島(コタバル)上陸を手がかりにそこからつながる問題を見てきた。真珠湾からではなく、マレー半島(東南アジア)から見ることによって日本がおこなった戦争の性格とその加害の重層的な構造が見えてくるのではないだろうか。