ビルマの慰安所と商社ー旧日本軍の新史料

                     『週刊金曜日』第61号、1995年2月10日

                           林 博史


ビルマにおける慰安所の旧日本軍の公式の資料はこれまで見つかっていませんでした。ビルマは戦争末期にイギリス軍が攻め込んできたので、イギリスが持って帰ったのではないかと考え、イギリスで資料を探したところ、ロンドンにある大英帝国戦争博物館Imperial War Museumの史料部の資料のなかからいくつかの関連資料を見つけることが出来ました。その資料をもとに日本軍慰安所とそれを使えるように軍から便宜をはかってもらっていた商社との関係について書いたものがこれです。  2000.6.8


 現在、日本政府は「従軍慰安婦」問題について、民間募金を集めそこから「見舞金」を出すことによって決着をはかろうとしており、これが内外から厳しく批判されている。昨年八月に首相談話の中で「平和友好交流計画」が打ち出され、「過去の歴史を直視するため」の「歴史研究支援事業」やアジア歴史資料センターの設立などが上げられた。しかしこの「平和友好交流計画」の内容をくわしく見ても、「従軍慰安婦」問題の調査、真相の解明にかかわるような項目はまったくなく、一般的な研究交流でしかない。
 「従軍慰安婦」問題については、国内でも警察や法務省などの資料が公開されていないし、海外の史料調査や関係者からの聞き取り・史料収集などやるべきことはまだまだ残っている。にもかかわらず日本政府は真相解明はもう棚上げし、民間募金でけりをつけてしまおうというのである。

 さてアメリカの日本軍関係史料については、研究者やマスコミも注目をし、「従軍慰安婦」問題についてもいくつか貴重な史料が見つかっている。しかしイギリスについては手がつけられていなかった。ビルマやマレー半島などは元イギリスの植民地であり、戦争末期にはイギリス軍がインドからビルマに攻め込んできた。さらに日本の敗戦後には、マレー半島やインドネシアなどに上陸し日本軍の武装解除にあたったことから、これらの地域の日本軍関係史料をイギリスが持っていることは十分に予想された。昨年の夏に私が訪英した際に、マレー半島の華僑粛清=虐殺などに関する史料とともにビルマにおける日本軍慰安所に関する史料も見つけた。ここではこの慰安所に関する史料について紹介したい。

 ビルマについては、これまで慰安所に関わる旧日本軍の公文書はまったく見つかっていなかった。多くの旧日本軍史料が所蔵されている防衛庁防衛研究所図書館からもビルマ関係は報告されていない。もちろん日本軍関係者や慰安所の業者、元慰安婦の方々などの証言によりビルマの各地に日本軍の慰安所が設置されたこと、ビルマ人女性の慰安婦もいたことなどは明らかだったが、公文書の裏付けがなかった。そのためか、日本政府が一九九三年八月に発表した調査結果「いわゆる従軍慰安婦問題について」(内閣外政審議室)においては、「慰安婦の出身地」の中にビルマが入っていなかった。つまりビルマ人慰安婦の存在を日本政府は認めていないのである。

 今回発見した史料はロンドンのインペリアル・ウォー・ミュージアム(大英帝国戦争博物館)の史料部に所蔵されている文書である。おそらくビルマ戦線でイギリス軍が日本軍から没収したものと推定される。
 この史料の表紙には『昭和十八年 諸規定綴 第三六二九部隊』と書かれていた。第三六二九部隊とはビルマ中部の都市マンダレーに駐屯していた野戦高射砲第五一大隊のことである。この綴りの中には、マンダレー駐屯地司令部などが定めた様々な規定が綴じられている。その中に慰安所に関するものが四点あった。交通の要衝であるマンダレーは日本軍の補給・集積・輸送の拠点であり、兵站など後方関係の部隊が駐屯していた。

 最も興味深い史料は、一九四三年五月二六日マンダレー駐屯地司令部が定めた「駐屯地慰安所規定」である。これは全二三条、別紙三枚からなる規定である。これまで中国、フィリピン、マレー半島、沖縄などでの慰安所規定が見つかっているが、それらと比較して特徴的なことは、商社員らに慰安所利用の特別な便宜を図っていることである。まず関連する条項を紹介しよう。

 第二条 慰安所ハ日本軍人軍属ニ於テ使用スルヲ本則トスルモ軍人軍属ノ使用ニ支障ヲ与ヘサル限度ニ於テ左記各項ヲ厳守ノ上当分ノ中「マンダレー」在住ノ日本人ハ二四・三〇以降ニ限リ特ニ登楼ヲ許可ス従ツテ二四・三〇以前ニ於ケル立入リハ之ヲ厳禁ス
       左記
1.軍人軍属ノ遊興ヲ妨害セサルコト   
2.規則ニ違反シ又ハ風紀ヲ紊スカ如キ行為ヲナサゝルコト
3.登楼時刻以前ニ於ケル予約を厳禁ス
4.料金ハ総テ将校ノ額トス
5.前各項ニ違背セル者ニ対シテハ許可証を引上ケ爾後立入ヲ禁止スル外其ノ行為ノ如何ニ依リテハ其ノ商社ハモトヨリ日本人全部ヲ禁止スルコトアルヘシ
 但シ奥地等ヨリノ来縵者ニシテ右ノ時間以降ニ登楼シ得サル特別ノ事情アルモノニ限リ日本人会長ハ自己ノ責任ヲ以テ其ノ都度予定時間資格氏名等ヲ記入セル証明書ヲ本人ニ交付シ之ヲ楼主ニ明示スルニ依リ開業時間内適宜登楼スルコトヲ得

 日本軍の慰安所であるから軍人軍属の使用が原則であるが、民間人、特に規定中にも出てくるように商社の社員にこのように特別の便宜を図っている。別紙第一には「慰安所使用時間及ヒ遊興料金」が記されているが、その「備考」には「商社関係者ハ規定第二条を厳守スルモノトス」と記されており、第二条で想定されているのは主に商社員と見られる。但書きにもあるように、マンダレーには多数の日本企業が進出してきており、中北部の各地での活動の拠点になっていたと見られる。そうした奥地の企業活動から帰ってきた商社員たちには特別の便宜を図って、規定時間以外でも利用させていることがわかる。このことは軍と商社との結びつきの強さをうかがわせる。この慰安所規定を定め、管理していたのは軍の物資の調達補給輸送などを担当していた兵站部隊であり、この兵站と商社の結びつきが強いことは十分に想像できる。

 ビルマは日本軍政下におかれ、一九四三年八月に形だけの「独立」をしたが、実質的に日本軍の占領下にあった。軍の下で日本企業が進出して重要な役割を果たした。軍は各事業ごとにいくつかの企業を指定して担当させた(以下『緬甸軍政史』『終戦時に於ける南方陸軍軍政地域事業記録表』防衛庁防衛研究所図書館所蔵、参照)。

 マンダレーに関わりがありそうな事例をいくつか紹介したい。たとえばビルマ物資配給組合が組織され、そこで砂糖・塩・石炭・マッチ・タバコ・繊維製品・雑貨類などを扱った。この配給組合は当初、三井物産・三菱商事・日本綿花(のち日綿実業)・安宅商会・三興の五社で構成され、のちに東綿・江商・千田商会・鐘淵商事・丸永・大丸が加わって一一社で構成された。この配給組合の下に金塔商会・東洋商会・大原商会など一一社が卸商として配給に関わった。配給組合の支部の一つはマンダレーにもおかれていた。
 米の買付・集荷・保管・積出しは、日本ビルマ米穀組合(三井物産・三菱商事・日本綿花の三社で構成)が担当した。綿花の栽培・集荷・綿花工場の経営には、日本綿花栽培協会(日本綿花・江商・富士紡績・中央紡績の四社)があたり、マンダレー地区は中央紡績が担当した。木材の開発・製材・配給は日本ビルマ木材組合(三井物産・三菱商事・日本綿花・安宅商会の四社)が担当し、マンダレー地区でも四つの製材工場を経営した。
 ほかにマンダレー地区では、高砂麦酒がビール工場(のちに物資不足のため味噌・醤油工場に転業)を、日南農林工業がマッチ工場を経営していた。またこのマンダレー地区での皮革なめし用のタンニン材料の買い付けは三菱商事が担当、原皮の開発・改善については兼松商店が担当し、日本原皮に売却していた。
 マンダレーから北東に入ったボードウィン鉱山は、鉛・亜鉛・銅などを産出する重要な鉱山で軍直営になっていたが、実態は三井鉱山が運営していた。ほかに各地の鉱山や工場などの経営が日本の企業に委託されているがここでは省略する。

 このように様々な物資の買い付けや配給、事業経営に多くの商社をはじめ日本企業が関わっていた。ビルマでは三井物産・三菱商事・日本綿花が深く食い込んでいたように見られる。これらの商社員たちの中で、中北部にやってきてマンダレーに立ち寄った者も多かっただろう。その彼らは軍慰安所利用の便宜を受けられる立場にあった。

 ビルマ軍政を担当した第一五軍司令官だった飯田祥二郎は、戦後ビルマ軍政を回顧した中で、イギリス人所有のもの(いわゆる敵産)や管理者のいなかった事業は、軍が自ら経営するか「日本商社に委任経営」させたと述べたうえで、そのことが「日本人商社跋扈の下地を作ったようなものである」と嘆いている。さらに「彼らはビルマに在る利権は之を日本人の手に入れ、将来に亘り之を経営して行くものだとの基礎観念の上に立ち」、「ビルマ経済力増進強化のため、逐次ビルマ人にその力を持たせるように考慮を廻らすというようなことは、全然念頭にないというてもよい。このような日本人がどんどん進出してきて、各方面で威張りちらして働き出すのだから、ビルマ人の頭にこれが何と映ったであろうか」と述べている(『史料集南方の軍政』)。
 この回想は商社や軍政官に責任を転嫁している傾向が強いので割り引いて受け止める必要があるにしても興味深い記述である。
 商社が軍との関係を活用して慰安所を利用していたとするならば、当然、その責任も共有されなければならないだろう。軍と結びついてビルマから経済収奪をおこなったこととともに。

 もう一つ興味深い史料は、一九四五年一月二日にマンダレー駐屯地司令部によって制定された駐屯地勤務規定の中に別紙として付けられている慰安所の一覧表とその地図である。「軍指定軍准指定食堂慰安所」と題された表には、飲食店八店とともに軍指定慰安所五軒と軍准指定慰安所四軒が掲載されている。ここに慰安婦の出身を示すと見られる項があり、指定慰安所の一つは「内地人」がおり「将校慰安所」となっている。残りの指定慰安所は「広東人」のもの一軒、「半島人」(朝鮮人)のもの三軒となっている。准指定の四軒はいずれも「ビルマ人」であり、そのうち一軒は「ビルマ兵補専用」と記されている。つまりこれら九軒の慰安所には日本人と朝鮮人だけでなく、中国の広東からも慰安婦として連れてこられ、また現地のビルマ人も慰安婦にされていたことがわかる。
 兵補とは日本軍が補助兵力として占領地の住民から採用したもので、日本軍の下請けをする植民地軍のような存在である。そのビルマ人兵補にも慰安所を設けていたことがわかった。

 ところでこのイギリスで発見した史料に関連する史料を調べたところ防衛庁防衛研究所図書館にこの『諸規定綴』を持っていた野戦高射砲第五一大隊の『陣中日誌』が所蔵されていた。この中にも少しだが慰安所に関する記述があった。たとえば、一九四三年一二月二一日の項には「林第三六二九部隊日日命令」の中に「巡察勤務」における「着眼」として「食堂及慰安所等ニ於ケル行動」があげられている。つまりマンダレーに慰安所があり、これが巡察の対象になっていることを示している。こうした記述が数件あったが、これまでの政府の発表した「従軍慰安婦」関係史料には含まれていない。わずかな記述なので政府調査の際に見落としたのだろうが、ビルマに関する日本軍史料がまったく見つかっていないだけに日本政府の真相解明に対する姿勢に関わるのではないだろうか。

 「従軍慰安婦」問題については、まだ解明されていないことがあまりにも多い。徹底した真相解明は、責任ある謝罪と補償にとって不可欠の課題である。

  ※なおマンダレーの駐屯地慰安所規定などイギリスで発見した史料四点については、 「日本の戦争責任資料センター」の機関誌『季刊戦争責任研究』第六号(一九九四年一二月)に全文を掲載しているのでご参照いただければ幸いである。