日本はアジアの友人か

藤原彰ほか編『日本近代史の虚像と実像 4 降伏〜「昭和」の終焉
大月書店、1989年、所収

林 博史


 マレー半島における日本軍の華僑虐殺についての新資料を見つけ、東南アジアへの侵略について書いたり、話しはじめた頃、この原稿の話がありました。まだ太平洋戦争における日本軍の問題を研究しはじめたところで、現在の問題まで含めて論じるのは荷が重いと躊躇したのですが、大月書店の編集者であった中川さん(現在、大月書店社長)と話をして、自分の勉強のつもりで、引き受けたことを覚えています。いい機会を与えていただいて、あらためて感謝しています。書いてから10年たって、状況はかなり変わってきていますが、現在でも通用する内容が含まれていると思っています。なおこの本は全4巻のシリーズでおもしろいものがたくさん含まれていますので、どうぞご覧下さい。
 ところでここにも書いたARE社は、反対運動の成果もあって、その後、操業を停止しました。しかし放射能による被害は続いており、支援運動はいまも継続しておこなわれています。  1999.6.29


 「ジャパン・アズ・ナンバ−・ワン」ということばが一時流行したことがある。ナンバー・ワンは依然としてアメリカであるにしても日本の経済は世界の経済に大きな影響力をもっている。とくにアジア のなかでは経済援助、資本投資、貿易などの関係で日本が最大の相手国であるという国が多い。
 そうした経済力を背景に、日本政府はサミットにいくときなど、あたかも日本がアジアの代表あるいは指導者であるかのような顔をしてでていくし、マスコミもそのように書きたてる。私たちもいつのまにかそんな気分になってしまっている。
 しかし、アジアへの侵略戦争が終わって四十余年、いま日本はほんとうにアジアの一員として、アジ アの友人として、うけいれられているのだろうか。日本の世界への「貢献」の必要性が声高に語られて いるいま、あらためてそのことを考えてみたい。

   告発される日系企業の公害輸出

 マレーシア北部のペラ州イポー市郊外で、マレーシアでははしめてといわれている外資系企業に対す る公害反対運動が行なわれている。企業側は「われわれはマレーシア経済に貢献している」と主張して いるのに対して、住民側は「日本でできない工場をなぜここにつくったのか」と真っ向から対立し、裁判にまでもちこまれている。
 この企業はアジア・レア・アース社(ARE社、社長は日本人)で三菱化成が三五%出資して設立され た合弁企業である。ARE社はすず鉱山のあとにふくまれているモザナイトから希土類を抽出、精製している。この希土類は電子製品などに欠かせない貴重なもので、この工場でつくられたものはすべて日本 かヨーロッパヘ輸出されている。ところがこの処理の過程で核原料物質であるトリウム二三二を水酸化 トリウムとして含む放射性廃棄物が大量にだされる。マレ−シア政府はこのトリウムを将来、核燃料と して利用することを考え、この廃棄物を貯歳するようARE社に指示していた(トリウムをつかった原子炉はまだ実用化していない)。

 ARE社は一九八二年八月に年末までの試験的操業を許可されたが、正式の許可なしに翌年以降も操業 をつづけた。正式の操業許可は廃棄物の貯蔵場が建設されてからだされることになっていたので、ARE 社は工場の近くのパパンに八三年秋よりその建設に着手した。これが問題の発端となった。貯蔵場建設 を知ったパパンの人たちがまず反対の声をあげた。貯蔵場といっても大きな溝をはって(大きなもので、 長さ六五ノートル、幅八メートル、深さ四・五メートル)、そこにコンクリートをぬっただけのきわめ てずさんなものでしかなかった。この反対運動のために建設は八四年六月に中止された。
 しかし貯蔵場が建設きれないにもかかわらず工場は操業をつづけ、放射性廃棄物はつぎつぎとうみだ されていった。そのためブキメラにある工場じたいが問題としてとりあげられるようになってきた。ブ キメラの人たちもパパンの運動によって自分たちの村にある工場の問題を知ったのだ。廃棄物は工場の そばに仮の貯蔵場をもうけてそこに置かれていた。だがその貯蔵場のそばには池があり、川が流れてい る。そこにプラスティック袋にいれただけで露天に放置していた。野積みされた袋の一部は破れ、なか の廃棄物が散乱していた。散乱した廃棄物は水で川に流きれていたという。八四年までは柵もなく、誰 でも自由にはいれた。

 この廃棄物は一九八四年末までに三〇〇トンにのぼった。廃棄場の外側では世界の平均的な自然放射 線量の七〜四八倍の放射線が検出され、そばの野菜畑でも八倍の放射線が検出された。一般公衆の線量 限度は五倍までであり、それを大きくこえていた。また工場内ではたらいている作業者の被曝線量を計 測したところ、年間をとおせば、放射線作業者の許容線量をこえていることも考えられうる量になった。 にもかかわらず工場では放射線管理はまったく行なわれていなかった。その後廃棄物はドラム缶につめ かえられたが、状況は変わらず、国際原子力機関から派遣された三人の専門家の報告書は「現在の水酸 化ナトリウムの廃棄物の山はただちに撤去すべきである」と勧告している。

 この間廃棄物は仮貯蔵場にすべてが置かれていたわけではなかった。トラック会社のマネ−ジャーは、 ARE社から廃棄物は肥料になるといわれ、トラックで運んで道のそばなどに捨てたと証言している。 彼はまた廃棄物をドラム缶にいれる作業をARE社からいわれて行なったが、部下が体中やけどをして皮が むけてきたこともあってやめたという。また近くの住民は「私は廃棄物が肥料として使えると聞き、マ ンゴの木にやろうと一袋もち帰った。雨が降れば廃棄物が土にしみこむだろうと思い、木の幹のそばに おいた」とも語っている。

 また妊娠中の女性が工場ではたらいており、その女性が産んだ子は、全盲で体がぐにゃぐにゃで三歳 半になっても立つことができず、ことばもしゃべることができないという。地元の医師は裁判のなかで、 村の女性の死産・流産が高いこと、プキメラの子ども四四人全員から有害なレヴェルの鉛が検出された こと(鉛はトリウムといっしょに廃棄物としてでてくる)など付近の住民に健康被害をあたえているこ とを証言している。
 ブキメラの八人の住民は、一九八五年二月にイポ−高等裁判所に訴訟をおこし、一一月操業停止と投 棄場改善の命令をかちとった。だがその後貯蔵場に倉庫がたてられ、べつの地に貯蔵施設の建設がはじ まると八七年二月にARE社は、原子力安全局の許可により操業を再開した。そのため、住民側は操業停 止、廃棄物の撤去、損害賠償などを要求して、裁判がつづいている。
 裁判のなかでARE社は放射能の影響はないと否定し、「将来ハイテクが発展すればARE社は資源とハイ テクのかけはしになれる」とその経済的貢献を主張している。だがARE社が生産している希土類を必要 としているのは日本などの電子産業である。日本はこの精製処理を一九七一年まで国内で行なっていた が、公害問題のため、国内での処理をやめている。つまり国内ではできないことをマレ−シアでやって いるのだ。資源は確保しながらもやっかいな廃棄物は現地に押しつけるという日本の姿勢がみえてくる。

 ペナン消費者協会の機関紙“UTUSAN KONSUMER”は「なぜその廃棄物を日本へ船でもっていかないのか」と疑問を呈し、「もっとも簡単な解決法は、イットリウム(希土類)を輸入している国のひとつ、 たとえば日本に工場を移転することである。マレーシアは、新しい国でその廃棄物を貯蔵することので きる工場にモザナイトを輸出することもできるだろう」と述べている。
 ペナン消費者協会などマレーシアの四つの市民団体がだしたアピール(一九八七年七月一三日はその最後に次のように述べている。

  「日本ではARE社のような企業が操業を認められることは公衆衛生的見地からもありえないことだと思います。同様にマレ−シアの人びとの生命も平等に評価されるべきです。人間の生命は二重の基準で判断されるべきものではありません。」

 マレーシアの経済に貢献しているというARE社側の主張は、人びとの立場にたってみたとき、色あせたものにしかみえてこない。

 ペナンの詩人のなげき

   田んぼを見張っていた
   物いわぬかかしは姿を消し
   何マイルも波打っていた稲田に
   今は外資系電子工場が
   領主然と陣取っている   
   ヒタチ氏やポッシユ氏が  
   工場廃棄物を大空に吐き出す
   産業の巨人たちは秘密諜報員のように
   殺しのライセンスを持つのだ

   どこへ行っても同じ話
   投げられたナイフのように
   開発がつき刺さる   
   村を訪ねれば   
   卵や野菜の供給者だった小農民が  
   観光業者に身売りさせられ  
   ホテルボーイになり   
   娘はホステスになる

 東洋の真珠といわれているマレ−シアのペナンに住む詩人セシル・ラジェンドラの詩「観光客・トランジスタ・石ころ」の一部だ。マレ−シアはほかのアセアン諸国と同しように外資導入による工業化政 策をすすめている。マレ−シアにとって日本は最大の投資国であり、また最大の貿易相手国である。町には日本製の自動車やパイク、電化製品があふれかえり、各地の工業団地には日系企業が看板をならべ ている。ペナン島の東南岸とその対岸のプライの工業団地からの汚水によってペナンの海は、観光ツァ −のパンフレツーにあるような面影はなくってしまった。工業団地のなかの水路はまさに「どぶ」だった。

  川よ
  工業化を急ぐあまり
  喉をしめあげられ  
  死んでゆく川   
  だれもみとろうとしない

  川の魚よ  
  進歩の吐き出すへドに  
  毒され   
  死んでゆく魚  
  だれもみとろうとしない

  そして   
  かつては誇り高かった村よ
  何世紀も     
  この川の豊かさに支えられてきた村は
  今死んでゆく   
  だれもみとろスノとしない     
                  (セシル・ラジェンドラ「クアラ・ジュルー――ある村の死」)

 プライ工業団地のそばの漁村、「この川」の河口にあるクアラ・ジュルーでは魚がとれなくなった。 その後、赤貝の養殖に成功しなんとか村をささえられるようになった。赤貝ならまだ大丈夫だというの だが、もっとよごれるとそれもだめになってしまったという。日本でみる赤貝より小粒のこの貝はハー フ・ボイルしてナイフで穀をこしあけて食べるとじつにおいしい。タイやシンガポールなどに輸出されているという。

 マレーシア政府は、外資系企業では女子の深夜労働をみとめ、いっぼう外国の電子機器企業の全国的 労働組合の結成をおさえつけている。それをいいことにペナンの日立半導体製造工場では「私たちは組 合をつくりたくありません」という署名に応しれば年末一時金を三カ月分支給するが、応しなければ一 力月分しかださないと労働者に通告した。ナショナル半導体工場では、組合をつくったら解雇して、ブ ラックリストにのせてまわすという脅しが旬行われている(「マレーシアの日本企業でいま」、『赤旗』 一九八九年二月二八日―三月四日。安い労働力を利用し、公害をたれながしながら、反発する人びとを 政府と一体となっておさえつけようとしている。ARE社をめぐつても一九八七年一〇月に住民の指導者が 逮捕され、工場のむかいにたてられていた住民たちの団結小屋が撤去された。最近、マハティール政権 と日本企業の癒着が問題になりはじめてきているようだ。

 ペナンは観光の島でもある。外国からの観光客によって外貨がおとされ、地元の人たちにも雇用の場 が提供きれ・文化交流にもなるといわれる(以下、『第三世界の観光問題」より)。はたしてそうだろ うか。 ツァーが利用する航空会社、ホテル、レストラン、免税品店などは外国資本によって経営されている。 ホテルの収入の四〇%から場合によっては七五%以上がホテル・チェーンにすいとられるとみられている。雇用もわずかでパートなどが多い。先に紹介した詩にもあるように農民や漁民だった人たちがホテルボーイやウェイターになり、娘はホステスや売春婦になる。踊りや儀式は観光のみせものとなる。

    観光客がやって釆て
    おれたちの文化は窓からポイ
    おれたちの儀式はサングラスとソーダ水に
    神聖な儀式が  
    一〇セントのストリップ・ショーになっちまった  
                              〈セシル・ラジェンドラ「観光客がやってくる」より)

 観光客むけに異国情緒たっぷりにゆがめられたショーは文化交流どころか、偏見を増長させているの ではなかろうか。海岸はホテルのプライヴェード・ビーチになり、観光地から地元住民はしめだされる。 そしてホテルの排水は自然破壊に一役かっている。
 マレーシアのことは日本でははとんど報道されないし、おもてだって激しい日本批判がされているわ けでもない。しかし日本が行なっていることはフィリピンやインドネシアなどのほかの東南アジア諸国 で行なっていることと変わりはない。

  「顔のない」関係

 インドネシアにきてよかったと思うとき、という質問に対し、「お父さんは、『毎日あのこんぎつし た電車このらなくて、運転手つきの車にのって行かれるし、帰りも早く、みんなといっしょに食事もできる日が多い。ゴルフにも、たくさんいかれる。」
 お母さんは、『……だから勉強になるしテニスは夜 もできる。お客さんが来ても、あとかたづけは、女中さんがやってくれるので、お母さんはなにもしな いでねることができる」と答えました」とある生徒が書いたという(「マンゴウの実る村から」)。
 毎月の家賃だけでインドネシア人の年収の何倍もする家、かつてのオランタ植民者やいまのインドネシア の上流階級の住むような家に日本の商社マンたちは住んでいる。二、三人の女中や運転手をやとうのはあたりまえだ。その夫人がたは女中を「家に泥棒を飼っているみたい」といって、冷蔵庫に鍵をかけたり、卵に1、2、3と番号をつけたり、女中を「試すつもりで、いくらかをサイドボードの上に、何週間も、わざとそのままにしておい」たりする。「義理とか恩などは無縁です.同じ人間だからというよう な同情や勝手な信頼を寄せてはいけません。まして何かを期待するなどとんでもないことです」と決めつける。日本からきた夫人に会って、「いつも色の黒いインドネシア人と、陽に焼けた日本人ばかりをみなれている中で、その方の色の白さ、肌の美しさ・そしてやさしさが印象的でした」といってはばからない (谷口恵津子『マダム・商社』学生社、一九八五年)。

 その子どもたちにしても彼らの接するインドネシア人とは、女中や運転手であって、インドネシア人 と遊んごことがないという生徒が半数をこえるという。おぼえても「役にたたない」インドネシア語を 学ばせようとする親ははとんどいない。

 話は戦前にとぶが、こんな話がある。 朝鮮で生まれそだった高雄は、小学校六年のときはじめて「内地」にきた。高雄は、赤帽さんが日本人であること、「ごつごつした手、そで口のすり切れた服」をきた弁当屋さんが日本人であることに「へんな感じ」をおぼえた。鉄道の沿線で、くわをかついだおじさんやかごをしょって、つぎのあたったモンペをはいていたおじさんをみて、「まるで、朝鮮人とおんなじに、そまつなかっこうだ」と思った。 なぜなら朝鮮では「そんな仕事はみんな朝鮮人がやっていた」からだった。
 これは中国の青島で生まれ、朝鮮でそだった児童文学者斎藤尚子の書いた「人ちがい」のなかの話だ (「『消えた国旗』岩崎書店、一九七二年、所収)。

 ハルピン総領事の息子だった鶴見良行も白系ロシア人のある男を思いだすことはできても「満人」はまったく思いだせない「見えない人たち」だったという(鶴見良行『アジア人と日本人』昌文社、一九八○年)。支配者として植民地でくらしたかつての 日本人と今日アジア各地でくらす日本人のあいだにどれほどの差があるのだろうか。

 インドネシアの兵補(南方で現地住民から募集した補助兵)や労務者は上官にあたる朝鮮人軍属や日 本兵の名前をよくおぼえているが、逆の場合は固有名詞がでてこないという。つまり上から下への関係 は「顔のない」関係なのだ。また高校教料書詳説世界史」(山川出版社)には東南アジアにかぎって「現 地人」ということばがつかわれているという(『日本人と東南アジア』。「南洋の民を一律に土民といい、東南アジアやアフリカの民は一律に現地人というその一律さは、個別認識がないという点で、まさに漢字が一つふえたというにすぎない」(小泉允雄「日本とアジア」、『新アジア学』)。

 アジアといってもとりわけ東南アジア(とひとつにくくるにはあまりに多様な地域なのだが)とは、 日本人にとって「顔のない」関係だ。侵略の記述を書きかえさせた教料書問題でも、もっばら中国と韓国からの批判ばかりがとりあげられた。東南アジア各地からの批判ははとんど紹介されなかったし、そ れ以上に問題なのは、東南アジアへの日本の侵略についての記述がそもそもほとんどなかったことだ。 侵略かどうかという以前の段階なのだ。そのことはいまでも変わっていない。だから、マレーンアの人たちが教科書問題に怒りをもち、日本軍による住民虐殺の事実を記述し、犠牲者の記念碑をたてるとりく みを行なっていたことが日本で紹介されるようになったのはつい最近のことでしかない。

 日本人のアジア認識、あるいはアジアに対するかかわりかたは、中国や韓国など東アジアに対するの と東南アジアに対するのとでは大きな差があるように見える。日本人のなかでやはり戦争に対するそれ なりの反省があって、中国や朝鮮については研究も行なわれ、国民のあいだでの関心もある。それはこ れらの国が隣国であり、長期にわたって苛酷な植民地支配を行なったり、戦争で最大の犠牲者をあたえた国ぐにであるから当然のことだといえる。ただそれにしても、東南アジアへの侵略がほとんど無視さ れてきたことは、東南アジアの人びとをより見下していることのひとつのあらわれではないだろうか。それは日本が戦争責任をきちんと総括しなかったという問題につながっている。

   アジアを解放した戦争だったのか

 いまなお太平洋戦争は「アジアを独立させた解放戦争であり、欧米に包囲された日本が自衛のために やったのだ」という議論がまかりとおっている。さすがに中国に対しては「中国を解放するための戦争だった」などということはだれもいえないが、東南アジアに対してはまだ残っている。その根拠として もちだされるのは、日本が「アジア解放」をかかげたこと、占領地で義勇軍を育成し独立精神を喚起し たことなどだ。
 だが日本の政策として「アジアの解放」などという考えはまったくなかった。対英米戦にむけて開か れた何回かの御前会議の決定でも、戦争目的は帝国の「自存自衛」のためだった。そしてそれは中国に 対する侵略戦争をあくまで完遂することとセットだった。
 東南アジア地域を占領する目的は、「南方占 領地行政実施要領」にあるように、治安の回復、重要国防資源の急速獲得、作戦軍の自括確保の三点だった。このなかのいちばん重要なものが二番目の重要資源の獲得だったことはいうまでもない。そのために民生におよぼす重圧をしのばせ、「独立運動は過早に摘発」しないようにする方針だった。占領地の帰属の問題についても、マラヤ・スマトラ・ジャワ・ポルネオ・セレベス(今のマレーンアとインドネ シア)のように資源の豊富なところは「帝国領土と決定し重要資源の供給源」とすることにした(「大 東亜指導大網」)。そして独立させたはうが「得策」と考えたビルマとフィリピンに、かたちだけの独立をあたえたにすぎない。
  「解放」のための戦争だなどといっている人びと自身が「当時、軍も政府もアジアのナショナリズムに 対する認識が薄く、夜郎自大なところがあった」とか、「陸軍統制派が実権を握る大本営には、アジア諸民族の解放・独立という使命感が希薄」であり、ビルマや各地でナショナリズムの高揚に「水をかけた」となげいているありさまだ(ASEANセンター編「アジアに生きる大東亜戦争」展転社、一九八八年)。

 各地の住民をあつめて組織した義勇軍や兵補にしても、広大な占領地域を確保するために日本軍をお ぎなう補助兵力あるいは労働力として組織されたものだ。義勇軍が、戦後独立戦争の中核になり、国軍になったとしても、それは日本軍の意図にはないことだった。義勇軍にあつまった青年たちはみずからの独立のためにそれを利用しようとしたのであって、インドネシアでもビルマでも彼らがたたかった最初の相手は日本軍だった。日本の敗北こそが独立への一歩だったのだ。
 日本軍の東南アジア占領が人びとにあたえた衝撃が大きかったことは否定できない。日本軍が白人の軍隊を打ち破ったことは、独立への自信につながった。と同時に日本軍の苛酷な統治は、彼らに独立への渇望を生みだし、自分たちのことは自分たちで守るしかないということを学んだ。日本軍がアジア各 地で行なった残虐行為、強制労働、民族の主体性をうばう皇民化政策、経済収奪などについてはここではふれない。
 いずれにせよ、日本の戦争目的をみても実際に行なったことをみても、日本がアジアの解放者だったというのは、アジアのなかではけっしてうけいれられない議論だ。だから「親日」的といわれている人びとでも、日本の「軍国主義」の問題にはひじょうに敏感だ。

 ルック・イースト政策をとり日本に学ぼうといっているマレーシア のマハティ−ル首相も、教科書問題について「(日本が)多くの人を殺し、多くの残虐行為について責任があるということを、日本人は理解しなくなる」ときびしく批判しているのはそのあらわれだ(『朝 日新聞』一九八二年八月二七日)。

 義勇軍のことでひとつ考えなくてはならない問題がある。たとえば、ビルマのネ・ウィン、インドネ シアのスハルト、韓国の朴正煕はいずれも日本軍によって軍事教育をうけた軍の指導者であり、またそれぞれの国の大統領になった人物だ。そしていずれも長期軍事独裁政権をきずいている。しかもスハル トと朴政権には日本が経済的にてこいれをし、その癒着が問題になったし、いまもなっている。ネ・ウインが黒幕といわれている軍事クーデター後のビルマにはやばやと経済援助を再開したのも、日本だ。日本の侵略と今日の癒着はこうした点でもつながっているのだ。

   ゆがんだアジア・イメージ

    「貧困・飢餓・食糧不足」一八・六%
    「発展途上(国)・後進(国)・未開発(国)・遅れている」一六・三%  
    「広大・大陸」八・六%         
    「難民」六・五%   
    「黄色人種」五・六%  
    「暗い」三・二%     
    「米・農業」三・一%  

 これは、高枕生のアジア認識にかんする調査のなかの、アジアのイメージについての設問への回答だ (『アジアと私たち』)。そしてアジアは後進国かという設問に対して、「その通り」と答えたのが四〇・一%、「まちがい」と否定したのは三・四%にすぎない。四七・九%は「必ずしもそうとはいい切れ ない」と答えている。アジアはおくれているというマイナス・イメージはいぜんとして根強い。

 高校生に対するべつの調査では、「東南アジアと日本との関係は深いと思うか」という問いに対して、 七割以上の生徒が「貿易」「資源」「技術協力」などを理由に「深い」「多少深い」と答えている(「 資料・生徒と学ぶ日本のアジア侵略)。東南アジアは資源があるがおくれているので、技術協力など援助をするのだという発想だろう。
 日本がアジアの指導国だということに肯定的回答は五七%で、否定的回答の二二・八%を大きくうわまわっている。その指導的側面とは圧倒的に「科学技術面」四二・五%と「経済面」二九・四%だ。 さすがに「政治面」と「文化面」をあげるのはいずれも三%前後と低く(「軍事面」は設問にないが、 あったとしてもおそらくわずかだろう、戦前とはちがう側面がみられるが、「アジアの指導者」意識は否定できない。

 シンガポールの新聞記者卓南生は、日本人に根強い「北人南物」論をすてきらないかぎり、「東南ア ジアとの間に真の友好を打ち建てることはできない」と手きぴしい。「北人南物」論とは、北、つまり 日本には「人」(技術、文化、文明など)があり、南には「物」(天然資源、商品市場、簾価な労働力 と女性など)があるという戦前からの考えかただ(『現代の鎖国』)。

 明治のはじめ欧米を訪問した岩倉具視らの使節団の報告書を分析した田中彰は、東南アジアにかかわってその特徴を次の三点に整理している。第一に、ヨーロッパ文明信仰、第二に、「東南アジアは文 明とは縁のない、怠惰な人々のいるところだとみる「南洋」観」、第三に、「日本を近代化し、富強にするためには東南アジアの資源に目を向けよという東南アジア資源着目論」である(日本人と東南アジア」)。  石油など日本が必要な資源、輸出市場、安い労働力、観光地(青い空、きれいな海、安い免税品、買 春、「エスニック料理」などなど)……、こうした日本人の東南アジア・イメ−ジにはそこで生まれ生活している人びとの息吹が欠けている。

 かつて日本が東南アジアを占領しようとした最大の目的は、重要資源の獲得だった。そのために「反 日」的だとみなした、とくに中国系の住民を最初に徹底的にいためつけた。それがシンガポールの大虐 殺であり、マレー半島での一連の虐殺だった。中国人を同し人間とはみていなかった。そしてそれ以上 に各地の住民を、「土民」「土人」「原住民」と蔑視していた。日本はその指導者になろうとしたのだった。こうした意識を今日の私たちはどれほど克服することができているのだろうか。
 日本企業のアジア進出を肯定的にみる人には、かつての侵略についてあまり問題にしない人が多い。 反対にアジア進出の問題性を考えると侵略の問題も考えるようになるし、その逆の場合もある。戦争中と現在と、日本のアジアに対する見方、関わり方に共通する側面があるからそうなるのだろう。 といって、日本人を一面的に加害者あつかいすることも実態に反する。アジアの人びとを差別する企業 が日本の民衆の健康をも犠牲にしているということも、忘れてはならない。侵略戦争のなかで、虐殺に直接手をくだす役割をあたえられたのはふつうの人たちだし、むだ死にを強いられ、戦争の犠牲になったのもふつうの人たちだ。

 フィリピンのルーペン・アビト神父は次のようにいっている(永井浩『地方の国際化」新泉社、一九八九年)。
 「日本は物質的に豊かになったものの、人間はかえって貧弱になり、心を病んでいるのではないでし ょうか。つまり、第三世界の人びとに対しては加害者である日本人も、こうして自分の社会の中では被害者なのだ、という二重の加害・被害の構造が見えてくる。」

  アジアは日本はアジアの友人か

 朝日新聞が行なった世論調査によると(一九八二年三月実施)、日本はアジアの人たちから「好かれ ている」と答えたのが二〇%に対し、「きらわれている」が五四%もあった。またアジアでの日本企業 の活動は現地の人たちに「歓迎されている」が二七%、「反感を持たれている」四二%となっている( 『朝日新聞』一九八三年一月一日)。この調査は教科書問題の直後だったことも影響しているかもし れないが先の高校生の調査でも同しような回答がでており、どうも日本はアジアからあまりよくは思 われていないようだという認識はかなりあるとみてよいだろう。

 一方、東南アジアの人たちの見方はどうだろうか。外務省が民間に委託して行なったアセアン五ヶ国での対日世論調査(八三年実施『アジアとの対話』付録)では、日本は「信額できる」と 「どちらかというと信頼できる」をあわせると七四%から八七%と高い。日本についてよく知っているものは日本製品、科学技術、企業進出、経済協力などとなっており、もっばら日本の経済進出によるものばかりだ。この調査のサンプルは都市部の比較的学歴の高い層を対象にしているので、庶民の考えを反映していないが、日本の経済力や製品の影響で、日本に対するあこがれが広くあることは事実だろう。
 だが、シンガポールの新開記者黄彬華の発言は興味ぶかい(『毎日新聞一九八五年八月一二日)。

  「日本製」商品はもはやかつての亜流品の代名詞ではなく、きれいで便利なものへとイメージチェンジした。だから日本はすばらしい国、尊敬すべき国ではないか、といった結論に至っている人が増えている。しかしである。日本をすばらしいと感じている一方で、シンガポールの人々は日本におかしい、気味の悪い動きがあると感じているのも、また確かなことである。」

 これにつづいて黄氏は・教科書問題や軍備拡張、靖国問題などを問題にする。そして、「日本は経済大国に発展すればするはど、東南アジアの経済利益を無視し、ギブ・アンドテイクの相互支援の精神を欠いている、と感じるようになっている。日本はアジアの国だけれども仲間ではなく、信頼できる隣人ではない、との結論になってしまう」と述べ、戦争を知らない世代でさえ「日本への不信の念」を 持ちはじめていると指摘している。
 日本製品と日本の「大量消費文化」の洪水が、日本に対するあこがれを生みだしている一方で、 日本を友人としてま信頼できないでいるというのが、一般的なうけとめかたのようにみられる。

「私 が東南アジアに滞在中・東南アジアのリーダーたちが折りにふれて示した、日本に対するハッとする ほどに冷たい態度を忘れることはできないし(彼らはけっして、日本が東南アジアで犯した過去の行 為を忘れていない)、また、東南アジアの人たちが日本に対して認めているのは、ひたすら経済力であり、日本の文化や日本人の態度ではないということも痛いほど思い知らされた」(高橋弘殷『シン ガポールからの報告」日本放送出版協会、一九八○年)という体験は、リアルに実情をついているように思われる。
 現在の日本のなかで、ひとりひとりの民衆がきわめて非人間的な環境におかれている。民衆に非人 間的な状況を強いている日本が、またアジアにいっそう非人間的状況をもたらせている。私たちが人間らしい社会をつくりあげるためにも、アジアの人たちとの「顔のある」関係をつくることが不可欠なのだ。

(注)

*1 以下、『侵略・マレー半島’86』『侵略・マレー半島’87』、市川定夫「放射性廃棄物はおとくな肥料?」、『朝日ジャーナル』一九八六年一二月一九日号、鈴木真奈美「マレーシア三菱化成――住民に健康被害続出」、『パシフィカ』一九八八年九月、朝日新聞一九八九年三月三〇日、など。
 *2 松井やより「第三世界の苦悩うたう」、『朝日新聞』一九八五年一月一一日。次の詩「クアラ・ジュルー」は『魂にふれるアジア』より。
 *3 村井吉敬「日本人が忘れ去ったアジア民衆のわだかまり」、『朝日ジャーナル増刊』一九八九年一月二五日号。

 (参考文献)  

 アジア・キリスト教協議会編『第三世界の観光問題』NCCキリスト教アジア資料センタ−
 板垣雄三・荒木重雄編『新アジア学』亜紀書房、一九八七年 
 内海愛子『マンゴウの実る村から』現代書館、一九八三年
 木村宏一郎編著『資料・生徒と学ぶ日本のアジア侵略』地歴社、一九八六年
 田中彰『日本人と東南アジア』小学館、一九八三年
 卓南生『現代の鎖国』めこん、一九八五年
 東南アジアで考える旅の会編『侵略・マレー半島’87』一九八八年
 松井やより『魂にふれるアジア』朝日新聞社、一九八五年
 村井吉敬・城戸一夫・越田稜編著『アジアと私たち』三一書房、一九八八年
 矢野暢・磯村尚徳編著『アジアとの対話」日本放送出版協会、一九八四年