現代的課題としての日本の戦争責任

『甲斐ケ嶺(かいがね)』第24号、1995年3月

林 博史


 これは1994年12月10日、甲府のリバース和戸で開かれた「戦後五十年・やまなし戦争と平和 ネットワーク」結成の集いで行われた記念講演の要旨をまとめたものです。山梨で出版されている同人誌に掲載されたものです。 講演なので、かなり大風呂敷を広げたものになっていると思います。 1999.5.31


 きょうお話ししたいポイントは三点あります。 一つは日本がおこなった戦争の加害と被害の問題を総体的にどうとらえたらいいかという問題です。 それから、戦後五十年ということの意味ですが、これには近代の日本がおこなった一連の侵略戦争をどう総括するのかという課題と、戦後の五十年をどう総括するのかという問題の両方があると思います。戦後補償という問題がこの数年、表面化していますが、これは戦後補償を抑えてきた要因が戦後政治の五十年の中にあるわけですから、近代の五十年前までの歴史の総括と戦後五十年の総括は関連づけて行わなければならない。それをどう考えるのかが二点目です。それから、日本の戦争責任の問題に取り組む場合、日本の特殊性、例えば日本の天皇制の軍隊はこうであるという議論がされるんですが、単に日本の特殊性の問題として片付けてしまうのではなくて、日本の経験をいかに世界の、あるいは人類の共通の財産として普遍性をもってとらえていけるのかということが第三点です。その三点に留意しながら、私が考えていることをお話ししたいと思います。  

 まず、一九四二年十二月八日に始まった太平洋戦争のことですが―最近、研究者によってはアジア 太平洋戦争と言っていますが―それがマレー半島の上陸から始まったということです。これが日本時間の十二月八日午前二時十五分、一方、真珠湾攻撃はいわゆるトラトラトラというのが発せられたのが三時二十分です。ですから、太平洋戦争は真珠湾攻撃からではなくてマレー作戦から始まったわけです。
 最近、アメリカに対しておこなった最後通牒が現地の大使館の不手際で遅れたと言われていますが、 あれは当初は真珠湾攻筆の三十分前に手渡す予定だったんです。ところが、マレー半島の上陸は正確に は真珠湾攻撃の一時間半前に予定されていました。実際には1時間と少しになっていますが。ですから、アメリカに最後通牒が予定通り手渡されていたとしても、それ以前に既にマレー半島への奇襲攻筆は始まっていたはずです。ですから、あの議論はほとんど意味がないんです。最初からイギリスに対しては 最後通牒を出す意思もなく、全くの奇襲攻撃をしたと言えます。
 これは単に一時間早いというだけではありません。 アジア太平洋戦争の最大の目的は、東南アジアの資源を獲得することです。そのために、軍事的にイギ リス軍の拠点だったシンガポールとマレー半島を占領した。ですから、真珠湾攻撃より、むしろマレ―半島上陸作戦のはうが戦争にとっては重要な戦いだったと言えると思います。この資源を獲得するため の戦いであったということがこの後の話にもかかわってきますので、一応おさえておいていただきたい と思います。
 十二月八日の開戦の詔書に戦争の目的が書いてあります。大学の日本史の入試問題にこれに関する問題が出ました。 六つの選択肢の中から選ばせる問題です。それは@日中戦争の解決A英米帝国主義の放逐B大東亜共栄 圏の建設C自存自衛Dアジアの解放G重要国防資源の獲得、です。みなさんはどう思われますか。あれだけの戦争を自衛という名目でおこなったということは、あらゆる戦争が自衛の名のもとにやれるということになってきます。これは現在の問題を考えるうえでも非常に重要な教訓になると思います。 

 本題に入っていきます。私自身が戦争の問題に取り組み始めたのは沖縄戦が一つの契機です。沖縄の研究者の方々は当然、沖縄戦のことに取り組んでおられますが、本土の研究者で沖縄戦について取り組んでいる者はだれもいないという状況があって、私はやはりこちらの人間もきちんとやらないといけな いということで取り組みはじめたわけです。みなさんご存知だと思いますが、日本軍が随分たくさん沖縄の県民を殺しています。あるいは「集団自決」という形で死に追いやっています。中国で戦ってきた日本の部隊が沖縄に行って、中国でおこなってきたのと同じことを沖縄県民に対しておこなったわけです。ですから、沖縄戦で起こったことは、 それまでアジア各地で日本軍がおこなってきたことの行き着いた先であって、沖縄戦はあくまで結果にすぎないんです。それで、アジアで日本がおこなったことをきちんと見る必要があると考えたわけです。

マレー半島での虐殺

 私は筑波大学付属高校の高嶋伸欣さんという方と一緒にマレー半島に行きました。そして、各地で日本軍 が住民を虐殺したことが分かりました。しかし、その段階ではまだ日本軍が虐殺をしたといっても、な ぜそういうことをしたのか、どの部隊がやったのかは分かりませんでした。ところが、現地に建てられ ている記念碑をよく見ますと、ほとんどの死亡日時が1942年3月に集中している。そこから、組織的に 計画的にやったんだろうということが分かったわけです。  それで、防衝庁の図書館でいろいろ資料を調べたら、虐殺をおこなった部隊の記録が出てきました。 当時、マレー半島には第二十五軍という山下奉文中将が率いる軍隊がおりましたが、その軍の命令、その下の師団、連隊、大隊、中隊の命令が全部つながって出てきたんです。末端の中隊の記録では、何月何日にどこで何人殺したかも記録されています。例えば、マレー半島のネグリ・センビラン州という当 時三十万人ほどの小さな州では四十数力所で四千人余りが虐殺されています。
 日本軍の公式の記録の中には何日に何人殺したとか、あるいは戦闘があればどういう戦闘だったかが 全部記載されているのが普通なんですが、その日本軍の記録によると、虐殺をした間、日本兵に一人の 死傷者も出ていないんです。それだけたくさんの人を殺しながら、銃撃戦もないし一人の死者も負傷者 も出ていない。ということは、無抵抗の人を一方的に殺したということなんですね。その詳しい話は、私が書きました「華僑虐殺」(すずさわ書店)に載っていますので、ぜひ読んでいただければと思います。

 そこで、その部隊が実は広島の部隊であったということが分かりました。広島市の広島城のお掘の内側に護国神社があります。そこに第五師団の司令部が置かれていました。その師団がマレー半島で、当 時は粛清という言葉を使っていますが、華僑虐殺を担当した部隊です。そして、私が出合った日本軍の資料は、歩兵第十一連隊といいまして、広島城のお堀のすぐ東側に本部があった部隊のものです。この第十一連隊は、広島市を含めた広島県の西部から徴兵で集められた兵隊で構成されていました。そして、 第五師団全体は、広島、山口、島根の三県から集められていました。
 マレー半島での虐殺は一九四二年の二月から三月のことですが、それがおそらく太平洋戦争が、はじまって最初の大規模な残虐行為だったと思います。それを広島市を含めた広島の部隊がおこなった。これは偶然といえば偶然なんですが、そこに広島の名前が出てきた。それまでは、広島の部隊がそういうことにかかわったことは、一部の関係者を除いて広島の中ではほとんど知られていなかったんです。
 これは又聞きなんですが、広島市出身の兵士が戦後復員してきて、広島駅前に立って焼け野原を見た時、「これは天罰だ」と言ったそうです。おそらく、その人は自分たちがやってきたことを思い出したんだろうと思います。もちろん、原爆投下は戦争の最終盤に起こった事件でありまして、それまで日本軍がおこなってきたことの一つの必然的な帰結と考えているわけではありません。しかし、マレーシア の家族を殺された人たちがよく言っているのは、われわれは原爆によって解放されたんだということです。この認識は明らかに間違いだと思いますし、アメリカは別にアジアを解放するために原爆を投下したのでもなんでもない。そんなことはもう明らかになっていると思いますが、彼らがそう思いこんでい る原因はやはり日本軍がつくってきたわけですね。ですから、日本がおこなったことをきちんと総括することなしに、あなたの認識は間違っていますよと言っても、これは全然通用しません。本当に原爆をなくすことを訴えるならば、当然日本の戦争責任のことをきちんとしないかぎり受け付けられないでしょう。

  広島は、みなさんご存じのようにもともと軍都として発達した町です。これは日清戦争以来です。日清戦争の時には大本営が広島城の中に置かれて、天皇じきじきに出向きました。そして、中国に送られ た部隊は広島の宇品の港から出て行きました。日清、日露などの一連の戦争は全部そうです。ですから、 そういうアジアへの一連の侵略の歴史の中で広島という町が大きくなり、そして一つの歴史的帰結として原爆があったのではないか。これを、広島に原爆が落ちたのは必然だったというふうにとられると非常に困るんですが、やはり歴史の一つの流れとして、そういう日本の一連の侵略戦争の一つの結果として、原爆投下があったんだろうと思います。日本が加害者になっていったことによって、最後には自分たちが被害者になっていった、そういう関係にあるのではないかと思います。

 加害者と被害音

 別の観点から言いますと、実際にマレー半島で虐殺をおこなった加害者にも、だました人間とだまさ れた人間がいるわけです。そして、うそだと分かっていながらだまして駆り立てていった人間が本当の加害者であって、一方に加害に加担させられた人たちがいる。その一番の加害者が最後までぬくぬくと生き延びられる。加害に加担させられた人々は、非常に貧しい農民だとか労働者、社会の中ではむしろ底辺に置かれていた人々です。そういう人々が兵として徴集され、加害に加担させられていった。マレー半島ではほとんど銃剣で刺し殺していますから、一番末端の兵士が一番血なまぐさいことをやらされ たわけです。
 マレーで虐殺をおこなった部隊のひとつは、間もなくニューギニア島に送られました。そこでポートモレスビー作戦がありました。これはジャングルの山を無理やり越えさせられた無許な作戦ですが、一個連隊がほとんど全滅しています。多くが餓死と病死です。そういう加害に加担させられた兵士たちが、 同じ日本軍の中で人間扱いされず、そういうひどい戦闘に追い込まれ、犠牲になっているわけです。ですから、加害と被害をあまり対立させて考えるのはよくないと思います。

 よく、日本は被害ばかり言ってきた、もっと加害の面を重視しなければいけない、という議論があり ます。一面ではそうだと思いますが、ほんとうに被害を受けてその痛みを分かっている人は、ほかの人の受けた被害の重みも理解できる共通の基盤があると思うんです。ですから、その場合にも、自分の被害体験を身内だけの体験として認識するのではなくて、日本軍によって被害を受けた人々の痛みも理解できるような、国境や民族を越えたものとして被害体験をきちんと総括できるならば、そのことは日本の加害を考えるうえで非常に重要なものになると思います。当然、従来の原水爆禁止運動の中で言われていた「二度と核兵器を許さない」ということと同時に、侵略戦争の拠点としての広島の在り方という ものも拒否していかなければならない。そういう二つの意味を込めて言う時に初めて、アジアの人々の中で私たちの声がきちんと受け止められるのではないか。それが、この問題を現在の時点で考える意味 だと思います。

 湾岸戦争が終わった後、自衛隊の掃海艇が湾岸地域に派遣されました。その時に、なぜ湾岸に派遣するのかという理由の一つとして、日本にとって死活的な石油がある、だからそれを確保するために行く んだ、ということが挙げられていました。この論理はまさに帝国主義の論理なんですね。つまり、日本が東南アジアヘ攻めて行ったのは、そこに日本にとって死活的に重要な資源があるからだという、太平洋戦争を始めた論理がそのまま復活してきている。ところが、それはど問題にならなかった。これは、なぜ太平洋戦争を始めたのかということが、きちんと総括されていないことの一つの表れではないかと思 います。
 日本窒素という企業があります。最初は朝鮮に進出し、それから満州に進出し、発電所等を建設するんですが、太平洋戦争が始まってからは東南アジアの方にも進出します。この日本窒素の南方局の中心になったのが久保田豊という人物で、彼は戦争中にインドネシア等々での水力発電だとか、軍と結びついていわゆる大東亜共栄圏だとかのいろいろな構想を練ったわけですが、敗戦で実現しなかった。と ころが、彼のその構想は戦後、東南アジア諸国に対する賠償の中で生かされていきました。賠償という のは日本が戦争をしたお詫びとしてするわけですが、実際は戦争中にやろうとしてできなかったことを、 そのまま賠償の金を使ってやった。ですから、彼の意識の中では全然反省もないし、ずっとつながって いるわけです。日本の企業の責任が問われなかったということもありますが、それがそのままつながっ てきている。そして、日本窒素という企業は戦後いくつかに分かれますが、そのうちの一つがチッソになりまして、これが水俣病を起こします。ですから、アジアの人々を差別したり、人間を人間と思わな い発想は、同時に日本の一国民の生命や安全をもそういうふうに扱わせてしまう。ここに、われわれ日本の一般の市民とアジアの人々とが手をつなげる状況があるのではないかと思います。

 日本軍精神

 少し話が変わりますが、ミャンマーの軍事政権は、選挙で野党が勝ったにもかかわず政権を渡さないでねばっています。アウン・サン・スー・チー女史をどうするかが問題になっていますが、その軍事政権の背後にいるのが実力者ネ・ウインです。彼は太平洋戦争が始まる直前まで、日本軍によって徹底し た訓練を受けています。日本軍に協力するビルマ人の幹部要員として軍事教育を受けたわけです。 そして、戦争中に日本軍のもとで台頭してくる。アウン・サン・ス-・チ-女史のお父さんのアウン・サンも同じです。ところがアウン・サンは戦後間もなく暗殺され、その後ネ・ウインが台頭してきて実権を握り、軍事クーデタ−で軍事政権をつくった。とにかく、ネ・ウインは青年期に日本軍精神を徹底 してたたき込まれているわけです。そのことと現在の軍事政権の在り方は多分つながっていると思います。

 インドネシアのスハルト大統領も同じです。彼も戦争中、日本軍から将校としての訓練を受けました。それが、現在の長期の軍事政権につながっている。韓国の朴元大統領も軍事クーデターで政権を握ってから十数年間、軍事独占政権を続けました。彼は満州国の士官学校で教育を受けたんです。満州国軍は日本軍の傀儡ですから、そこで日本軍精神をたたき込まれた。そこでは軍人が政治に介入することはごく当然のことと考えられていたから、そういう精神が深く入っている。ですから、戦後の東南アジア、韓国のそういう政権をみていると、日本軍が行ったことがそのままずっと尾を引いてしまっている、決して他人事ではない、という気がします。
 また、それだけでなく、彼らは戦争中、日本軍から将校としての軍事訓練を受ける過程で、日本の軍と結びついていた商社等々ともつながりができ、そういう企業が戦後、ネ・ウインやスハルトたちと結 びついて進出して行きました。そして、賠償をめぐる両者の癒着が取りざたされています。ですから、 戦後の日本と東南アジア諸国との関係も、戦争中のものを反省もなしに引きずっているわけです。そう いう戦後の日本の在り方を、戦争責任の観点で見ていくとどうなるかを少し考えてみたいと思います。

 援護と戦後補償ということですが、現在の日本の援護は軍人・軍属など国家のために戦った人々にお金を出そうという発想です。ですから、原爆の被害者、空襲の被害者等々にはお金が出ない。沖縄の場合には、米軍が上陸して地上戦が行われたということで、特別に一般の市民も援護の対象になっていますが、そこでは非常に奇妙な論理が使われていまして、一般の市民が援護の対象になるのには戦争協力者として認められなければならないわけです。単に艦砲射撃で死んだ、日本軍に殺された、だけでは援護が受けられない。日本軍に協力したということを証明しなければならないわけです。そういう援護は九四年度までに約三十九兆円になっています。
 一方、アジアに対する賠償は――実際には賠償という言葉を使っていませんが――賠償に準じたもの を含めて六、三五五億円、そのほか現物で渡したものを含めても約一兆円です。しかも、アジアヘの賠償は個人にはほとんど渡っていません。例えば、マレーシアの場合、マレーシアドルで五、000万ド ル相当の貨物船二隻がマレーシア政府に渡されています。それは当然、日本の造船会社に発注して、そのお金は日本企業に入って、貨物船だけがマレーシア政府に渡されるという形です。ですから、被害者個人への賠償の実現、あるいは空襲の被害者、原爆の被害者、反戦で殺され、特高の拷問で殺された人々などへの補償を実現することは、戦後の日本の戦争観を根本からひっくり返す非常に重要な課題であるわけです。なぜ、こういう援護が戦後ほとんど問題にされないままにきたのか。それは日本の戦後の 政治の在り方の問題にかかわってくると思います。

 東京裁判

 次に、戦後史の中の戦争責任についてお話ししたいと思います。学校の先生方はご存じだと思います が、最近、社会科教育の中で、日本の侵略戦争を認めたり批判する人々は、東京裁判史観、つまり東京裁判の見方をそのまま鵜呑みにしているという批判がなされています。これは社会科教育の分野では非常に問題になっているようですが・・・・・。この間、非常に多くの研究者によって東京裁判とか一連の裁判の問題が明らかにされています。その中で、今までの一般の東京裁判の理解とは随分違った実態 が明らかにされていますので、それを踏まえて少しお話ししたいと思います。

 いわゆる平和に対する罪で戦争の指導者を裁いた裁判としては、東京裁判とともにドイツに対しては ニュルンベルク裁判がありました。ドイツの場合には、ドイツの本国そのものが戦場になりました。 アメリカ軍あるいは東からはソ連軍が攻めて行きながら次々と公文書を没収していった。それらの大量の資料を基にしてニュルンベルク裁判は行われました。ところが、日本の場合には八月十五日に降伏し てから米軍が来るまでに二十数日間あった。その間に、いろいろな資料をほとんど燃やしてしまいました。 東南アジアでも、米軍が上陸しなかった所では同じよ うなことが行われている。そこで、占領軍が依拠したのは日本の政治指導者からの聴き取り、尋問です。 尋問は後からいくらでも創作できますから、そこで天皇の側近たち、宮中グループといいますが、例えば木戸幸一だとか近衛文磨、宮内省やその他の幹部たち、海軍軍人、外務官僚、財界人たちの中で一つの連携ができていきました。つまり、お互いに尋問でどういうことを言うのかによって裁判の方向性をかなり左右できるわけです。その中で、彼らに共通しているのは、すべての責任を一握りの陸軍軍人に押しつけるという方向で意思統一しながら尋問に望んだということです。そして、天皇側近たちがわざわざ戦犯者のリストなどを占領軍に提出している。

 一方、占領軍の側は、天皇を政治的に利用するために残しました。そして、東京裁判が進行する中で ちょうど冷戦が始まります。アメリカは、当初は日本の戦争犯罪人を裁くことにかなり熱心で、日本の非軍事化と民主化を推進しますが、冷戦が始まると当初の政策を転換します。ソ連に対抗する中で日本を忠実な同盟者にしていく方向です。それで、アメリカの忠実な同盟者になる政治指導者をどうつくっていくのかが課題として出てきます。そこで、アメリカは一部の陸軍軍人たちを切り捨て、天皇の側近グループ、官僚たちなど旧来の日本の支配層の中から、アメリカの受け皿を作り出していった。そのことは彼らの戦争責任を免罪することにつながる。つまり、日本の陸軍以外の支配層が自分たちの責任を逃れたいという事情と、アメリカが冷戦のための日本側の政治の受け皿を作る必要があったということが、うまく合体するわけです。それは、日本の旧支配層とアメリカがうまく作り出した、いわば共同創作の「歴史」であって、それ が東京裁判の結果になったのだと思います。もちろん、東京裁判は、戦争という手段に訴えることが国際的な犯罪であることを改めて確認した点で積極的な意味はあると思いますが、むしろ戦争中から戦後にかけての日本の支配層を再編成した、アメリカの受け皿を作っていった、そういう投割を果たしたわ けです。

 保守本流

 その中で、受け皿になったのが吉田茂です。彼は 1948年の秋に第二次吉田内閣をつくり、これがその後の保守長期政権の出発点になります。彼はもと もと外務官僚でありますし、元内大臣の牧野伸顕の女婿です。ですから宮中の側近グループに属し、戦争中はいわゆる近衛グループの一員です。それがアメリカの受け皿になって、戦後の保守本流の創始者 になるわけです。その弟子たちの池田勇人や佐藤栄作も日本の保守本流として受け皿になっていく。アメリカの忠実な同盟者になっていく。ですから、日本の保守本流は、自分たちの戦争責任について問わないだけでなく、アメリカがおこなった原爆投下とか空襲とかいう、アメリカの犯罪行為も問わない。つまり、お互いに免罪することによって自分たちの政治生命を保つ。日本政府がいまだに原爆投下を国際法違反だと言えないのは、まさにこういう日本の保守政治の在り方から規定されているわけです。

 一方、国民の戦争観はどうだったのかということですが、多くの国民は、アメリカの物量に負けたという意織はあっても、中国に負けた、あるいは東南アジアの民衆に負けたという意識は全くない。植民地の問題についても、朝鮮、台湾という植民地を敗戦によって自動的に失います。それが,例えばオランダの場合ですと、戦後インドネシアに対して植民地復活のための戦争をします。そのことは非常に不正義の戦争だという事で本国で問題になります。 フランスの場合はインドシナ戦争をやりますし、アルジェリアに対する戦争を行います。そういう植民地の独立を抑えるような戦争をやると、本国の中でこれでいいんだろうかという植民地支配に対する葛藤が生まれます。ところが、日本の場合にはそういうことを全然自覚しないうちに植民地がなくなった。 ですから、植民地支配についての反省といいますか、それを考える機会がないままにきてしまった。そのために、アジアを見下す意識が、そういう葛藤なしにそのまま残ってしまっているのではないかと思 います。そして、軍にだまされたということで責任が全部、軍に転嫁された。

 日本の戦後の革新勢力の中で、戦争責任にきちんと取り組む姿勢があまり見受けられない原因も、やはりそこにあるのではないかと思います。一九五〇年代に日本は東南アジア韓国と賠償交渉を行います。 これは日本が東南アジアに対しておこなったことを 反省する絶好の機会でした。ところが、例えばフィリピンとの賠償交渉の際、フィリピンが日本に対して多額の賠償を要求するんですが、アメリカ政府がフィリピンを抑えます。あまり日本に対して厳しく すると援助しないと。日本はそれに便乗してかなり賠償金を値切ります。ようやく五六年に賠償協定を締結しますが、社会党は声明を出して、その金額は日本の支払い能力を超えている、つまり賠償金を出すと日本の勤労者が負担をかぶるという立場で発言しているんです。ですから、ここではフィリピンに対して与えた被害をどう償うのかという発想ではなくて、もっばら日本国民の立場で、これは負担のしすぎだという形でしか批判できなかった。それが、そのまま現在まできてしまっているわけです。
 もちろん、日本の革新派の運動が、憲法の改正を阻止し、自衝隊の海外派兵をさせなかったという点は評価していいと思います。大きな国で、戦後から現在にいたるまで軍隊が外国で人を殺したり武器輸出をしていない国は非常に珍しい。現在、途上国が輸入している武器の九〇%以上はいわゆる五大国から輸入している、いわゆる先進工業国が軒並み「死の商人」になっている中で、日本が直接武器を輸出 していないという点は世界に誇り得ることだと思います。しかしその一方で、戦争責任の問題についてはほとんど関心がいかなかった。なぜそうだったのかは、もっときちんと分析しないといけない問題だと思います。

 戦争責任

 よくドイツは戦争責任の問題について非常に進んでいると言われますが、日本とドイツの違いが出てきたのはひとつには六〇年代の未からです。この変化は非常に大きい。六〇年代末というのはいわゆる革新自治体の運動だとか学生運動、あるいはベトナム反戦運動などが世界的に大きく盛り上がります。 しかし、日本の場合にはその中で戦争責任はあまり問題にされなかった。それに対して、ドイツの場合 には、六八年世代、日本でいう全共闘世代のようなものですが、その六八年世代が各分野に入って行って、そうした人々を基盤にしながら六九年にブラントの社会民主党政権が誕生する。そして、ブラント首相はワルシャワのユダヤ人ゲットーに行って,その犠牲者の追悼碑の前にひざまずいて謝罪をします。 東西の緊張緩和に努めます。西ドイツはその後、ポーランドと一緒に歴史教科書を作ったり、人道に対する罪には時効がないとして、ナチスの犯罪を厳しく追及し続けます。ですから、日本とドイツの間に 大きな差ができたのは、六〇年代後半の運動の力が日本の場合には戦争責任にはほとんど向かわなかった けれども、ドイツの場合にはきちんと取り組み始めたことによるものです。

 ここで注意しないといけないのは、ドイツの場合、戦争責任に取り組むことと冷戦の緊張を緩和するという政策がセットになっていることです。ところが、日本は冷戦に加担することによって自分の戦争責任をあいまいにしてきた。日本においてようやくこの問題に取り組みはじめるのは八〇年代です。これは中曽根内閣の登場という背景の中で、八二年のいわゆる教科書問題でのアジアからの批判が大きかったと思います。それと同時に、韓国やフィリピンの戦争犠牲者、例えば従軍慰安婦の方々が声を上げ られるようになった。これは、これらの国々で民主化が進んだことが非常に大きいと思います。日本と韓国は六五年に国交を回復しますが、その時にはまだそういう声は上げられていなかった。あの時の韓国は「北」との対抗のために日本の援助が必要だったので、これ以上文句を言えないという形で抑 えたためです。
 それが、冷戦構造が解体していく中で、反共のためにという名目では抑えられなくなって、その中で被害者個人が声を上げられるようになってきたわけです。 つまり、日本は冷戦の中でアジアの多くの被害者の声を氷結めにして、そのまま死ぬまで待とうとした けれども、その前に冷戦が解体し、戦争の傷跡が全く癒されないままにわれわれの前に浮上してきている、そういう関係だろうと思います。これにはもちろん日本の保守本流の在り方が一番重要な要素だと思いますが、それを問題にできなった側の問題もいま問われているのではないかと思います。

 それから、もう少し普遍的な問題で少しお話ししたいと思います。それは旧日本軍の特殊牲と軍隊としての普遍性という問題です。つまり日本の戦争責任の問題、日本の侵略戦争の問題は、日本に特殊な問題ととらえていいんだろうかという問題です。憲法第九条は、単に旧日本軍のみを否定したものではなくて、軍隊そのものを否定したというのが憲法九条の正しい読み方だと思います。というとは、旧日本軍の特殊性、例えば旧日本軍は天皇の軍隊であってこれこれこういう特徴があるんだ、だからこれだけ残虐だったんだという特殊性をいくら批判しても、実はそれだけでは済まない問題があるのではない か。
 例えば、従軍慰安婦問題でいいますと、あれだけ大規模に、かついたる所に慰安所をつくり、多数の民族を詐欺だとか強制だとかいう手段で集めて、まさに性奴隷にしたのは、日本の特殊牲、特徴だと思 うんですが、同時にドイツ軍も東ヨーロッパやロシアで同じように慰安施般をつくっている。アウシェ ビッツにもそういう慰安所があったことが分かってきています。ドイツ軍も日本軍とほとんど同じよう な規則を作って慰安所を管理している。それから、きわめて部分的な例ですが、太平洋戦争中にイギリ ス軍が北アフリカのトリポリだとかインドのデリーで、軍が管理する慰安所を一時的ではありますがつくっています。戦後アメリカ軍が日本を占領しますが、その時に日本の内務省が提供した慰安所を利用する。あるいはベトナム戦争の時にも、米軍の基地の中、あるいは基地のそばに米軍専用のそういう施設を設けています。フ ランスも五〇年代のインドシナ戦争の時にアルジェリアの女性を連れていってそういうものをつくっているようです。もちろん日本軍に比べればはるかに規模も小さいし、日本と同じだとは言えないんですが、そういうものを部分的にせよつくるという発想は かなりいろんなにあります。

 性暴力という点でいいますと、兵士による強姦というのは日本軍、ドイツ 軍はとりわけひどかったわけですが、戦争末期のソ連軍にしても、それから日本を占領中のアメリカ軍、 オーストラリア軍にしても、軍隊に非常に広く見られる現象だと思います。通常の市民生活をおこなっている時には到底できないことが、軍隊の一員になるとできる。しかも他の民族に対する時には非常に多発する傾向があるようです。まず軍隊というのは、常に相手を同じ人間と思わない。相手を非人間化するわけです。日本軍はアメリカを鬼畜米英と言って、鬼みたいなものだという形で非人間化する。アメリカ軍は日本兵は猿だと言って非人間化することによって、相手を殺すことができるようにする。そ うして相手を攻撃し、抹殺し、支配しようとするのが軍隊であって、他者を殺すことを史高の名誉とし、 他者を力でねじ伏せることを目的とする。その対象が変われば、女性を力で押さえつけて自分の目的を達するというものですし、あるいは敵国民、あるいは民間人を虐待したり殺害したりするのも同じです。 ですから、軍隊であるかぎり、いくら法律で強姦してはならないといっても、そもそも強姦する論理そのものが軍隊の中に含まれているのではないか。だから、女性に対する暴力と軍隊の論理というのはつながっているのではないか。日本軍がおこなった残虐行為を考えるとき、そもそも軍隊の持つ非人間性があって、それに日本軍の特殊牲が加わったことによってその残虐性が極端に増幅された、そう理解したほうがいいのではないかと思うわけです。

 そうしたことがおそらく極端にまで進んだのが近代ではないかと思います。それと同じ論理で、人間は自然を征服し、支配しようとしてきた。それがとことんまで進んだのが近代の歴史だと思うんです。その表れが環境の問題です。つまり、人間は自然と一体になるのではなくて、人間が自然を支配できるように考えてきた。そのことのツケがいま回ってきている。だから、戦争や軍隊そのものを否定することは、近代の在り方への根本的な批判ではないか。つまり、他者を支配することによってではなくて、他者と連帯、共生することによって自己実現を図る方向へ考え方の転換を迫られている。平和の実現、軍隊を廃絶するという課題、真の男女平等、あるいは福祉や人権にかかわるような問題、地球環境の保全、そう いう現代のさまざまな課題は全部共通性を持っていると思います。ですから、戦後補償を実現していく、 日本の戦争責任をはっきりさせることは、そういう普遍的な課題とつながっていくと思います。もちろん、日本の特殊性をきちっと批判することは大事なんですが、同時に日本にあった普遍性もきちんと批判する。そのことが、ほかの国の人々の軍隊なり、そういう社会の在り方に対する問題提起として受け入れられることになると思うんです。ですから、日本の戦争責任の問題は、単に過去の出来事の責任をとるということだけでなくて、これから私たちが世界の人々とどういう関係をつくっていくのかの一番重要なベースになっていく、そういう課題ではないかと思います。