沖縄戦の諸相―離島における沖縄戦

 藤原彰編著『沖縄戦ー国土が戦場になったとき』
               (青木書店、1987年)所収

林 博史


 1986年に東京在住者を中心に研究会「沖縄戦を考える会(東京)」を発足させました。藤原彰氏を代表に、私が事務局を引き受けました。ちょうど家永教科書裁判で沖縄戦が一つの争点となっていたので、それをバックアップする研究を進めること、ならびに1987年10月の沖縄国体にむけて本土の研究者としてきちんと発言すること、などが会の発足の意図でした。会では活発に研究会をおこなって、沖縄戦全般を叙述した本書と、各自の研究論文を集めた『沖縄戦と天皇制』(立風書房、1987年)を出しました。
 ここに紹介した「離島における沖縄戦」は私が分担執筆した中の一つです。沖縄戦というと、米軍が上陸した沖縄本島などに関心が集中しがちですが、米軍が上陸しなかった島々ではどうだったのか、についてかんたんに紹介したものです。
 本書は沖縄戦についてのコンパクトな入門書、概説書として、今日でも最適な本だと思いますので、全体を読んでいただけると幸いです。
 なお「沖縄戦を考える会(東京)」は、その後、「南京事件調査研究会」と合同で研究会活動をおこなって現在にいたっています(通称、「合同研」)。  1999.5.11


『沖縄戦ー国土が戦場になったとき』目次
                 
*林執筆分
はじめに
T-1 近代日本のなかの沖縄
  2 アジア太平洋戦争
  3 沖縄戦への歩み
  4 せまりくる戦争
U-5 米軍の上陸
  6 激しい攻防戦
  7 日本軍の敗北
  8 米軍と住民
V-9 離島における沖縄戦 *
  10 学徒隊と防衛隊 *
  11 日本軍の住民殺害と集団自決
  12 秘密戦と「スパイ」対策
  13 朝鮮人軍夫と慰安婦 *
おわりに
沖縄戦文献リスト *

 

離島における沖縄戦

●八重山・宮古島の飛行場建設●  

 米軍が上陸し激しい地上戦がおこなわれた沖縄本島、伊江島などの島々だけにとどまらず、米軍が上 陸しなかった島や、上陸しても日本軍がいなかったため地上戦がおこなわれなかった島でも、島民は大 きな犠牲をしいられた(「沖縄県史9・10」)。
 沖縄最南端にある八重山諸島の石垣島では、一九四三年(昭和一八)に軍が海軍平得飛行場建設(現 在の石垣飛行場はその一部)のため九〇町(約九〇ヘクタール)あまりの土地を、翌年には陸軍白保飛 行場建設(現在石垣空港建設の計画があり反対運動がおこっている地域)のため約七〇町の土地をうむ をいわせず没収した。その補償金は軍が一方的に決めた安い値段で、しかもその額の八割は証書が渡されただけで残りの二割も強制的に預金させられ、結局手許には何も入らなかった。また作物の収穫のために二、三日工事をおくらせてほしい、との集民の願いはにべもなく拒否され、そのうえ抗議した農民たちは兵隊になぐるけるの暴行までうけるありさまだった。 これらの飛行場建設には請負業者が連れてきた朝鮮人人夫約六〇〇人が使われただけでなく、八重山郡下からも六〇歳末満の男女が駆りだされた。その数は一日平均二千人以上にのぼった。石垣島以外の島々からも徴用された人びとは泊りこみで作業をおこなった。
  徴用された住民は、朝八時から夕方六時まで、ツルハシを使っての地ならしやモッコでの土砂運びな どの重労働をさせられたが、食事は小さなにぎりめしが二個、それが朝、昼、晩とも同じもの、という 程度しか出されなかった。作業の開始時刻におくれると監督にメッタ打ちになぐられ、また作業に出な いとひどい仕打ちをうけた。
 宮古諸島の宮古島でも同じように三つの飛行場建設に住民が駆りだされたが、一日作業を休んだ人の 家に兵隊がおしかけ、その人にたいし、なぐるける、石垣から突き落とすなどのリンチをおこなったこ ともあった。
 飛行場建設に中学生や小学生までも授業をやめて動員された。平得飛行場のそばの大浜国民学校(小学校)の児童は、勤労奉仕隊として飛行場の整地、草刈り、道路の改修などに駆りだされ、そのうえ校舎は軍にとりあげられてしまった。

● 日本軍の横暴●

 そのほか住民は、牛や豚などの家畜を軍にとられ、米もほとんど軍に供出させられた。小浜島では田 一反(10アール)から五俵とれるがそのうちの四俵を軍にとられイモなどをつくろうとしても、一日中 軍の作業に使われているため農作業もままならず、自分たちの食物を確保することもきぴしい状況に追 いこまれた。 日本兵は、家畜や畑の作物を盗んだり、建物に使ってある木の坂などを勝手にはがして持っていったり、略奪をくりかえした。
 宮古島では将校たちが自分の愛人にするために島の有力者に女学校の生徒などを出すよう要求し、いく人もの女姓がそうなった。なかには軍人の子どもを生み、戦後一人でその子 を育てた女性もいた(川名紀美『女も戦争を担った』)。住民が不満をぷつけると日本兵は「住民を守るために我々軍隊は来ているのだ、ありがたく思え」と開きなおり、まるで占領者であるかのようにふるまった。

● 飢えとマラリヤ●

 こうした状況のなかで沖縄戦が始まると、八重山、宮古では米軍は上陸しなかったとはいえ、外部との連絡を断たれ、悲惨な状況が生まれた。八重山では人口約三万一千人のところに約一万人の日本軍が、 宮古では人口約六万人にたいして約三万人の日本軍が駐留し、それだけでも食糧事情はきびしかったが、 さらに飛行場などのため大切な農地を大量につぶされ、軍によって酷使され、食糧も奪われた住民のあ いだに飢えとともにマラリヤが猛威をふるった。
 八重山全体で一万六千人あまり(人口の五三パ−セント)がマラリヤにかかり、三六〇〇人あまり( 一一パ−セント)が死亡した。そのなかでも飛行場建設のため移転を余儀なくされた平得部落では、七〇三人中六一三人(八七パ−セント)がマラリヤにかかり、二六四人(三七パ−セント)もの人が死亡 している。白保部落でも一二五五人中一一八四人(九四パ−セント)がかかり、一六九人(一三パ−セ ント)が死亡している。爆撃など戦闘による戦死者が一七九人にとどまっていることを考えると、日本軍の行為が、住民にきわめて大きな犠牲を生みだしたことがわかる。このことは宮古でも同じである。

● マラリヤ地獄の波照間島●

 このマラリヤ被害がとりわけひどかったのが日本の最南端にある八重山諸島の波照間島であった(石 原昌家監修『もうひとつの沖縄戦』)。波照間には日本軍はいなかったが、一九四五年の初めにスパイ 養成機関である陸軍中野学投出身の離島工作員酒井喜代輔軍曹が、山下虎雄と名のって青年学校の指 導員として送りこまれてきた。山下は本書12で説明されているように、秘密戦の組織者であった。
 彼は島の青年を集めて秘密戦の訓練をおこなっていたが、三月下旬に突然、村長ら村の指導者にたいして、全島民は西表島に疎開せよ、という命令を出した。これは石垣島にあった第四五旅団司令部の命令であるという。これにたいして、米軍はすでに慶良間に上陸しており、波照間に上陸するおそれはな いし、しかも波照間にはマラリヤはないが西表島はマラリヤ地帯であり、かえって危険である、という反対の声も出された。しかし山下は日本刀をふりまわして、疎開の命令に反対するものは斬る、牛馬も皆殺し、家も焼き払い、井戸には毒を入れる、と島民を脅迫した。そのため島民は疎開を余儀な くされ、十分な準備もできないまま、四月から全島民が西表島に移った。
 当時波照間島には、牛七〇〇頭あまり、馬約一三○頭、豚約三五〇頭、山羊六〇〇頭近くがいたが、 これらの家畜は米軍の手に入らないようすべて殺せと命令された。島民は一部は自分たちの食糧として持っていったが、残りの大部分は屠殺され、石垣島の日本軍が乾操肉にして持っていってしまった。
 波照間島民たちは、西表島の南側、つまり波照間に面した南風見海岸で集団生活をおこなうことにな ったが、ここで山下は一部の島民を手下にし暴君のようにふるまい、島民にたいし何かあるごとに竹棒 で暴行を加えた。山下は衛生のためにと小学生らにはえをとらせていた。ところが、その集めた数が少 ないと、山下の手下である一教師が竹棒で体罰を加えた。小学投四年生の女の子が、その体罰がもとで 死に、ほかに二人の児童も同じように体罰がもとで死んだ。
 こうしたなかで、食塩も欠乏し身体も弱ってきたうえ、南風見はハマダラ蚊の発生しやすいところであったこともあって、マラリヤが急速に広まっていった。マラリヤは四〇度近くの高熱と震えをくりかえし、身体は衰弱し、ついには死にいたるのである。耐えかねた島民たちは,七月末に山下には黙って代表を石垣島の旅団司令部に送り、帰島の許可を得ることができ、ようやく八月に波照問に引きあげてきた。
 しかし波照間では、殺された家畜が異臭を放ち、家や田畑は荒れはて、ソテツやイモ、野草などでかろうじて食いつないだ。だがマラリヤの猛威は,翌年に入るまで続き、多くの生命を奪った。
 結局、強制疎開させられた島民一二七五人のうち、マラリヤにかかった人は一二五九人(九八・七パ ーセント)、マラリヤで死んだ人は四六一人(三六・パーセント)にものぽった。マラリヤ患者を出さなかった家はなく、またほとんどの家から死者を出した。この犠牲者の比率の高さは、沖縄本島中南部の激戦地に匹敵するものである。

● 特務機関の責任●

 波照間島民を地獄に突き落とした直接の責任者である山下は、そのまま生き残り、戦後も何度か波照間を訪れている。そのときに、町会議員や各部落の代表ら島民有志一九名が連名で、山下に抗議書をつきつけている。そこにはつぎのように書かれている。

  あなたは、今次大戦中に学校の教師の収面をかぷり、また国民を守るはずの軍人を装いながら、  島の住民を守るどころか住民を軍刀による抜刀威嚇によつて極悪非道極まる暴力と横暴をふるまい、  軍の命令といつわり、島の住民を死地マラリアの島へ医薬品等皆無のまま強制疎開させ、全島の家  畜を日本軍の食塩に強要させ、全島を家畜の生地獄にさせ、またその後は食糧難とマラリアで全島を人間の生地獄にさせ、そのために家系断絶や廃家を続出させたはどの悲憤の歴史的事実を、あなたは忘れたのか。
  我々住民はこの平和な島の歴史に、たとえ戦時中といえども、あなたの謀略による極悪非道な犯罪とその傷痕はこの島の歴史の続く限り忘れることはできない。

 日本軍は、波照間だけでなく、八重山の新城島と鳩間島でも同じように西表島に強制疎開をさせ、そ れぞれ五六パーセント、九三パーセントの島民がマラリヤにかかり,九パーセント、一〇パーセントが死んでいる。
 日本軍が、日本軍のいないこれらの島の島民を強制疎開させた理由は、はっきりとは断定できないが、 ひとつには軍の食糧を確保するという理由が考えられる。事実、疎開に連れていけない多くの家畜が軍のものになった。もうひとつは、島民が米軍の支配下に入ると米軍に協力して日本軍の配置をもらしてしまう、という軍の住民観があったと考えられる。これは住民をスパイ視するものであり、日本軍が、 住民の投降を許さず、自決を強要したり殺害したりしたことと共通する性格の問題である。

● 孤島の飢餓●

 沖縄には、小さな島々が点々とあり、それぞれの島によつて沖縄戦の影響はまちまちである。だが小 さな孤島ともいえる島々でも、いちように飢えに苦しめられた。那覇の北西五四・五キロある渡名喜島は周囲約八キロの孤島で、カツオ漁と養豚が中心で、ふつうはイモを主食とし、米は移入していた。この島では,本島との連絡船を空襲で失い、連絡がとだえた。そのため米の配給がこなくなり、いつ米軍機に襲われるかわからないので、海に出て魚をとることもできず、毎日ソテツを食べるようになったが、 その毒にあたってしばしば中毒死した。老人たちからは栄養失調で亡くなる人が続いた。戦争についての情報はいっさい入ってこず、九月半ばに米軍がやってきて、島民は戦争がすでに終わったことをよう やく知った。沖縄戦が終わってから二か月以上、日本が無条件降伏してから一ヶ月もたってからであった。沖縄戦はこうしたかたちで戦闘のない島々にも惨禍をもたらせたのである。

● 住民にとっての軍隊とは●

 八重山諸島や宮古島などのように米軍が上陸しなかった島々でも、日本軍の横暴な徴発・動員・強制 疎開と、それに続く飢えとマラリヤによつて、住民に大きな犠牲がでた。日本軍のいなかった島でも外 との連絡がとだえ、飢えに苦しめられ、餓死者まで出した。
 離島におけるこうした経験は、戦争の惨禍が けっしてせまい意味での戦場にとどまらないことを示している。
 ひとつ興味深いことは、日本軍がいなかったことにより島民が妨害されることなく米軍に投降し、大きな犠牲をだすことをまぬがれた慶良間諸島の前島や伊是名島(本島の北)のような例があることである。  沖縄本島や伊江島なども含めて、沖縄戦の経験は、軍隊や基地の存在がけっしてその住民の安全につながらないことを示しているのではないだろうか。本島から日本兵が逃げて渡ってきたとき、兵隊がいるとかえってあぶないとその日本兵を島から追いだした、瀬底島(本部半島の西)の人々や日本兵がい ると住民までやられてしまうからと壕から日本兵を追い出し、みんなで米軍に投降して助かった宜野湾の人びとなどは、このことを直観的に理解していたのであろう。
 米軍基地を拒否し、自衝隊の駐留に反対する今日の沖縄県民の気持ちは、沖縄戦の体験のなかから生まれてきたものなのである。

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