日本軍慰安婦問題の解決を阻んできた東アジアの冷戦構造
The Structure of East Asian Cold War Blocking resolution Japanese Military Comfort Women Issue


韓国ソウルで開催された韓国政治学会の国際大会での報告で使った基の日本語原稿を掲載します。口頭発表文なので注はありませんので、くわしい出典は最後にあげている二つの文献を参照してください。

The World Congress for Korean Politics and Society 2017, Rebuilding Trust in Peace and Democracy,  Yonsei University, Seoul, June 22-24, 2017    


    韓国政治学会 2017.6.23 林博史  

日本軍慰安婦問題の解決を阻んできた東アジアの冷戦構造

 

はじめに

アジア、特に東アジアの人々の連帯という問題意識は、近代の始まり以来、日中韓などの知識人の間で生まれていたが、実際の歴史はその願望とは正反対の方向に進んでしまった。近代の東アジアの諸地域は、大日本帝国の軍事大国化をうけて、日本によるたび重なる侵略戦争と植民地支配によって、支配―従属、加害―被害、宗主国―植民地、という関係におかれていた。東アジアの民衆は、欧米帝国主義の進出に対して、共同で対処するどころか、相互に分断され、大日本帝国を頂点とする支配の下におかれた。日本の敗戦によってその構造は大きく変わったが、アメリカの軍事力を背景とした強い影響の下で、日本、沖縄、韓国、台湾、フィリピン、マリアナ諸島などはアメリカの覇権下におかれ、他方、冷戦構造のなかで中国、北朝鮮、ソ連とは敵対関係にあった。同じ西側陣営といっても、韓国は軍事独裁政権、台湾は国民党による戒厳令下の一党支配、沖縄は米軍の軍事支配下におかれ、日本だけが一定の民主主義と平和を享受したが、それらの諸国・地域の民衆は分断されていた。つまり近代以来、冷戦下にいたるまで東アジアの民衆は、1945年以前は日本、それ以降はアメリカの覇権の下で、分断され続けてきたのである。
 それを克服しようとする、東アジアの民衆の取組が始まるのは
1990年代以降である。  

戦後とは

日本では19458月をもって一連の戦争が終わり、それ以降は「戦後」と称されている。しかし、朝鮮半島では朝鮮戦争は休戦のままであり、南北分断が続き、戦争が終わったとは言えない状況にある。朝鮮戦争において日本は米軍の出撃中継基地となり、日本自身も掃海作業などに参加した事実上の参戦国であるが、休戦協定には調印していない。とすれば日本と北朝鮮はいまだに事実上の戦争状態にあると理解しても間違いとは言い切れない。中国では国共内戦は事実上の休戦状態にあるとはいえ、朝鮮戦争のような明確な休戦協定が締結されたわけではない。沖縄の人々は、沖縄戦以来の米軍支配から今日に至るまで米軍基地を押し付けられ人権を侵害され続け、常に戦争と直面し続けており、沖縄に「戦後」はあるのか、が問題になる。

 戦後処理の原点―在日朝鮮人     

当初  日本国憲法の定める基本的人権は日本「国民」にのみ保障されるものであり、日本にいる朝鮮人は日本国籍でありながら、「外国人」と見なされて取締の対象とされ、権利は剥奪された。日本政府は在日朝鮮人の問題を東アジアの冷戦と結びついた「治安問題」と見なしていた。
 平和条約が発効する直前の1,952419日、法務府は民事局長通達を出し、朝鮮人台湾人の日本国籍を一方的に剥奪した。独立を回復した428日には外国人登録法が公布され、指紋押捺義務が課せられた。植民地が独立する際には、宗主国にいる植民地出身者には国籍選択の自由が認められることが一般的であるが、日本政府はそのような選択権をまったく認めなかった。朝鮮人の場合、日本国民としての権利を奪われただけでなく、独立国民としての地位も認められなかった。
 植民地支配への反省を欠落させ、日本に残った旧植民地出身者の人権を認めないこのような日本政府の姿勢は今日にいたるまで続いている。

 戦犯裁判―東京裁判

米国は天皇を利用するため昭和天皇を起訴せず、東条英機ら陸軍軍人に責任を押し付けた。宮中グループや官僚・政治家など米国が利用できる支配層は免罪し、占領統治とその後の日米同盟に利用していった。また七三一部隊や毒ガス戦、無差別空襲などの戦争犯罪を裁かず、米国の政治的思惑に左右された側面もあった。他方では南京大虐殺をはじめ日本軍による数々の残虐行為についての膨大な証言・証拠が収集・提出され、戦争の実態を明らかにするうえで重要な資料が残される。
 その後、冷戦が進行し日本の戦犯を裁くことに米国が関心を失ったことなどから、当初予定されていた継続裁判はおこなわれなかった。
 なおBC級戦犯裁判を含めて、植民地民衆への非人道的行為は対象外であった。

 

サンフランシスコ平和条約 

19506月の朝鮮戦争勃発を契機に米国は早期講和に乗り出した。

韓国・北朝鮮の排除

朝鮮に関して米国は韓国を招請しようとした。しかし日本政府は1951423日に「韓国政府の平和条約調印について」と題する文書を米国に提出し、「韓国は(中略)日本と戦争状態にも交戦状態にもなく、従って、連合国と認められるべきでない」とし、さらに百五十万人にものぼる日本にいる朝鮮人が連合国人としての権利を主張すると、日本政府は「殆んど耐えることのできない負担を負うこととなるであろう。しかも、これら朝鮮人の大部分が、遺憾ながら、共産系統である」と韓国招請に強く反対した。その日、吉田首相はジョン・フォスター・ダレス特使に対して、マッカーサーにも話したことがあると述べたうえで、「朝鮮人は帰えって貰わぬと困る」、かれらは「日本社会の混乱の一因」であり、「大部は赤化しておる」と強く反対の意思を表明した。吉田茂首相は498月(または9月)にマッカーサーに送った書簡の中で「〔朝鮮人の〕多くは共産主義者並びにそのシンパで、最も悪辣な種類の政治犯罪を犯す傾向が強」いとし、「すべての朝鮮人」を朝鮮半島に返すことを期待すると述べている。こうした差別的な吉田の認識が日本政府の朝鮮人に対する政策の基調にあったと言えるだろう。植民地を多数有する英国もまた韓国招請に反対したこともあり、結局、韓国はサンフランシスコ会議に招かれなかった。
 イタリアに対しても日本に対しても、連合国は「植民地支配責任を不問に付す」点で共通していた。

19519月に開催されたサンフランシスコ講和会議には日本を含めて52か国が参加した。中国と台湾、韓国と北朝鮮が招請されなかっただけでなく、冷戦政策の一環としての日本の再軍備や米国軍の駐留継続を批判したインドや、賠償条項などに不満を持つビルマも参加しなかった。会議には参加したソ連、チェコスロバキア、ポーランドは調印せず、日本を含め四九か国が調印した。調印がおこなわれた98日の夕方、日米安保条約の調印がおこなわれたが、日本側は全権団の中で吉田首相一人だけで調印した。

 日本による戦争被害を受けたアジア諸国の中では、フィリピン、インドネシア(批准せず)、ベトナム、カンボジア、ラオスが調印した。ただベトナムらインドシナ三国はフランスが承認していたフランス連合の政府であり、独立戦争を戦っていたベトナム民主共和国は招かれなかった。東西両陣営に分かれていた冷戦状況の中で米国側のみとの単独講和(片面講和)であり、アジアのほとんどが不在の講和であった。

 平和条約における戦争責任問題

 英とオーストラリアは、日本の戦争責任、侵略戦争であったことなど明確な記述を要求したが、日本はそうした記述を入れることに強く反対した。結局、米英の妥協により戦争責任に関する言及がなくなるが、他方で、第11条に、「日本国は、連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」という記述が入った。これについて吉田首相は、日本の戦争責任や無条件降伏の事実に触れていないことを高く評価した。
 独立回復後、日本政府は、再軍備の促進のためには戦犯釈放が必要であるという主張をおこなうようになり、米国は日本を同盟国として確保するために1958年までにすべての戦犯を釈放した。こうして、日米同盟を維持するために戦争責任問題はうやむやにされた。 すべての戦犯が釈放されてから、日本政府は戦犯刑死者を靖国合祀した。
 冷戦状況が進む中で米国は日本を同盟国として確保利用しようとし、戦争責任はあいまいにされ、また植民地支配に対する反省も、植民地支配のなかでおこなわれた非人道的行為の追及も棚上げされた。

 アジア諸国への賠償

平和条約により、賠償はおこなうこととされたが、日本の「存立可能な経済を維持」することが前提とされた。そのうえで「戦時中日本により占領され、損害を受け、かつその損害の賠償を希望する」連合国は日本と交渉を開始することとされたが、賠償は「生産、沈船引揚げその他の作業における日本人の役務」に限定された。

1954年ビルマ(63年再協定)、1956年フィリピン、1958年インドネシア、1959年南ベトナムとそれぞれ賠償協定を締結。カンボジアやラオス、マレーシア、シンガポール、タイの東南アジア五か国、ミクロネシア、モンゴル、韓国には賠償に準じた経済協力をおこなった(準賠償)。

賠償総額は101200万ドル(3565.5億円)、無償経済協力49600万ドル(1686.9億ドル)、計150800万ドル(5252.4億円)であった。没収された在外資産などをあわせても約1兆円にとどまった。その他に捕虜や戦前債務の支払いなど関連するものをすべてあわせても1兆3525億円である。それに対して、日本軍人など日本国民向けの補償は2012年度までに計52兆円にのぼっている。約40倍である。
 賠償は、発電所・送電線建設、トラック・バス組立工場、製紙・綿紡績の工場、河川開発、橋梁・ビル建設、ホテル建設、電気器具や農機具などであり、賠償金は受注した日本企業に入り、かつ敗戦によって市場を失った日本企業にとって海外進出の絶好の機会となった。

米国の冷戦戦略から見ると、東南アジアへの賠償は、戦前から密接な関係があった中国大陸との関係を断ち切られた日本を、米国の勢力圏の東南アジアとの経済関係を深めることにより米国陣営に確保するというものだった。他方、独立したばかりのそれらの国々の指導者層は国家形成のための経済発展に関心があり、戦争被害者個人への償いは等閑視されたと言えるだろう。国家間和解、特に権力者との和解が優先され、被害者への償いはなおざりにされた。

 

東アジアの冷戦構造

韓国・北朝鮮                 

日韓の国交正常化交渉において、日本政府は植民地支配を反省するどころか、むしろ正当化する発言をおこない何度も行き詰るが、1965年に日韓協定が締結され国交が回復した。この背景には軍事クーデターによって民主化を押し潰して生まれた朴正熙軍事政権を支援しようとする日米両政府の思惑があった。戦前、日本軍の陸軍士官学校を卒業して満州で抗日運動を取り締まっていた、いわゆる親日派(対日協力者)だった朴は、賠償請求権を放棄する代わりに日本から経済援助を得て、政権基盤の強化を図った。70年代になり、戦時中の徴兵あるいは労務者として徴用されて死亡した遺族に日本から得た無償資金の一部を配布したが、ほんのわずかにすぎなかった。もちろん元日本軍「慰安婦」の女性たちは含まれていなかった。

独裁政権下の韓国では、被害者が自らの声を挙げることも許されなかった。メディアなどでの対日批判は、国民の怒りと不満のガス抜きにすぎず、独裁政権は日本との関係を重視したのである。韓国民衆の民主化への闘いによって、ようやく民主化が進み、民主化運動を担ってきた人々が植民地支配による被害者たちの問題を取り上げられるようになるのは、1,990年ごろからだったのである。
 韓国における「過去の克服」の取り組みの対象は、日本の植民地支配下における問題にとどまらず、
1945年以降の韓国軍による残虐行為、軍事独裁政権による人権弾圧なども含まれる。そうした時点についての真相究明、被害者の名誉回復の努力である。
 韓国にとっては日本の植民地支配から独立後の軍事政権にいたる、その負の遺産は一続きのものであり、韓国の「過去の克服」の対象は近代以来の
20世紀全体に及ぶ。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)とはいまだ国交はなく、2002年の日朝共同宣言では、北朝鮮は賠償請求権を放棄し日韓条約と同様に経済協力方式で対処することで合意しているが、国交正常化交渉が始まればあらためて戦後処理問題に直面することになるだろう。北朝鮮にいる被害者はまったく無視され続けている。

 中国・台湾

中国については、日本はアメリカの圧力をうけて、台湾の中華民国政府と国交を結んで、中国敵視政策をつづけた。中国共産党は、1950年代以来、日本との関係改善を求めて、日本に対しては戦犯のほとんどを処罰せずに釈放するなど寛大な政策を追求しており(文化革命期を除いて)、被害を受けた民衆の怒りを抑えてきた。
 日本政府は、共産主義者が戦犯に寛大で釈放しているのに、米英などが戦犯を刑務所にこう留し続けると、日本国民は共産主義に共鳴してしまうだろうという理屈を使って、中国政府の寛大政策を利用して英米などに戦犯釈放を訴え、戦犯問題の解消に利用した。

中華人民共和国とは1972年にようやく国交を回復するが、共同宣言の前文で「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」という文言が入っただけで、中国は「戦争賠償の請求を放棄することを宣言」し、日本からの経済支援に期待した。
 当時の中国は、ソ連との関係が悪化しており、ソ連を主敵として米国や日本との関係改善を図ろうとしていた。日本政府は、<米日>対<中ソ>から<米中日>対ソという中国政府による冷戦構造の組み換え政策を利用して日本の戦争責任や賠償問題を回避し日中の国交正常化をおこなったのである。ここでも中国の被害者は無視され、権力者の政治的思惑が優先された。
 その後、経済開放と経済成長にともない人々の声を抑えることができなくなり、元慰安婦や日本軍による性暴力被害者、あるいはその支援者たちが声を挙げられるようになったのは1990年代半ばからだった。  

内戦で敗北しつつあった国民政府は19491月には中国国内でおこなっていた戦犯裁判を終わらせ、翌月には刑に服していた戦犯を日本に送還して台湾に逃れた。国民政府にとっては日本の戦争犯罪の追及よりも自らの生き残りこそが重大事になっていた。
 日本と台湾との日華平和条約のなかに戦争責任に関する文言はなく、さらに日本の圧力に押され、国民政府が主張した賠償の自発的放棄という文言さえも条約には盛り込まれず、議定書に「自発的に放棄する」と記されるにとどまった。存亡の危機にあった蔣介石政権は生き残りのために譲歩を余儀なくされ、1952428日に日華平和条約が調印された。

台湾では、国民政府の腐敗や横暴への台湾民衆の怒りが爆発し、それに対して国民政府は多数の民衆を殺害するなど力で鎮圧する、いわゆる二・二八事件が1947年におきていた。それ以降、国民政府は「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治をおこない、1949年からは戒厳令を敷いて台湾人の声を鎮圧してきた。他方、国民政府の戦犯処理委員会は1946年初めに、戦争犯罪を犯した台湾籍の者は戦犯裁判にかけるが、他方で日本によって台湾人になされた非人道的行為は戦争犯罪として扱わないことを決定し、台湾人の被害を無視することとした。
 戒厳令が解除されたのはようやく1987年であり、1996年に初の台湾民衆による総統選挙が実施された。このころからようやく日本の植民地支配と戦時動員の被害者たちが声を挙げられるようになった。
 中国政府も台湾政府もともに、人権よりも政治的な判断を優先してきたのである。

 

東南アジア

フィリピンでは1946年の独立後、特に講和前後からは日本に対して友好的な対応をとり、戦犯を寛大に扱うことによって、日本側の自発的な反省を促し、関係改善を図ろうとしてきたが、日本政府はそうしたフィリピン政府の希望を無視し、侵略への反省は生まれなかった。その後、アメリカの強い影響下で、1965年に権力を握ったマルコス大統領は1972年には戒厳令をしき、1986年に失脚するまで独裁政権を維持した。その間、植民地支配の清算は進まず、日本軍支配下での被害者の声は抑圧され続けた。

インドネシアでは、軍部をかつての対日協力者が握り、さらに1966年にクーデターで権力を掌握したスハルト独裁政権は、日米の支援を受けて反体制派を抑圧して政権を維持した。スハルト大統領は1998年に辞職して倒れ、翌99年に総選挙がおこなわれ、スハルト体制は倒れた。その間、日本軍による被害者は声を挙げることができなかった。スハルトは日本軍によって育成された現地軍の幹部であれば、日本軍精神を叩き込まれた軍人だった。

インドネシアによって占領されていた東チモールではようやく1999年に国連の監督下で独立に向けた住民投票が実施され、2002年に独立を果たした。日本軍による性暴力被害者が声を挙げ始めたのはこのころのことである。

ビルマ(ミャンマー)では、日本軍が利用した軍人ネ・ウィンとその後継者たちによる軍事政権が長期間続き、民主化がなされつつあるが、今日においても軍部の勢力は大きい。ネ・ウィンも日本軍によって育成された軍人であり、日本軍占領下のビルマ国軍は日本軍とともに残虐行為に関わっていた軍でもあった。

 このように日本は独裁政権を支援することにより被害者の声を抑えてきた。賠償交渉にあたっても日本もそれらの政権も国家賠償という観点しかなく、被害者の被害回復・人権という視点はまったく欠けていた。したがって戦争の賠償といっても被害者たちの救済ではなく、経済成長とそれによる政権基盤の強化のために使われてきた。冷戦の下で、反共という理由がそうした独裁と人権無視を正当化する口実とされた。そうした独裁政権を頂点で支えていたのは米国だが、同時に日本も経済面で支えていた。こうしたなかで東アジアの民衆、特に被害者たちは分断され、お互いの状況もわからず声を挙げられない状況が続いてきたのである。

韓国、インドネシア、ビルマなどで長期の軍事独裁政権が続いていたが、いずれも、かつて日本軍が育成した軍人が政権を奪取し、維持してきたのであり、日本軍による支配の遺産であるとも言える。日本の植民地支配・軍事占領というのは、1945年で終わっていなかった。日本はそうした構造を利用しながら戦争責任・植民地責任から逃げ続けてきた。

日本が周辺諸国との間で信頼関係を築けない状況を米国は利用した。サンフランシスコ平和条約を結ぶ前後に米国は東アジア諸国との軍事同盟の締結交渉をおこなっていたが、その際にトルーマン大統領は、「日本が再び侵略的となった場合は日本からの攻撃に対抗するため」に必要だと軍事同盟の必要性を説明していた。米比相互防衛条約やANZUS条約にはっきりと見られるように、米国の東アジア諸国との軍事同盟は、対共産主義という性格と同時に日本封じ込めという性格も持っていた。

 

国権から人権へ

 1990年代になり、ようやく、国権から人権へという国際的な流れが生まれ、女性の人権の視点から戦時性暴力が取り上げられるようになり、国家間の賠償では問題は解決されないことが明確にされるようになった。
 日本軍「慰安婦」の女性たちが名乗り出られなかった理由としては、それぞれの社会の、性犯罪被害者を差別する体質があるが、本報告では触れない。

 

2015日韓合意とは

1930年代の「満州」侵略を進めた岸信介の弟佐藤栄作首相と、日本の陸軍士官学校を卒業して「満州国」軍の将校として日本の侵略の手先となった朴正煕朴大統領の間で、1965年に日韓国交正常化がなされ、さらにその50年後の2015年、岸の孫、安倍晋三首相と、朴の娘、朴クネ大統領との間で、この日韓合意がなされた。
 日米韓軍事同盟のための妥協。つまり米主導の軍事同盟の維持強化のために、性暴力被害者の声が抑圧された点で共通している。

侵略戦争への反省なき者たちがくりかえし歴史の表舞台に登場し、アメリカ主導の軍事同盟体制が、戦争責任・植民地責任を封じ込めて展開されていることを如実に示しているのが、今回の日韓合意である。そして侵略戦争に対しても、帝国主義の植民地支配に対しても反省なき、日本政府や知識人、マスメディアたちがこの日韓合意を礼賛し、戦争責任・植民地責任から逃避したい日本国民の多くがそれを受容しているのが日本の現状である。

 

さいごに

かつての中華帝国が解体し、それに代わって日本帝国主義が東アジアを侵略・支配していった近代、アメリカのヘゲモニーの下で軍事政権(韓国)や独裁政権(台湾、フィリピンなど)、軍事支配(沖縄)、他方で共産党一党独裁下におかれてきた中国や北朝鮮、という構造のなかで民衆が分断され抑えられてきた第二次大戦後の冷戦時代、この19世紀末から20世紀末までの時代は、東アジアの民衆が分断されてきた歴史だった。しかしそれを克服する民衆の営みが始まっている。他方で、それに対する逆流も強い。
 特に日本においては、戦争責任も植民地責任も果たさず、過去を美化する後ろ向きの言い訳だけして、冷戦構造と日米同盟によりかかって冷戦を打破するための主体的な努力をしてこなかった(あるいはその努力が実を結ばなかった)。

東アジアで問題になっているのは、単に1945年までの過ぎ去った歴史の精算ではなく、戦前、戦中、戦後を通した20世紀の東アジアの構造を精算するということである。言い換えると、日本帝国主義・植民地主義が作り出し、米国がそれを再編・利用してきた、東アジアのあり方全体を精算するという課題でもある。この点は、戦前戦中戦後の連続性が強い日本の民主化の課題と共通するものがある。  

東アジアの冷戦体制とは、サンフランシスコ平和条約と日米安保条約に支えられた米国主導の東アジアの体制であり、米国の冷戦政策のために、近代以来の東アジアの被侵略の歴史(日本による侵略と植民地支配はその大きな部分を占める)の清算を封じ込めた体制である。言い換えると、日本の戦争責任・植民地責任をあいまい化し、日本と周辺諸国との諸問題の解決を棚上げすることによって日本と周辺諸国との信頼醸成を妨げ、そのことから生じる東アジア内部での分断と対立を利用しながら、米国が東アジアを取り仕切るという仕組みでもあった。それを力で裏付けるのが米軍基地ネットワークである。したがって米国主導の軍事同盟によって取り仕切られている東アジアのあり方を克服し変えていく取組みと戦争責任・植民地責任の問題は密接に結びついている。  

自国のあり様を反省しようとしない人々は、一見対立しているように見えるが、実のところ互いにエールを送りあい励ましあっている。自己中心の国家主義者たちの国際連帯≠ナある。金昌禄氏は、そのことを「敵対的共存関係」と呼んで批判している。相手方の国家主義者の存在は、自分たちが自らの国家の過ちを反省しないための絶好の口実にされる。他方、自国の過ちを自省しようとする者たちは、日本、韓国、中国という枠を超えて、事実に基いて、民衆を犠牲にする国家と国家権力を批判的にとらえ、議論を積み重ね、共同と連帯を少しずつではあるが追及しつつある。

日本対韓国、日本対中国という国家単位の対抗図式ではなく、帝国主義と人権抑圧の国家権力を正当化する立場にたつ人々と、市民の人権の視点からそれを批判的にとらえようとする人々との対抗関係が生まれてきている。1990年代以降の東アジアの民主化(中国の場合は民主化というよりは経済成長にともなう民衆の自由の拡大)のなかで、日本の戦争責任・植民地責任への取組みを通じて、人々の連帯が広がってきた。日本軍「慰安婦」問題への取組みは、その重要な国際的な取組みの一つである。そこに東アジアの未来がある。

   

【参考文献】

林博史「サンフランシスコ講和条約と日本の戦後処理」『岩波講座 日本歴史 近現代5』岩波書店、2015

Hirofumi Hayashi, ‘The Japanese Military “Comfort Women” issue and the San Francisco System,’ in Kimie Hara ed., The San Francisco System and Its Legacies: Continuation, Transformation, and Historical Reconciliation in the Asia-Pacific, London & New York, Routledege, 2015.