山本宗補『戦後はまだ… 刻まれた加害と被害の記憶』彩流社、20138 

解説  加害と被害の重なり合う苦渋に満ちた体験を私たちは理解してきたか

                                  林 博史  


同書に書いた解説です。多くの方々に見てほしい写真集です。2013.8.4記


 1988年の夏、マレーシアから日本軍の住民虐殺からかろうじて生き延びた5人の方を市民グループが招待し、日本の各地で証言集会をおこなった。そのときに来日した一人が本書でも紹介されているショー・ブンホーさんだった。そのとき日本での日程の最後に広島も訪問した。その理由の一つは、その方たちの住んでいた村々で虐殺をおこなった部隊が広島で編成された部隊だったからだ。

広島城のほとりにその歩兵第11連隊の記念碑が立っているが、「勇戦奮闘」したとしか書かれていない記念碑の前での、5人のこわばった、にらむような表情が記憶に残っている。次いで原爆慰霊碑に「マレーシア虐殺村受難者一同」と書かれた花輪を捧げた。これはその五人が自ら申し出たことだった。そのあと、原爆資料館を見学、さらに被爆者の方たちとも交流を持った。その際、「南京、マニラ、シンガポール、マレーなどで虐殺をおこなわなければ、原爆は落とされなかったはずだ」、「原爆がなければマレーやアジアの犠牲者がもっとたくさんでていたと思う」、「原爆がなければ自分は殺されていて、こうして日本へくることもできなかっただろう」などと厳しい発言があった。

しかしその一方で、「私は被爆者です。今日のみなさんの話は涙なしには聞けませんでした。日本、特に広島の人が残虐な行為をしたことを深くお詫びします」と語って頭を下げた被爆者の沼田鈴子さんに対しては、「私たちも悲惨な目にあったので、あなたのうけた悲しみを理解することができます」といって沼田さんに握手を求め、あるいは肩を抱きしめて涙をうかべていた。被害者同士で共感しあえるものがあると同時に、加害国の一員と被害者とのギャップも浮かび上がった交流だった。

その翌年、沼田さんたちはマレーシアの虐殺があった村々を訪ねてショーさんらとも再会した。日本軍の加害の事実をきちんと見つめ、「事実を伝えることが体験者の役目です。二度とあのようなことがないよう、かえってすぐにでも日本の人たちにこのことを伝えたい。みなさまがたと手を結び、仲良くしていきたいと思います」とマレーシアの人びとに呼びかけた沼田さんら広島の方々は、地域の人びとから心温まる歓迎を受けた。残念ながらショーさんも沼田さんも故人となられてしまった。

 両方の場に居合わせた私は、広島、すなわち日本人の戦争被害を考えるときに、その前になされていた日本によるアジアの人びとに対する侵略と加害に対して真剣に向き合わなければ、平和を訴える日本人の声はアジアの人びとに受け入れられないということを痛感した。日本人は突然被害者になったわけではなく、その前に(あるいはそれに並行して)加害の歴史があったのであり、加害と被害は複雑に絡み合っている。

 念のために付け加えておくと、日本が侵略をしたから原爆や空襲でやられたのは当然だと言っているのではない。民間人をターゲットにした空襲や原爆はいかなる理由があっても許されるものではない。ただいきなり原爆が落とされたわけではない、それに至る歴史の歩みを認識し、原爆にいたる道を日本が作ってしまったことを省みなければならないと思う。

 たとえば、日本の各地で米軍の空襲によって多くの犠牲を生み出したが、市民に対する無差別空襲は、日中戦争のなかで日本軍が重慶など中国の人びとに対しておこなったという前史がある。木造家屋には焼夷弾が有効であるということを米軍が学んだのは、この日本軍の空襲からだった。沖縄戦においては、中国で戦ってきた日本軍将兵が、中国でおこなってきた残虐行為を沖縄の人々に語って聞かせたことが、米軍に捕まることの恐怖を人々に植え付け、捕まってひどい目に合わされるよりは、家族そろって死んだ方がましだと思い込ませ、「集団自決」に追いやる大きな原因となった。

 1930年代に進められた満州移民は、地主制の下での貧困な農村と経済恐慌が合わさった状況のなかで新天地を求めて行った人たちが多かっただろうが、元々そこに住んでいた人々を追い出して奪った土地が配分され、さらにその後の日本軍・日本人の横暴が恨みを買ったことが敗戦後の悲劇につながっていく。同時に、関東軍は密かに満州の南に撤退し開拓団を置き去りにしながら、開拓団から男たちを根こそぎ徴兵してソ連との国境付近に配備した。こうして取り残された開拓団の人びとは、日本軍からも見捨てられソ連軍に蹂躙されることとなった。

日本人の被害を考えると、日本軍による中国などアジアへの加害が、逆に沖縄を含めて日本の人々の被害につながっていったことを忘れてはならない。そうした加害を推進した軍部などは日本人をも見捨てるような存在だった。

 19377月から45年までの8年余りの戦争での日本人の死者は、約310万人にのぼる。このうち軍人・軍属は約230万人(うち海外210万人)、民間人約80万人(同30万人)である。空襲や原爆、沖縄戦などその圧倒的多くは、戦争最終盤における死者だった。

日本がアジア諸国に与えた被害はそれをはるかに上回る。各国の死者はいずれも不正確な数字しかないが、中国千数百万人から2000万人、フィリピン約110万人、インドシナ200万人、インドネシア200万人をはじめ、アジア全体では2000万人あるいはそれ以上にのぼると見られている。そのほとんどは民間人だった。

外地で戦争をしていた日本の場合には軍人の死者が多かったことと比べ、侵略されたアジア諸国の被害の深刻さがわかる。これは日本による侵略戦争であったことの明確な証拠でもある。

 加害国日本は、アジアの人びとを犠牲にしただけでなく、日本人をも犠牲にして恥じない国だったことも指摘しておかなければならない。戦争が終わって、日本は東南アジアのいくつかの国々には賠償をおこなったが、たとえばマレーシアに対しては日本製の船舶二隻を渡しただけで、被害者にはまったく謝罪も賠償もおこなわなかった。最も大きな被害を与えた中国に対しても、冷戦の下で長年にわたって敵視を続け、日中国交回復にあたっても賠償の支払いを避けることができた。こうしてアジアの被害者を放置しただけでなく、日本国内においても空襲被害者にはまったく補償もされていない。沖縄戦についても、「戦闘協力者」とみなした人たちにはいくらかの援護金が渡されたが、多くの被害者は放置されたままである。近年、空襲被害者や沖縄戦の被害者が国を相手に賠償を求める訴訟をおこしているのは、そうした戦争被害者が日本政府からも見捨てられてきたからである。

 本書で紹介されている多く方々は、戦争で被害を受けただけでなく、戦後、今日に至るまで日本という国家によって打ち捨てられてきたことも忘れてはいけない。軍人恩給などを受け取っている兵士であっても、戦死者が英霊として祭り上げられ美化される一方で、その苦渋に満ちた体験がきちんと社会で理解されてきたとは言えない。特に誠実であるがゆえに加害体験に苦しむ兵士の方々の存在はなかなか伝わらない。

 山本宗補さんがインタビューをおこない写真を撮影してきた方々を、本書のような形でまとめて見てみると、ここで述べてきたような加害と被害の重層構造が浮かび上がってくる。一人ひとりの写真には、その人の戦争体験だけでなく戦後六〇年以上の歴史が伝わってくるものがある。日本がおこなった侵略戦争の加害と被害の重層構造と、その深さと広さ、深刻さを、人間という存在の深いところで理解し感じ取っているフォトジャーナリストだからこそ生み出すことができた写真集だと思う。