『平和運動』(日本平和委員会)No.500、2012年10月号

 米軍基地の世界ネットワークのなかの日本・沖縄

                                   林博史


 これは、表記の雑誌に掲載されたものですが、2012年5月20日に群馬県平和委員会でおこなった講演をまとめたものです。一般にはなかなか入手しにくいものですので、ここに掲載します。2012.11.17記


はじめに

 アメリカは世界中に米軍基地を展開していますが、その現状を見てみましょう。

アメリカ国防総省のデータでは、37カ国・地域(イラク、アフガニスタンを除く)に611カ所、国防総省の施設があります。アメリカ本国には4127カ所で、それを含めると4828カ所となります。米兵が駐留している地域は、2011年9月30日のテータでは148カ国・地域(イラク、アフガニスタンを除く)で、20万人余りが駐留しています。国によっては1人、2人というところもあります。在外公館があると駐在武官というのがいるので、すべてに部隊が駐留しているということではありません。ですから基地・施設があるという意味では37カ国・地域であると考えてよいと思います。

現在、基地面積が一番広いのはドイツです。日本とドイツが大変広くて、それ以下は小さなものです。イギリスにも多くの米軍基地があるといわれていますが、面積は日本と2桁違います。

米軍人の数は、ドイツには冷戦終結時には22・7万人いましたがいまは5・4万人余です。日本はいま3・5万人余となっています。ただし、これには第7艦隊は入っていません。日本には第7艦隊の母港もあり住宅もあるのですが、米軍は海上兵力という区分けにしています。ここに1万人ぐらいいますので、日本の駐留人数に1万人ぐらい加えないといけません。

この表には、米軍が1000人以上駐留している国を載せました。1万人以上駐留しているのはドイツ、日本、韓国のみです。イタリア、イギリスはかつて1万人を超え、2万人いたこともありますが、いまでは1万人を切っています。その3カ国のあとが急に少なくなり1000人台になっています。ですから、米軍基地は世界中にありますが、大規模に駐留している国はそんなにはないということがいえると思います。しかも、冷戦が終わってからは多くのところで減らしています。

 表  主な国・地域における米軍基地面積と駐留軍人数

 

基地面積(エーカー)

         米軍人数

 

2009.9.30

1990.9.30

2010.12.31

ドイツ

143,091

227,586

54,431

日本

126,802

46,593

35,329

韓国

25,689

41,344

24,655

イタリア

5,766

14,204

9,779

イギリス

7,131

25,111

9,318

トルコ

3,512

4,382

1,485

バーレーン

106

682

1,401

スペイン

8,774

6,986

1,345

ベルギー

1,079

2,300

1,248

ジブチ

0

11

1,373

海外 合計

623,525

609,422

291,651

米軍 総計

 

2,046,144

1,429,367

グリーンランド

233,034

159

153

オーストラリア

20,074

713

127

ディエゴ・ガルシア

7,000

1318

241

キューバ

28,817

2,412

936

グアム

63,371

7,033

3,030

(出典)基地面積は、Department of Defense, Base Structure Report Fiscal Year 2010 Baseline米軍人数は、Department of Defense, Active Duty Military Personnel Strength by Regional Area and by Country, 各年版より。

(注)2010.12.31現在、米軍人数が1000名を超えている国を取り上げ(上半分)、また参考までにいくつかの国・海外領土も取り上げた(下半分)。1エーカーは約0.4ha。韓国の軍人数のみ2008.12.31のデータ。海外合計にはイラクとアフガニスタンは含まれていない。米軍総計の中に、イラク派遣85600名、アフガニスタン派遣103700名が含まれている。アジア太平洋地域の海上兵力として、8521名があり、その多くは実質的に日本に駐留しているとみられる。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の表ですが、海外主要米軍基地のリストがあります。これは、米国防総省が毎年発表している世界の米軍基地の一覧です。それが資産リストともなっています。ここには米軍施設の土地の面積、建物の床面積、駐留人数なども載っています。このデータでは、資産価値の大きさ別に3ランクに分けられ、09年9月のデータでは最上位を17億1500万ドル以上としています。そのトップ4は在日米軍基地です。海外にある巨大な米軍基地トップ20のうち8つが日本にあるのです。ドイツは基地面積全体としては多いのですが、小さな基地が多いのです。基地の資産価値を国別に集計すると日本が一番です。面積だけならグリーンランドが広いのですが、ただ広いだけではなくてどの程度の施設があるか、基地の重要度の指標の一つとして資産価値というデータがあり、この基準で見ると、世界で一番米軍基地が集中しているのが日本で、それが減っていないということがわかると思います。  

 

表 海外主要米軍基地の資産価値

 

海外主要米軍基地

資産価値$M

1

嘉手納

空軍

5708

2

横須賀

海軍

5066

3

三沢

空軍

4567

4

横田

空軍

4479

5

ラムステイン(独)

空軍

3512

6

デイエゴガルシア

海軍

3217

7

グアンタナモ(キューバ)

海軍

3026

8

キャンプ・フォスター(瑞慶覧)

海兵隊

2956

9

トゥーレ(グリーンランド)

空軍

2909

10

オサン(韓国)

空軍

2673

11

クワジェリン(マーシャル諸島)

陸軍

2630

12

岩国

海兵隊

2294

13

レイクンヒース(英)

空軍

2228

14

ロタ(スペイン)

海軍

2179

15

ヨンサン(韓国)

陸軍

2134

16

グラーフェンベア(独)

陸軍

2078

17

キャンプ・キンザー(牧港)

海兵隊

2060

18

厚木

海軍

1901

19

シュパングダーレム(独)

空軍

1819

20

ハンフリー(韓国)

陸軍

1801

海外領土

 

 

 

グアム海軍基地

海軍

7359

 

グアム アンダーセン

空軍

7253

 

プエルトリコ海軍基地

海軍

2060

国別合計

 

 

 

日本全体

 

49462

 

ドイツ全体

 

38174

 

グアム全体

 

20006

 

韓国全体

 

16285

 

イタリア全体

 

7898

 

イギリス全体

 

6350

 

スペイン全体

 

2766

 

トルコ全体

 

1975

(出典)”Base Structure Report FY2011. 2010.9.30現在 資産価値$1741M(百万)以上 (注)イラクとアフガニスタンは除く

  この資産価値の資料に海兵隊基地の資産リストもありますが、海外にある海兵隊施設として挙げられているのは、ドイツ、日本、ケニア、韓国、アラブ首長国連邦の5カ国だけです。

ドイツには1カ所海兵隊の施設がありますが、建物と基地の面積が0です。これは、海兵隊以外の他の米軍基地かドイツ軍の基地にいるということだと思います。ですから、実質的には海兵隊の基地はないと考えてよいと思います。ケニアには、建物が4件ありますが土地は0で、駐留人数も0です。恐らく倉庫か何かでそこにものを置いている程度のことだと思います。韓国もほぼ同じような状況です。アラブ首長国連邦は、建物も土地もなく、数百人がいるということですが、おそらく同国の軍事施設に海兵隊員がいるということであって、基地があるわけではないようです。

この資料によると、日本には21ヵ所の海兵隊基地があり、約2万人の海兵隊が駐留していることがわかります。つまり海外で海兵隊の基地といえるものがあるのは日本だけです。米軍基地を受け入れている国であっても、海兵隊の基地は置かせないのが世界の常識といえると思います。  

 これまでの日米関係についての研究は、日本にとってどうなのか、沖縄にとってどうなのかという視点の研究はいろいろあります。しかし、私はその視点では基地問題はわからないと思っています。私は、むしろワシントンから見てみる必要があるのではないかと思います。なぜなら、日本人にとってみればアメリカは大きな存在ですので日米関係は大事なことですが、アメリカは、アメリカの世界戦略の中で日本を考えています。将棋に例えれば、守るべきは王、つまり米本国であり、それ以外は捨て駒にしてでも王を守ることになります。

 ですから日本は重要な駒ではありますが、あくまでも駒の一つで、王を守るためにはいつでも捨てられるものです。

こうしたワシントンの視点からの米軍基地研究は英語では膨大なものがありますが、ほとんど翻訳されていません。日本は捨て駒にすぎないということが日本人の目に入らないようにされてしまっています。

 

 

日本の現代史の連続性

  1953年から1960年までアメリカの大統領を務めたアイゼンハワーの離任演説があります。彼は、そのなかで軍産複合体に注意せよと警告を発したことは有名です。

 私は昨年夏にアメリカのカンサス州のアビリーンという町を訪れました。アイゼンハワーが少年時代から陸軍に入隊するまで過ごした小さな町です。そこにアイゼンハワー大統領の博物館と図書館があります。その博物館でアイゼンハワーの離任演説の全部を初めて映像で見ました。彼は、軍産複合体が大きな影響力を持ってきておりそれに注意しないといけないと警告を発していますが、実はこのとき、二つのことに警戒しなさいと言っていたのです。もう一つは、技術革命によって、技術開発には膨大な研究費・資金がからむようになる。そうなると政府が膨大な資金を持って学者たちを支配する。他方では、そうした専門的な学者が公共の政策、政府を支配するようになる。政府と科学技術エリートの癒着に警戒せよということです。これは、まさに原発の問題そのものだと思います。原子力の平和利用を唱えたのはアイゼンハワーですが、彼はその危険性に気づいていたのかもしれません。

 原発を推進してきたものは、政党(自民党や民主党)と官僚、財界が一体となった政官財複合体とともに学者たちでした。彼らはお金によって取り込まれていきました。マスメディア(報道界)も取り込まれていきました。政官財学報が一体となって原発を推進してきました。

 このことは米軍基地を受け入れさせている構造と同じです。基地問題の情報はテレビや新聞が一面的な報道しかしないというあまりにもひどすぎる状況です。3・11以前の原発の報道とまったく同じような状況があります。基地を正当化するような御用学者・御用評論家たちがたくさんいます。

 しかも共通する側面ですが、原発も過酷事故という重大な事態を想定しません。米軍基地があると、なにか戦争を抑止してくれる、防いでくれると思わせていますが、米軍の軍事計画をずっと見てみると、確かに抑止として力で抑えていますが、それはどこかで失敗する危険がある。そのとき戦争になるということは当然想定しています。アメリカは原発についても当然事故が起きた場合のことを想定しています。同じように、基地についても、抑止が破たんして戦争になることも想定内のこととしています。

 ところが日本の場合、基地があれば戦争が起きないかのように思い込んでしまっているのです。原発も同じようなことがあります。

こうした体質はどこから来ているのかと考えると、太平洋戦争に突き進んでいった状況とあまり変わらないのではないかと思います。あの戦争も、英米と戦争を始めたら勝てる見込みはなかったわけで、どうなるかわからなかったけれどとにかくやってしまえ、負けることを考えること自体けしからんという、無謀な戦争を推し進めた体質と変わらないと思います。日本が戦争責任を取っていないという問題は、単に首相が謝ったか謝っていないかという問題だけではなくて、あの社会の体質、あり方をどれだけ反省し克服しているのかということだと思います。結局、全然反省されていません。侵略戦争をきちんと反省していないことが、原発問題にも、基地の問題についてもつながっているのではないかと思います。
 そしてその侵略戦争の反省、原発、基地の3つの背景にはアメリカがあります。

 

米軍基地の世界的ネットワークの形成

   アメリカの歴史を振り返ると、アメリカは東部13州で独立します。そして西に拡大し西海岸まで行き、19世紀の終わりからハワイを取り、さらにスペインとの戦争に勝利して、パナマを手に入れ、プエルトリコを手に入れ、キューバを事実上属国にし、フィリピン、グアムを手に入れるという形でアメリカ大陸の外に軍隊を進めていきます。ただし、第2次世界大戦がはじまる前のアメリカは、軍隊は20数万人しかいませんでした。軍隊の規模としては非常に小規模な国でした。ですから、海外に軍隊が駐留するようになったといっても現在からみるとたいしたことではありません。

それが、第2次世界大戦で一気に広がっていきます。最高時は1944年で、約1200万人の軍隊となります。世界各地に軍隊が派遣されました。もちろん、日本軍やドイツ軍と戦うために必要なところに派遣されていきました。基地をつくっていく場合は、まずイギリスやフランスの植民地を使っていきます。ですから、米軍基地のネットワークの形成にあたって、まず大英帝国のネットワークが使われていきます。大英帝国は海のネットワークですが、アメリカの場合は海プラス航空路のネットワークです。

第2次世界大戦でアメリカが学んだことは、アメリカ本土を防衛するためには防衛ラインは本土から遠い方がいい。そこで西は太平洋の西の端、日本列島から沖縄、フィリピンにかけて防衛ラインをつくって、アメリカの脅威となる国が太平洋に出てこないようにします。もう一つは大西洋の東側に防衛ラインをつくりました。これがアメリカの戦後の構想です。つまり太平洋と大西洋を事実上アメリカの勢力圏にするという発想です。太平洋は「アメリカの湖」と呼ばれるようになります。

1942年11月、太平洋戦争が始まって1年もたっていないとき、ルーズベルト米大統領が統合参謀本部に、戦後の国際警察軍(連合国が国際協調しながら世界を管理する構想)の基地の研究を始めよという指示を出します。ここからアメリカの戦後の基地構想の検討が始まっていきます。途中の経過は省略しますが、1945年1023日、JCS570‐40(JCS=統合参謀本部)と題された文書「軍事基地とその権利の必要性に関する総合的検討」が統合参謀本部において承認されます。これはまとまった戦後の基地建設計画です。基地群を最重要基地、第2重要基地、補助的基地、副次的基地に分けて、基地をおきたい場所をリストアップしています。琉球は最重要基地に入っています。

1950年の朝鮮戦争前までのアメリカの基地構想の中には日本や朝鮮半島は含まれていません。ヨーロッパ大陸も含まれていません。それまで戦争でないときに、独立国に基地を置くという経験が世界史的にないのです。戦争中以外は出て行ってくれと言われるわけです。植民地からも独立するときには外国軍は出て行ってくれと言われるのが普通です。ですから独立国に基地を置くという発想がなく、あくまでも植民地や小さな島々を基地として確保するという構想なのです。

沖縄に関しては、日本に返還すべきかどうかで政府内で意見が分かれます。国防総省は沖縄を確保したい、しかし国務省は、ファシズムと戦っている連合国として領土拡張を求めないのが連合国の理念だといって日本に返還すべきであるとして対立します。対立しているなかで、1947年に昭和天皇がアメリカに対して、沖縄を長期間リースという形で軍事占領を継続してほしいと言うのです。

結局アメリカは、1949年に沖縄を確保する方針を決定します。しかし、連合国は領土を求めないことにしているので、どういう名目で確保するのかを議論します。いずれにしても、沖縄を確保できれば日本と朝鮮半島から撤退するというのが1940年代の考えです。

 

米軍基地の拡大―朝鮮戦争

 これが大きく変わるのが1950年代です。
 現在の日米安保条約の特徴に「全土基地方式」というのがあります。アメリカはいろいろな国と基地を置く協定を結ぶのですが、その場合、大抵、場所と目的を特定し、これこれの条件で貸して欲しいという協定を結びます。しかし、日米安保条約はこうした細かいことは何もありません。日本政府が了解すればどこにでも基地を置くことができる内容になっています。いちいち個別に協定を結ぶ必要はないのです。

そうした方式が生まれた背景は何なのかというと、極東地域を担当していた米軍の司令部である極東軍司令部が1949年につくった戦争計画「ガンバウダー」(火薬)があります。

そこで想定されている事態というのは、ソ連と戦争するということです。当然核兵器も使います。日本列島から核攻撃を行えば当然反撃を受けます。その時に日本列島にいる米軍が協定で定めた特定の場所に固定されると、当然そこが攻撃されます。ソ連と戦争を行う時に日本列島にいる米軍は、固定した場所にいるのではなくて日本列島の中を動いてソ連の攻撃を避けながら戦う、そのための柔軟な仕組みが必要だというのです。1950年9月に国家安全保障会議というアメリカ政府の安全保障の最高の決定機関で、「必要と思われる場所に、必要と思われる期間、必要と思われる規模の軍隊」を日本に保持する権利を獲得することを決めます。それを保障するのが日米安保条約です。

統合参謀本部が1945年頃からずっと考えているのは、アメリカ本国の近くでは戦わない、敵を遠ざけ、敵の近くで戦うということです。そこで戦っていればアメリカ本国は大丈夫なわけです。

これは、日本にとってみればとんでもない話で、日本やヨーロッパは戦場にしてもいい、そこが戦場になっている間はアメリカ本国は大丈夫ということなのです。この考え方は現在まで一貫しています。ですから、米軍基地があることは日本国民にとって安全では全くないのです。

朝鮮戦争が始まる前までは島々を確保するということでしたが、1950年6月に朝鮮戦争が始まります。これがアメリカの基地政策を大きく変えます。それまではユーラシア大陸や日本列島には基地を置かないという政策でしたが、朝鮮戦争を機に、そこにも基地を置くことにします。アジアでは、日本列島と韓国、ヨーロッパでは、ヨーロッパ大陸に置くことにします。

独立国が米軍基地を受け入れていくようになったのは朝鮮戦争が契機です。共産主義の侵略から資本主義諸国を防衛するということです。北朝鮮の誤りの大きさをつくづくと感じます。こうしてユーラシア大陸の中まで米軍基地が広がっていきます。

一方、1950年代からイギリスやフランスの植民地が次々に独立していきます。するとそれらの国では米軍基地が撤去されていきます。外国の軍隊がいると独立とはいえないので当然です。世界的には民族主義、民族自決権尊重の流れが広がっていきます。その流れの中に日本本土と沖縄もありました。1950年代には日本本土でも米軍基地撤去のたたかいが広がり、沖縄でも島ぐるみのたたかいが展開されていました。

アメリカはこれを世界的な民族主義の高まりとみて、日本や沖縄の米軍基地反対のたたかいもその一環としてみていました。

しかしアメリカは、日本をアジア太平洋戦略の観点から、基地を置くところとして、また経済力のある国として非常に重要な国とみていましたので、同盟国として確保したいと考えていました。そこでアメリカは、日本の反基地感情、反安保感情を和らげるために、事故、事件を起こしやすい陸軍と海兵隊の地上戦闘部隊を日本本土から撤退させ、韓国と沖縄に集中させます。

朝鮮戦争が終わり、1955年に自民党が結成されますが、そのときの鳩山一郎内閣の時は、米軍の撤退を一つの選択肢として考えていました。当時、保守のなかでも米軍基地を置いているのはおかしいという考えがありました。

 

日本本土の軍事負担軽減と沖縄へのしわ寄せ

  1955年から日本政府も在日米軍の撤退を検討し始めます。ところが、これに反対したのが昭和天皇でした。昭和天皇は、憲法9条ができたとき、これでは心配だと米軍に沖縄に駐留してほしいと頼みました。沖縄はそのとおりに米軍支配下におかれるのですが、安保条約で米軍が日本本土にも駐留しつづけるようになりました。しかし日本本土から米軍がいなくなると困るので、昭和天皇は鳩山内閣の外相の重光葵(東京裁判でA級戦犯になった人物)が基地問題で訪米する前に会い、「日米協力、反共の必要、駐留軍の撤退不可なり」と言って、米軍基地撤去を求める交渉の腰を折りました。

 アメリカ政府は、鳩山内閣とそのあとの石橋内閣を、民族主義的でアメリカら自立しようとしているので嫌っていました。

 一方、吉田茂の勢力は自民党の中では多数派ではなかったので、石橋内閣のあと岸信介が政権を取ります。岸が政権を取った時にアメリカ政府は岸とはどんな人物なのかずいぶん研究しました。アメリカ政府の最終的な結論は、いま日本の指導者でアメリカが頼りにできるのは岸しかいない、岸を支援しないといけないということですが、そのために何をするかというと、戦犯として巣鴨刑務所に禁固刑になって収容されていた者をすべて釈放します。岸はA級戦犯容疑者で、戦犯は釈放すべきと要求していました。当時は日本の世論は、社会党含めて戦犯は釈放すべきというのが圧倒的多数派でした。それでアメリカは、岸の人気を盛り立てるために戦犯をみな釈放しました。さらにアメリカの地上軍、陸軍のと海兵隊の戦闘部隊を日本本土から撤退させて岸を支援しました。

 1958年に総選挙がありました。この時からアメリカのCIAが自民党に資金援助を行います。これは、自民党は否定していますが、アメリカの公文書で明らかになっていることです。岸の弟、佐藤栄作がアメリカ大使館に行ってお金を頼んでいたことも明らかになっています。自民党だけでなく、1960年の安保闘争の時に社会党が分裂して民社党ができます。その時、民社党に行く人々にもCIAからお金が提供されています。社会党分裂工作のための資金ということです。自民党に対する資金提供は1960年代はずっと行われていたようで、1970年代のどこかで打ち切ったようです。高度経済成長によって日本の財界からお金が十分出るようになったからでしょうか。

 こうして、アメリカは岸政権に対して、戦犯を釈放する、本土の米軍を減らして韓国と沖縄に移す、政治資金を提供することで援助していきました。

 本土では基地が大幅に縮小され、駐留する米兵も18万人から4万数千人と4分の1に減る一方で、沖縄には海兵隊がやってきて、基地面積も人員も大きく増えました。「銃剣とブルドーザー」と言われているように、土地取り上げに抵抗する住民に対して、米軍は銃剣で追い出し、家や畑をブルドーザーで押しつぶして土地を奪っていったのです。この非人道的な暴力を日本政府は黙認しました。

朝日新聞が今年の5月15日に沖縄の本土復帰40年の特集を行っています。そこにグラフが載っていますが、沖縄には在日米軍専用施設の総面積の74%が集中していますが、初めからそうであったわけではありません。1950年代の初めは10-20%程度でした。それが1950年代に、沖縄では基地が拡張され、本土では基地を縮小したために、1960年代になるとほど同じくらいになります。そして本土復帰後、本土の基地が大幅に縮小されたにもかかわらず沖縄の基地はほとんど減らなかったために沖縄の基地の割合が4分の3になるのです。

アメリカから世界を見ると沖縄も日本本土もあまり地理的には変わりません。ですから、陸軍と海兵隊を動かす時も、日本本土、沖縄、韓国という東アジアの中でどう配置するかという視点で考えています。そのなかで、日本本土に大量の米軍を置くのは安保を維持するために避けた方がいい、沖縄はアメリカの支配下なので力で押しつけることができる、韓国は事実上の独裁政権でしたのでここも問題はないとなっていくわけです。

当時のアメリカ軍が沖縄の海兵隊に与えていた任務は、一番大きいのはベトナムに対する軍事介入です。朝鮮半島で何かあった時にすぐに駆けつけることができるために沖縄に置いておくということが言われることがありますが、朝鮮半島に備えるのであれば日本本土に置いておいた方がはるかに近いです。

米軍の文書によると、朝鮮半島での何か起きた場合の沖縄の海兵隊の任務は、予備兵力ということで、すぐには投入しないことになっています。この文書では、中国に対する任務は何も書いていません。現在では中国脅威論が言われますが、かりに中国と事を構えるにしても海兵隊の出番はないという議論があります。中国に備えて沖縄に海兵隊を配備するという発想はなかったと言えます。

軍隊の配備について、地政学的にどこどこでないといけないということが言われますが、あとからこじつけて言っている場合がしばしばあります。いったんある基地を確保すると、その既得権益を守るために、絶対不可欠の基地だとその意義を強調するのが普通です。そういっておきながら、状況が変わるとサッと基地を撤去して新しい状況に対応していきます。フィリピンから撤退したときもそうでした。

この東アジアへの米軍の再配置を見ると、むしろ政治的配慮の方が大きいと思います。ここに置いておくと住民の反発などがあってかえってアメリカに不利益になる、あそこなら押し付けることができるというような政治的な判断の方がむしろ強いのではないかと思います。

 

アメリカの核戦略と日本、沖縄

 第2次世界大戦後初めてアメリカ軍が作った戦争計画が1948年の「ハーフ・ムーン(半月)」です。

この段階では弾道ミサイルはありませんので、核攻撃をするのは爆撃機です。それがどこを発進してソ連を攻撃するかというと、一つはアメリカ本国からカナダ、北極圏をこえて攻撃します。アメリカ本国以外はどうかというと、一つはイギリスで、もう一つはエジプトです。この時期にはスエズ運河地域にイギリス軍がいるので、その基地を使います。さらにもう一つが沖縄です。

その後、エジプトが民族主義が高まりイギリス軍が徐々に追い出されていき、スエズ地域の基地が使えなくなります。そこでアメリカはその代わりにイタリアの植民地で戦後イギリスが管理していたリビアと、フランスの植民地だった、アルジェリア、チュニジア、モロッコという北アフリカ諸国に基地を置きます。特にモロッコは戦略爆撃機の基地として重要でした。

1949年から50年ごろになると、核攻撃基地は、イギリス、モロッコ、沖縄となります。

国防総省の原子力担当の国防次官補がまとめた文章があります。「核兵器の補完と配備の歴史1945年7月から1977年9月まで」という文書で、200数十ページのものですが、ほとんど非公開です。しかしこの文書は世界のどこにどのような種類の核兵器を配備したのかが非常によくわかる資料です。

1950年から核弾頭を外した弾体を空母やグアム、イギリスに配備することを大統領が承認しました。グアムには1950年7月、つまり朝鮮戦争が始まった翌月に弾体が配備され、1951年から核弾頭も配備されます。ここには18種類の核兵器が配備され、現在もそうだと思います。ヨーロッパにもモロッコにも配備されます。ただ、北アフリカ諸国が独立すると米軍はどんどん追い出されていき、この地域では1960年代中にはなくなり、イギリスに集中します。

沖縄には、1954年から弾体が配備され、その年末には核弾頭も配備されます。核砲弾(大砲)、短距離・中距離ミサイル、地対空ミサイル、空中発射ミサイル、空対空ミサイル、対潜ロケットなど17種類の核兵器が配備され、1972年5月に施政権が返還されますが、その6月にすべて撤去されたと書いてあります。

日本本土はどうなのかというと、1954年から65年まで弾体は配備されていますが、核弾頭そのものは配備されなかったようです。当時アメリカ政府の国防総省や国務省で議論されています。1962年3月の国防総省の文書には、「国防総省は長年、反撃できる空軍力を整備するために日本への核兵器の貯蔵を希望している。しかしながら日本の反戦、特に非核感情の強さからそれが政治的に非現実的なものとなっている。」とあります。この前後に会議が行われていて、国防総省は日本に核兵器を配備したいと主張するのですが、国務省は認めません。もし日本国民にばれたら安保条約そのものが吹っ飛んでしまうと抵抗します。ですから、実際には配備されなかったと考えてよいと思います。ただし、空母や潜水艦、航空機に積んで日本に入ってくることは配備ではなく「一時通過」ということで、これは密約で認められていました。

1960年代まで日本本土には、核攻撃をおこなう爆撃部隊がいました。福岡の板付、東京の横田、青森の三沢です。ここには弾体だけ配備されていて、核弾頭は沖縄の嘉手納から輸送機で持ち込みます。そして組み立て、爆撃機に積んで攻撃に向かいます。嘉手納を出発してから横田に持ち込んでそこから爆撃機が発進するまでの所要時間は4時間と想定されています。板付は3時間で三沢は5時間です。しかし米空軍はその時間ももったいないので日本本土に配備したいと言っていました。

日本本土での核兵器に反対する運動が、米軍による核兵器の配備を阻んだと言えるでしょうが、いざという場合には、核戦争の出撃基地にされていたことまでは阻止できませんでしたし、海軍の艦船などのよる核兵器の持ち込みも密約によっておこなわれていました。ただ安保条約を維持するために日本本土にはある程度の配慮がなされていましたが、そのしわ寄せ、負担は沖縄が負わされていました。

硫黄島と父島には、日本に復帰するまで核弾頭が配備されていました。硫黄島には空軍の核爆弾、父島には海軍の核爆弾が配備されていました。なぜ、この2島に配備されていたのかというと、核戦争になった場合、日本から米空軍や米空母が核攻撃をかけます。そうすると当然、報復を受けます。在日米軍基地が核攻撃を受けます。そうなると日本列島の米軍基地が使えなくなります。その時の予備として硫黄島と父島に核兵器を配備したのです。

ですから、アメリカにとって日本が核攻撃を受けて破壊されるということは想定内のことなのです。

このころのアメリカでの議論では、「基地は原水爆を吸収する」「基地は磁石である」ということが書いてあります。海外に展開している米軍基地はソ連などの核攻撃を吸収してくれる、だから米本土の安全が守られるというのがアメリカの戦略なのです。私たち日本人にとってみれば大変なことなのですが、ワシントンからみればそれによって自分たちの安全が保障されるという発想なのです。日本はメリカの捨て駒にされ、沖縄は日本本土の捨て駒にされるという差別の構造があると思います。

核戦争計画は、軍が作っていたのですが、アイゼンハワー大統領の最後の時期に、軍が勝手に作っているのはよくないということで、大統領のもと、陸海空軍を合わせた包括的な作戦が必要ということで、1960年に単一統合作戦計画SIOP(Single Integrated Operational Plan)というのが作られます。これ以降、核戦争計画は大統領が承認したものとなります。この1960年に作られたのがSIPO62と呼ばれ、これによると先制攻撃をする場合に、ソ連や中国、その他の同盟国の1060の目標に向けて3200発以上の核兵器を打ち込むという計画です。死者は1000万人以上を想定しています。この計画は数年ごとに改定されています。SIOPは現在に至るまで全面的に非公開ですが、アメリカの研究者の努力で大まかな輪郭はわかってきています。

 アイゼンハワーの後にケネディが1961年1月にアメリカ大統領に就任します。国防長官はベトナム戦争を指揮したマクナマラです。

 ケネディは大統領になる前は上院議員で、その時はソ連対して弱腰だとアイゼンハワーを大統領を強く批判していました。1950年代の終わりは人工衛星の開発をソ連が先に成功させ、大陸間弾道弾の実験もソ連が先に成功させます。他方、アイゼンハワーは軍事費を削減しようとしていました。ですから、ソ連が核戦力を強化しているのに対してアイゼンハワー政権は遅れをとっていると批判していました。そのケネディが大統領になりました。

 ところがケネディは、大統領になって初めてSIOPなどの計画を目にすることができるようになったのですが、その時に彼は自分が持っていた、ソ連の方がはるかに強大な核戦力を保有していてアメリカは遅れているとい情報が嘘であることに気づきます。マクナマラも同じです。SIOPは大統領の承認が必要なものですが、核攻撃の対象のリストは大統領にわかりますが、なぜそこが対象として選ばれたのかという元になるデータは大統領にも国防長官にもわからない、説明されないようです。

全面核戦争を行った場合の死傷者の数が、SIOPでは1000万人から何千万人へと年々増えていき、最終的には1億人を超すような戦争計画になっていきます。国防長官を務めたマクナマラは、こんな戦争を軍は本気で考えているのかと驚きます。そして、この軍の独走を抑えないといけないと考えます。

その結果、ケネディは暗殺されます。もちろん誰が暗殺したのかはわかっていませんが、軍産複合体ではないかという疑惑が絶えないのは、こうした状況があったからです。

SIOPの計画に関しては、アメリカの研究者のものを読むと、ケネディは抑えようとして暗殺されてしまい、その経験が深刻な影響を与え、その後の大統領はこうした核戦争計画にメスを入れようとしなくなったようです。大統領も怖くて手を出せなかった、軍の出したものをそのまま認めるしかなかったということです。SIOPは冷戦が終わってからも名前を変えて同じような計画が作られつづけているようです。

 

米軍基地と植民地主義

 ここで少し視点を変えて、米軍基地の展開を考えたいと思います。アメリカはヨーロッパ諸国とは違って、植民地には批判的だったという側面がありますが、基地に関してはどうだったのでしょうか。

インド洋にチャゴス諸島というのがあり、そこのディエゴガルシア島に米軍の巨大な基地があります。ここがアフガン戦争、イラク戦争で軍事介入の拠点となっています。現在のアメリカにとって重要な基地は、日本とイギリス、ドイツと並んでディエゴガルシアと言えます。これらを結ぶとユーラシア大陸を包囲していることがわかります。

ディエゴガルシアは現在でもイギリスの植民地です。モーリシャスがイギリスの植民地であったとき、その中の一つでしたが、アメリカはインド洋に海軍基地を作りたいと考え、この島に目を付けました。1960年代まではインド洋地域、つまり中東からシンガポールまではイギリスの勢力圏でした。そしてアメリカは太平洋と大西洋が勢力圏でした。しかし、イギリスは1960年代から撤退をしていきます。その空白をアメリカが埋めようとします。海軍がインド洋に出て行くためには、まず通信施設が必要ということでディエゴガルシア島に目をつけます。ところが当時、モーリシャスは独立しようとしていました。独立してしまうと基地を作ることができなくなってしまいます。そこでアメリカはイギリスにチャゴス諸島をモーリシャスから切り離させます。モーリシャス側は反対しますが、イギリスが軍事力とお金(秘密裏にアメリカが半分負担)で押さえつけ、そこの全住民を追い出しました。住民がいなくなれば独立する心配はなくなります。植民地支配を続けるためにもっとも悪質な統治の仕方です。この結果、千数百人の島民がモーリシャスなどの強制追放されますが、かれらの多くはいまでも難民生活を余儀なくされており、裁判で戦っていますが、島に戻ることは許されないままです。

そして1973年、米軍の通信施設が稼働します。同時に、通信施設へのアクセスのための飛行場もできています。

このディエゴガルシアの利用は、実は横須賀の米空母母港化と密接につながっています。この点はすでに新原昭治さんが明らかにされていますが、米軍は、1970年、71年の段階では横須賀ら撤退することを決めます。そして佐世保に米海軍を集中させることを考えます。日本政府も了解します。

ところが、それに海上自衛隊が猛反対します。それは、横須賀が日本に返還されると、海上自衛隊はそれだけの規模の基地は使えないので民間が利用することになります。民間が利用し始めると軍は二度と使えなくなってしまいます。海上自衛隊としては、伝統ある横須賀基地ですから、中曽根防衛庁長官や佐藤栄作首相に働きかけて返還をやめさせようとします。アメリカ海軍内部でも横須賀を残しておくべきだという意見もありました。アメリカ海軍の中での詳しい経緯は明らかになっていませんが、結局、横須賀は残ることになりました。米軍が返すといっているのに日本側がそれは困る、返還しないでくれということが起きていたのです。現在でもアメリカ国内では沖縄の海兵隊撤退論が出てきているのに、日本政府が海兵隊をあくまでも沖縄にとどめようとしていることに似ています。

1973年、空母ミッドウェーが横須賀に配備されます。それは、ディエゴガルシアが使用できるようになったのと同じ時期です。興味深いのは、米軍は1972年の段階でインド洋の管轄権をヨーロッパ軍司令部から太平洋軍司令部に移管します。太平洋軍の司令部はハワイです。西太平洋は第7艦隊が管轄していました。そしてその第7艦隊にインド洋も管轄させるのです。そのためのディエゴガルシア島なのです。

1950年代に一度、米艦船がインド洋に入りました。ところが何日間か通信不能となりました。電波が届かなかったのです。インドは中立国で、外国軍基地は置かせません。ですから、インド洋に米海軍が展開するには通信中継基地が必要だったのです。そこでディエゴガルシア島に目をつけたのです。そのディエゴガルシアが使えるようになって横須賀を空母の母港とし、第7艦隊の管轄にインド洋を加えたのです。

横須賀の空母母港化は、ディエゴガルシアの使用とセットなのです。横須賀の空母母港化は、在日米軍がその活動範囲をインド洋から中東にまで広げたこと、中東への軍事介入を意味しています。ですから、空母の母港化は、日本の安全とは全く関係ありません。
  このように、アメリカは地球規模で考えているので、日米関係もその中で考えないと正確には見えてこないのです。

時間がないのでくわしく紹介できないのですが、米軍基地を確保するためには植民地支配を利用し、それどころか植民地支配を維持することを選択してきました。あるいは独裁政権を支持することによって基地を確保してきました。自由を守るというのは表向きの建前にすぎず、実態は植民地や独裁政権を利用してきたのです。この植民地主義は次に紹介する刑事裁判権の問題にも通じます。

 

刑事裁判権の問題

  アメリカ兵が罪を犯しても日本側がなかなか裁くことができない実態は、何冊かの本が出て明らかになってきています。

 基本的に海外に駐留する米兵が犯罪を犯した場合、勤務中の犯罪であれば駐留軍が第一次裁判権を持ち、勤務中以外であれば受入国が第一次裁判権を持つという形になっています。

 しかし実際には、受入国に第1次裁判権があるのに放棄したというのは、1954年から58年は世界で69%にのぼります。ところが最近のものを調べてみますと、1997年から2005年のデータでは84から94%放棄しています。1950年代よりもひどいのです。2008年は93・2%です。

 そのなかで日本では、1950年代は97%放棄しています。2001年から08年は83・1%です。(ただし、日本政府とアメリカ政府では統計の取り方が微妙に違うので完全には対応しません)

 受入国が裁判権を放棄している背景には、いろいろな密約や協定があります。ドイツ、オランダは第1次裁判権をすべて放棄するという約束を明文化し公表されています。しかし重大な犯罪については放棄することを取り消したいとアメリカ側に申し入れることができるとなっています。ただしアメリカ側が受け入れなければだめです。

 日本の場合は、すべて放棄するという約束にはなっていませんが、いろいろな密約があります。例えば、犯罪が通知されてから、軽微な犯罪は10日間以内に、その他の強盗、殺人、強姦などの重大な犯罪は20日以内に裁判権を行使することを通告しないといけないことになっています。その期間内に通告がなければ裁判権を放棄したとみなされます。実際は、米兵は罪を犯しても基地に逃げ込めば身柄の拘束ができず捜査が遅れ、その結果自動的に放棄したとみなされてしまいます。また日本は重大な事件以外は裁判権を行使しないことをあらかじめ約束していたこともわかっています。

 米軍は、受入国が裁判権を行使することがないように駐留する軍司令官に指示しており、受入国が裁判をできるだけおこなわないようにしています。

 

米軍基地撤去の展望

  最後に米軍基地をなくせるのかという問題を考えたいと思います。

 米軍基地がなくなった国というのはたくさんあります。受入国の政府がこの基地は撤去してくれといえばアメリカ軍はそんなには抵抗できません。特に選挙で基地撤去を訴えた政党による新しい政権が誕生した場合、アメリカは拒否できません。これはある意味、民主主義国であるアメリカらしさです。民主的手続きで撤去を求められた場合は拒否できません。こうして米軍基地をすべて撤去させたり、少なくとも特定の基地を撤去させた例はたくさんあり、そのリストは、私の本でくわしく紹介していますので、そちらをご覧いただければと思います。

 1990年代にフィリピンで基地を全面的に撤去させたことは有名ですが、最近ではエクアドル、アイスランド、パナマから撤退しています。また、その国の米軍基地すべてではありませんが、特に危険な基地ということで反対運動が高まり、その結果、撤退しているのは、プエルトリコのビエケス演習場と韓国のメヒャンリ(梅香里)演習場です。スペインやギリシアも減っていますが、それぞれ政権が個別の基地撤去を要求して実現しています。ですから、米軍基地が減らないのは、アメリカの側の責任もありますが、むしろ日本政府がそれを要求しないことが最大の原因でしょう。安保条約を支持し、米軍基地が必要だと考える日本政府でも、海兵隊は危険であるし、海兵隊基地を受けいれている国は世界のどこにもないのだから、沖縄の海兵隊は米本土に引き上げてくれと要求すれば、アメリカ政府は真剣に対応せざるをえないでしょう。日本国民の生命と安全を守るべき日本政府であれば、それくらいは主張できるはずですし、そうすべきです。

 さてグアムへの海兵隊移転の計画が変わってきていて、まだ予断を許しませんが、21世紀に入ってから米軍の基地の配置がかなり変わってきています。特に冷戦が終わってからは、必要ないのではないか、なくしてくれという要求が強いので、フェンスで囲んだ排他的な基地を使用し続けることが難しいということをアメリカ側もかなり感じています。二一世紀に入り、受入国の軍隊の基地を使用したり、物資を集積するだけで兵員を駐留させなかったり、飛行場や港湾の使用権(アクセス権)を確保するというように、排他的な基地とは違う形態の基地形態を考えるようになってきています。

 たとえば、在沖海兵隊のグアム移転にかかわってオーストラリアに海兵隊がローテーションで配置されますが、そこには米軍基地はありません。フィリピンにも海兵隊員が常時数百人いますが、基本的にフィリピン軍の施設を使います。米軍基地を設けると反発を受けるので、現地の国軍の施設を利用するかたちで対応するのです。その方がコストもかかりません。

また、21世紀に入ってラムズフェルド国防長官のときに進めた方法ですが、世界各地に米軍を貼り付けておくと人数も多くなるしコストもかかります。それで戦闘部隊はできるだけアメリカ本国に集約し、必要なときに必要なところに派兵するようにしました。人であれば地球上どこでも1日あれば派兵できます。軍需物資は、あらかじめ地球上のあちらこちらに置いておきます。例えば海兵隊は2000から2200人単位で行動しますが、これらが1カ月作戦行動するのに必要な武器、弾薬、食糧、燃料、医薬品等を2、3隻の船に積み込んで、ディエゴガルシアやシンガポールなどに置いています。船に積んで港に停泊する方法であれば、そこからの輸送もかんたんですし、目立たないので、地元との軋轢もおこりません。

 沖縄の海兵隊についても、同様な措置をとらせるという中間的な措置もあろうかと思います。つまり海兵隊の物資は自衛隊基地などで保管しておくが、兵員はアメリカに引き揚げるという方法も、過渡的な形態としてはありうるのではないかと思います。

 沖縄に基地が集中していることが逆に問題だということが最近の少しずつ報道されるようになっています。このことは実は1950年代からいわれています。1957年にナッシュ(元国防次官補)という人物がアイゼンハワー大統領の指示を受けて、世界各地の米軍基地の実情を調査した報告書が出されています。このなかで、沖縄に基地が集中していると攻撃されやすいので分散配置する必要があると言っています。これは軍の論理からいえば当たり前です。今日でも海兵隊の分散配備が言われていますが、沖縄は中国に近すぎて、集中しすぎていると、破壊されやすいということが懸念されています。沖縄から基地を減らせということは、平和主義あるいは人権という観点からいってもそうですが、軍の論理からいってもそうだということがいえるのではないでしょうか。ですから、沖縄県民はいま戦争に巻き込まれるという点で危険な状況にあるといえるのではないでしょうか。これは日本本土も同じではないかと思います。

 米軍は、基地があるときはその基地は重要だと強調しますが、なくなればパッと切り替えて新しい状況に応じた対応策をとります。ですから、在日米軍への対応は日本政府の問題といえます。

 鳩山政権が誕生したとき、アメリカ政府は普天間飛行場の問題についてどういう提案がくるのか待っていたそうです。しかし、それがなされないままに終わってしまいました。代替施設の建設なしの普天間飛行場の撤去という課題は、十分に実現の可能性があると思いますし、それを阻んでいるのは日本政府と言えるでしょう。

日本に比べてもはるかに小さな国々が、堂々とアメリカに対して正論を主張して基地撤去を実現しています。日本国民に必要なことは、アメリカに媚びへつらう奴隷根性を捨て去り、日本国民の生命と安全を守るために正論を主張することであり、そうした声によって日本政府を変えることだと思います。

  (今日の話のくわしい内容は、林博史『米軍基地の歴史 世界ネットワークの形成と展開』吉川弘文館、2012年、を参照してください。)