Le Monde diplomatique   L'Atlas Histoire, Histoire critique du XXe siecle, 2010

アジア太平洋における第2次世界大戦と日本
                                                林 博史


フランスの雑誌Le Monde diplomatiqueが刊行した20世紀の世界歴史地図に書いた一項目です。フランス語の見出しでは「アジア太平洋における日本の勝利と没落」となっており、見開き2ページで、日本の占領地域が最大になったときの地図と、連合軍の反撃で追い詰められた1945年時点の地図の二つも掲載されています。参考文献は英語文献で思うつくものを挙げただけです。ここの掲載したのは、私が出した日本語の原稿で、それを編集部がフランス語訳しました。
 なおこの雑誌には、以前に小文を書いたことがあります。これは『ル・モンド・ディプロマティーク』日本語・電子版のウェブサイトで読むことができます。2005年8月号に書いた「自らの戦争犯罪に直面する日本」はこちらでごらんください。
http://www.diplo.jp/articles05/0508-4.html      2011.1.29記


 1945年に日本の敗戦によって終わった戦争は、1931年の満州事変、すなわち中国東北(「満州」)への侵略から始まった。満州に駐留していた日本の関東軍が鉄道を爆破し、それを中国側の攻撃だと宣伝して満州を制圧した謀略だった。対米戦と対ソ戦を戦い抜くために長期持久戦をおこなえる体勢を作ることが目的だった。しかし満州だけでは資源などが不足するため、中国華北も支配下におくための謀略を継続した。1937年に北京郊外の盧溝橋でおきた日中両軍の偶発的な衝突を契機に、一気に戦争を拡大した。この事件について日本の歴史修正主義者は、日本を戦争に引きずり込むための中国、特に共産党による挑発だと言っているが、日本の研究では事件は偶発的だったととらえるのが一般的である。なお中国の研究では日本軍の意図的な行為としており日中の見解は一致していない。

 参謀本部の主流は対ソ戦準備を優先する立場から事態の収拾を図ろうとしたが、陸軍省や政府が拡大論を取った。さらに天皇は、兵力を集中投下して中国側に大打撃を与えて一気に収拾しようとする強硬論を主張、海軍も上海方面での戦線拡大を図ったため、全面的な戦争へと拡大していった。首都南京を落とせば中国は屈服すると考えた日本軍は準備もなく南京になだれ込み、大量の残虐行為をおこなった(南京大虐殺)。満州事変以来の軍による宣伝や中国を敵視するメディアの影響もあって国民の反中国感情が高まり、それが戦争拡大論を支えた。したがって陸軍が一貫して戦争推進の中心勢力だという理解は適切ではない。

 しかし短期間に中国を屈服させようとする天皇のねらいは失敗し、戦争は長期化した。その中で膨大な臨時軍事予算が組まれたが、その過半は対ソ戦(陸軍)と対英米戦(海軍)の準備のために密かに使われていた。

 ドイツの当初の成功に目を奪われた日本は19409月ドイツ、イタリアと同盟を結んだ。417月の独ソ戦の開始に対して、日本は南進と北進の両方の準備をした。同月、満州に85万人の陸軍を動員してソ連への侵攻を準備すると同時に、南部フランス領インドシナに進駐し東南アジア侵攻の態勢作りをおこなった。しかしソ連軍が予想以上にドイツ軍に対して持ちこたえたため、南進へと進むことになった。それに対してアメリカが石油輸出禁止などの制裁をおこない日米対立は激化した。アメリカと妥協するには、中国本土から兵を引き、少なくとも満州まで後退する決断が必要だったが、多くの日本軍将兵の血を流した中国の地を放棄することを陸軍は拒否した。国民を戦争に煽ってきた手前、いまさら兵を引くことは自己否定につながると考えたからだった。戦後になってから天皇は、自分が開戦に反対すれば「国内の与論は沸騰し、クーデタが起っただろう」と語っているが、戦争を煽ってきた国家指導者たちが国民世論を恐れて戦争回避の選択を放棄したのである。

 英米と戦ったアジア太平洋戦争は、石油などの重要資源を確保して中国との戦争を継続し、持久戦の態勢を作るためだった。そのために占領地には軍政をしき、独立運動は抑えることが開戦直前の大本営政府連絡会議において秘密裏に決定された。さらに435月には天皇が主催する御前会議において、重要な資源を有する、現在のマレーシア、シンガポール、インドネシアなどにあたる地域は「帝国領土」とすることを秘密裏に決定した。このことはこの戦争がアジアの解放のためだという歴史修正主義者たちの主張が、当時のプロパガンダを鵜呑みにしたにすぎないことを示している。またアメリカが挑発して日本に戦争をやらせたという主張も、中国への侵略戦争から目を背けるものでしかない。

 短期間で片付けようとした戦争が長期化し、それを処理するためにさらに新たな戦争を始める。国民を戦争に駆立てていったために、撤退する決断ができず戦争拡大へ突き進んでいく。ミッドウェイ海戦での敗北以来、天皇はどこかで米軍に打撃を与えて優位に立ち、天皇制を残して戦争を終わらせることに執着した。支配層内では早く戦争を終結させようとする動きがあったが、天皇は東条英機を支持し続け、447月に東条が首相を退陣してからも日本軍による反撃に期待をつないで、戦争の早期終結を訴える近衛文麿元首相の意見を拒否した。彼が米軍への打撃論をあきらめたのはようやく456月末にことだったが、天皇制を残してもよいというアメリカからのメッセージを受けてポツダム宣言受諾を受け入れたのは、2発の原爆とソ連参戦の後のことだった。将兵と民間人を合わせて310万人にのぼる日本国民の戦争での死者の圧倒的多数は44年後半以降に集中している。

 敗戦後、アメリカの物量と科学に負けたのであって、中国に負けたのではないという意識が日本社会では蔓延した。その認識―それは中国などアジア民衆に対する侵略戦争と残虐行為をおこなった日本の加害の意識を欠落させている―は、最強者アメリカとの同盟こそが日本の安全にとって不可欠であるという選択につながった。

一部の知識人を除いて、中国などアジア民衆に対する侵略戦争を真に反省しようとする市民が多数生まれてくるのは1980年代以降を待たなければならなかった。侵略戦争と認め批判する人々と、戦争を正当化する人々が真っ二つに分かれて対立しているのが今日の日本である。

<参考文献>
Herbert P. Bix, Hirohito and the making of modern Japan, New York: Harper Collins Publishers, 2000
Saburo Ienaga, The Pacific War, 1931-1945, New York: Pantheon Books, 1978