arcアーク』13号 2009

世界史の中の現在

                         林 博史


 これは『arcアーク』(発行レイライン)という雑誌に書いたものです。この号には、湯浅誠さんや堤未果さんのインタビューも掲載されています。この雑誌については、レイラインのウェブサイトwww.leyline-arc.com をご覧ください。この号は1冊1200円+税です。 2009.12.24記


1、ダーバン会議

  21世紀は9.11事件とそれに続く戦争とテロによって始まったという感が強い。しかしこの間、ようやくアメリカも含めて世界が冷静になってきている。

9.11事件のショックによって忘れかけているのが、その直前まで開催されていたダーバン会議である。このダーバン会議とは、2001831日から98日まで南アフリカのダーバンで開催された「人種主義、人種差別、外国人排斥及び関連ある不寛容に反対する世界会議」のことである。

ここでの政府間宣言において、「奴隷制と奴隷取引は人道に対する罪」であることが ( うた ) われ、「植民地主義が人種主義、人種差別、外国人排斥及び関連のある不寛容をもたらし、アフリカ人とアフリカ系人民、アジア人とアジア系人民、及び先住民族は植民地主義の被害者であったし、いまなおその帰結の被害者であり続けている」。「奴隷制、奴隷取引、大西洋越え奴隷取引、アパルトヘイト、植民地主義及びジェノサイド(大量虐殺)がもたらした大規模な人間の苦痛と無数の男性、女性および子供たちの苦境を認め、深く残念に思い、過去の悲劇の犠牲者の記憶に敬意を捧げ、それがいつどこで起きたものであれ、それらが非難されねばならず、再発が防止されねばならないことを確認するよう関連する各国に呼びかける」などという内容が盛り込まれた。  

 16世紀から19世紀にかけてヨーロッパによって展開された奴隷取引と奴隷制が廃止されたのは19世紀後半のことであるが、21世紀初頭の時点で、これが人道に対する罪であることが国際社会で明確に確認されたのである。

このダーバン会議では政府間宣言とともにNGO宣言も出され、そこでは、「(前略)これらの人道に対する罪を認め、賠償することを拒否し、あるいは失敗してきたことが、人種主義、人種差別、黒人に対する敵意、外国人排斥及び関連ある不寛容の強化において決定的な役割を果たしてきたことを認識し」、「これらの犠牲者に正当かつ公正な賠償を提供する義務を認めるべきである」と被害者への賠償を明記した。これに比べると、政府間宣言では、植民地主義への謝罪と賠償の必要性には触れないという限界がある。しかし奴隷制や植民地主義そのものを許さないということが国際社会で確認されたことは世界史上、きわめて意義深い。

9.11事件とその後の英米などによる独善的な軍事力行使は、世界が19世紀の弱肉強食の帝国主義の時代に逆戻りしたかのような風潮を生み出したが、世界の流れは決してそうはなっていないことがこのダーバン宣言にも示されている。

 

2、自国の歴史への自己批判と反省が求められていたのは、

けっして日本だけの問題ではなかった

  世界史における過去の問い直しは、1995年、つまり第2次世界大戦後50年のあたりから各地で進められてきた。ドイツの取り組みは有名だが、ドイツだけでなく、フランス、スイス、オーストリア、チェコ、イギリスなどでも第2次大戦中のホロコーストへの加担や無差別空襲などが取り上げられ、謝罪と和解への動きがおこった。その背景には帝国主義への批判的な研究が進展し、歴史教育の中でも自国の帝国主義(植民地支配、奴隷制など)への批判と反省がなされるようになってきていたことが指摘できる。

 先住民に対する差別迫害については、すでにアメリカが1980年代からネイティヴ・アメリカンや日系人に対する謝罪と補償措置をおこなっており、そうした動きは、オーストラリアやカナダなどにも広がっていった。1990年代に日本を含む東アジアにおいても日本の侵略戦争と残虐行為の被害者への謝罪と個人補償を求める運動が始まったのも、そうした世界的な取り組みの一環であったと言える。自国の歴史への自己批判と反省が求められていたのは、けっして日本だけの問題ではなかったのである。

なぜこうした動きが広がっていったのか、ということだが、たとえば、ヨーロッパではEUによる統合が進み、共通通貨ユーロが導入された。また各国はすでに多民族国家になっており、旧植民地やその他の途上国から多くの人々が労働者として入ってきている。あるいはEUの経済交流のなかで多くの人が国家の枠を超えて仕事をし、活動をしている。二重国籍を認めている国も少なくない。そうした中で、自国は正しくて、周りの国が悪いのだなどという自己中心的な主張は通用しにくくなっている。

有名な出来事であるが、フランスでおこなわれたサッカーのワールドカップのとき、フランス代表といっても、一般の日本人がフランス人としてイメージする白人ではない代表選手がたくさんいた。有名なジダンはアルジェリア系であるし、アフリカや中南米、太平洋諸島出身の黒人もいた。フランスの極右は、これはフランス代表ではないと非難したが、実際にはこうした多様な人々によってフランス国家が構成されていることを認めざるを得ない。そうなると、かつての帝国主義国であったフランスはすばらしかったという、植民地を正当化するような議論は、多様なフランス国民の共通の歴史認識としては成立しにくくなってくる。また、フランスに限らず、グローバリゼーションの進展も、自国だけに通用する「神話」の基盤を解体させる効果がある。

もちろんグローバリゼーションへの反発がより排外主義的国家主義的な対応を生み出す側面がある。また帝国というのは多民族国家であるから、自国内の少数民族や人種への差別迫害を反省するということは、新たな帝国統合の論理につながる危険性があることにも注意しておかなければならない。  

話をもどすと、さらにその背景には、現代社会の行き詰まりがあるだろう。近代以来の自分たちの歴史をすべて肯定し、正当化するならば、なぜ今、こんなことになってしまっているのか、が理解できなくなる。奴隷制や植民地主義という問題だけでなく、環境問題もそうである。経済成長が当然であるようになるのは近代社会からであって、環境問題を考えると、近代社会の根本に問題があるのではないかという問題意識は当然出てくるだろう。

 

3、「日本」が抱えている問題と、世界史的な認識の転換

  日本の問題に目を向けてみると、2007年に米下院をはじめ、オランダ、カナダ、EU議会において、旧日本軍「慰安婦」問題で日本政府がきちんとした謝罪を行うべきであるという議会決議が次々にあがった。EU議会決議では明確に被害者への賠償措置も求めている。日本ではこうした一連の決議に対して、「何十年も前のことをいまさらなぜ謝罪するのか」、といったピンボケの反応か、あるいは「欧米による日本叩きだ」という感情的な反発がほとんどだった。国家間の賠償ですでに決着がついているという議論も依然として強い。

 1990年代に戦時性暴力の問題をめぐって世界史的な認識の転換がおきている。旧ユーゴスラビアにおける組織的な性暴力の頻発は世界に衝撃を与えた。国際社会が戦時性暴力についてきちんと取り組んでこなかったことへの痛切な反省が生まれた。そのなかで、20世紀における最大の組織的な性暴力と言える日本軍「慰安所」制度を国際社会が放置してきたことが、その後、現在に至るまで戦時性暴力が野放しにされ、さらに深刻化したことにつながっているのではないかという反省である。

戦時性暴力を国家間の問題としてしか見てこなかった国際社会の認識を批判し、女性の人権問題、人間の尊厳を 蹂躙 ( じゅうりん ) た問題であり、そこから被害者ひとりひとりの尊厳を回復する問題であるという、世界史的な認識の転換がなされたのである。国連の人権委員会(現在は人権理事会)での議論はそうしたものだった。国家間の賠償で問題を終らせようとする、被害者を無視した国家間の談合への痛烈な批判でもあった。

 200010月に採択された安保理決議1325号「女性・平和・安全保障」は、90年代の議論の一つの成果と言える内容を含んでいる。その一項目として、「すべての国家には、ジェノサイド、人道に対する罪、性的その他の女性・少女に対する暴力を含む戦争犯罪の責任者への不処罰を断ち切り、訴追する責任があることを強調する」とされた。2008年と2009年と二度にわたって、同趣旨の安保理決議が採択されている。戦時性暴力に対する不処罰の負の連鎖を断ち切ろうとする決議であり、200012月に東京で、アジア各国の市民団体が共同で開催した、「日本軍性奴隷制を裁く2000年女性国際戦犯法廷」も同じ意図が込められたものだった。

  米下院決議を推進したハイド元下院国際関係委員会(現在の外交委員会)議長は、「慰安婦」決議採択にあたって声明を出しているが、そのなかで、「女性や子供を戦場での搾取から守ることは、単に遠い昔の第二次大戦時の問題ではありません。それはダルフールで今まさに起こっているような悲劇的状況に関る問題です。『慰安婦』は、戦場で傷つく全ての女性を象徴するようになったのです」と語っている。

また決議の提案者であるマイク・ホンダ議員を支えたアメリカのNGO団体「アジア・ポリシー・ポイント」のミンディ・カトラー代表は、20072月におこなわれた下院公聴会において、「日本軍の慰安所は、ボスニア・ルワンダ・ニカラグア・シエラレオネ、ダルフール、ビルマなど、今日の戦争や市民紛争の議論で頻繁に取り上げられる性奴隷制・戦時性暴力・人身売買など全ての問題の前身ともいうべきものでした」と証言した。

こうした認識は、1990年代以来積み重ねられてきた国連人権委員会での議論とつながるものであり、今日の戦時性暴力を解決するためにも日本軍「慰安婦」問題を国際社会として取り上げ、その解決をはかるべきだという姿勢である。

 

4、日本の「慰安婦」問題をどうとらえなおすのか

  決議が採択された時の下院外交委員会議長のラントス氏は、あるインタビューに答えて(徳留絹枝「米議会と日本の歴史問題」)「この決議は、日本の過去の政府の行為を罰しようというものではありません。そうではなく、日本の真の友人として、米議会は決議案121を通じて、これらの女性と日本の国が癒され未来に向かうために、日本が過去の困難な時期の出来事を全て公式に認めるよう、頼んでいるのです。そのような癒しの過程は、日本の人権擁護への取り組みを再確認するだけではなく、日本の隣国との関係を改善し、アジアと世界におけるリーダーとしての地位を強固にするでしょう」と語っている。

戦時性暴力は、戦争にはつきものだとして長年にわたって放置されてきた。組織的な性暴力制度である日本軍「慰安婦」制度も放置されてきた。そのことへの国際社会としての反省が背景にはある。日本がこの問題をきちんと解決できれば、日本はこの問題解決のリーダーとしての役割を果たせるだろうという期待が込められている。

さらにEU議会決議を見ると、その中には「“慰安婦”制度は輪姦、強制堕胎、屈辱及び性暴力を含み、障害、死や自殺を結果し、20世紀の人身売買の最も大きなケースのひとつであり」という表現が見られる。戦時にとどまらず、日常の性暴力・人身売買という視点が含まれている。日本軍が女性を「慰安婦」として動員していく際の主要な方法の一つが人身売買だった。政府首脳を含めて日本では、直接の暴力で無理やり連れて行くことだけが問題であり、人身売買や詐欺で連れて行かれても問題ではないかのような暴論を平気で口にする。このような日本社会が、今日においても人身売買された女性の主要な送り込み先の一つになっているのは必然だろう。

戦前戦中の「慰安婦」を連行したケースでも、北朝鮮による「拉致」のケースでも国内で適用されるのは同じ刑法226条である。ここでは、無理矢理連れていこうが ( だま ) して連れて行こうが、あるいは金で買って連れて行こう(人身売買)が、犯罪としては全く同じ重さである。だから、「慰安婦」問題の場合だけそこを区別し、極端に狭いケースだけが問題だと限定したうえで、そうした強制はなかったのだとするのはまさにダブルスタンダードでしかない。北朝鮮による「拉致」と同様に日本軍「慰安婦」の連行も重大な人権蹂躙行為であると言わなければならない。

米国務省は毎年「人身売買に関する報告書」を発表しているが、2004年に日本は「監視対象国」としてランクされた。あわてた日本政府は2005年に人身売買禁止議定書を批准し、刑法に人身売買罪を新設するなどして、翌年には「監視対象国」からははずされたが、同報告書では、「商業的な性的搾取のために売買される男女や子どもの目的地および通過国となっている」「被害者は相当数に上る」など、依然として日本は深刻な状況にあると指摘され続けている。

女性や子どもの国際的な人身売買は、19世紀後半にヨーロッパにおいて「白奴隷White Slave」として問題になり、そこから国家が売春制度を公認する公娼制を廃止しようとする運動が広がっていく。日本軍「慰安婦」制度の重要な特徴の一つが、国家による国際的な人身売買であったことである。日本軍「慰安婦」制度が国際社会でくりかえし取り上げられているのは、近代以来の、あるいは20世紀における世界が抱える大きな問題の一つであり、その解決は国際社会が抱える大きな問題解決につながるという認識と、その解決に果たす日本への期待であると言える。しかしながら、日本政府も日本社会も、こうした世界史的な取り組みと認識が理解できず、国家間の賠償で決着済みの、過ぎ去った昔のことでしかないと考えること自体を拒否しているのだ。 

 

5、韓国における「過去の克服」への努力 

  隣国の韓国に目を向けてみると、長年の闘いによる民主化の一定の達成をふまえ、さらに自らの未来のために、自らの過去を総括しようとしている。

1990年代に入ってから、1980年の光州事件での犠牲者への補償金の支払い、1948済州島の四・三事件での韓国軍や警察、右翼青年団体による民衆殺害についての真相究明と名誉回復措置、警察に捕まって理由がわからないままに死んでいった人たちについての真相究明などの措置がなされた。

2003年に盧武鉉政権が誕生するとさらに動きは活発化し、2004年の3月に「日帝強占下強制動員被害真相究明等に関する特別法」が成立する。同真相究明委員会が設置され、日本の植民地時代に強制動員された軍人、軍属、労務者、そして日本軍「慰安婦」などが真相究明の対象とされ、被害を認定する取り組みがなされている。この委員会の活動のなかで、日本に強制連行され、日本で亡くなった朝鮮人の遺骨多数が日本国内に放置されていることが判明した。市民団体や遺骨を預かっているお寺などの努力で遺骨の主を確認し遺族を探して、遺骨を返還する取り組みがおこなわれているが、まだ一千体以上が残されたままになっている。

2004年には老斤里(ノグンリ)事件の調査、犠牲者の名誉回復のための特別法が制定された。この事件は朝鮮戦争のときのアメリカ軍による住民虐殺事件であり、米軍のタブーがやっと打ち破られたと言える。そして、2005年には日韓国交正常化交渉の記録が全面公開された。日本政府は公開に反対したが、韓国政府の決断で公開された。真相を明らかにするためには、政府が持っている資料を公開しなければならないという韓国政府の意思が示された措置だった。

   

6、日本と韓国とアメリカ

 これらの韓国における「過去の克服」の取り組みの内容は、第に日本の植民地支配による被害、第二に戦後の分断過程と朝鮮戦争における、韓国軍や警察、米軍による民衆虐殺、迫害、第に軍事政権下になされた、民主化運動に対する弾圧、人権侵害、のそれぞれについて真相究明と被害者の名誉回復を図ろうとするもので、一部では被害者への補償もなされつつある。

こうして見ると、ここで扱われているのは、20世紀初めからの日本による植民地支配だけでなく、現在にいたるまで、つまりほぼ20世紀全体の歴史が対象となっている。

なぜそうなるのか、ということを考えると、朝鮮半島の歴史を振り返らなければならない。日本による植民地支配を支えていた朝鮮人の対日協力者たちは、日本の敗戦とともに民衆からの反発を恐れて逃げ出す。他方、植民地支配のなかで弾圧、抑圧されていた人々が幅広く結集し、独立にむけての建国準備委員会が各地につくられた。

ところが入ってきた米軍は、建国準備委員会は共産主義の影響があるとしてそれを認めずに軍政をおこなうが、そこで親日派を利用したのである。警察や官僚、教員など日本の植民地支配に協力した親日派は親米派になって生き延びた。これが南朝鮮の実態だった。後につくられる軍隊も親日派が牛耳っていく。親日派が突然、親米派になって生き延びるというのは、「鬼畜英米」を叫んでいた指導者たちが、敗戦とともに突然、親米派になったことを見ればわかるように、日本国内でも同じである。

韓国は19488月に大韓民国としてスタートし、李承晩が初代大統領になる。彼は親日派ではないが、国内に基盤がなかったので、親日派を基盤にした。1960年に学生たちの四・一九革命といわれている運動で李政権が崩壊したが、朴正熙の軍事クーデターでひっくり返される。朴正熙は、満州国の軍官学校を出た満州国軍の将校であり、日本の陸軍士官学校も卒業、満州で抗日ゲリラ討伐をおこなっていた典型的な親日派である。

「韓国」では、軍隊も、警察も、教育界、官僚も、親日派が実権を握っていった。民主化運動に参加した人たちへの拷問さえも、日本時代の憲兵や特高警察などの手法が韓国に引き継がれた。

   

7、自らの社会のあり方を問い直そうとしている韓国

 韓国において元「慰安婦」たちが長い間、名乗り出ることのできなかった、女性蔑視の社会風土もこの間、問題にされてきている。韓国での、「慰安婦問題」における日本批判は、同時に、韓国国家や社会への批判とつながっている。韓国の良心的な人々が、「慰安婦」問題など日本の植民地支配の問題を追及しているのは、日本を批判するだけでなかった。植民地支配の清算をしてこなかった韓国の国家や社会自体が大きな問題を抱えており、韓国の真の民主化を実現するためには、戦後の軍事政権の清算にとどまらず、植民地支配の清算をしなければならないという問題意識からである。

このように韓国でなされていることは、日本の植民地時代を含めた韓国自身の過去の歴史の精算でもある。現在の韓国社会を民主化しようとすると、戦後だけではない、二〇世紀のはじめから続いてきた社会全体を総ざらいしていかないと、本当の民主化ができないということなのだ。だから自らの未来のためにこそ、過去の克服という課題に取り組んでいると言える。そうした韓国の人々の努力を、「金ほしさにいつまでも昔のことをほじくりかえしている」としか受け止められない日本の人々の少なくない、心と感性の貧しさが際立つ。

むしろ韓国でのそうした人々が克服しようとしているものは、日本においてわれわれが克服すべきものと共通している。加害者の日本と被害者の韓国という単純な関係ではなく(この側面も軽視してはならないが)、未来に向かって共通の課題を克服するために共にたたかっていく仲間と言うべき関係であり、それが生まれはじめているのが現在である。  

 

8、オーストラリアとスペイン

 ほかの国に目を向けてみると、オーストラリアでは、200711月の総選挙で、イラク戦争などでアメリカを支持していたハワード保守政権が敗れて、労働党政権が誕生した。

20083月ケビン・ラッド首相が連邦議会でアボリジニーへの謝罪演説をおこない、同時に下院は謝罪決議を全会一致で採択した。これは1970年代までおこなわれたアボリジニーに対する非人道的行為への反省である。首相の演説のなかで、「我々オーストラリア議会は、国家としての回復の一端として提示されるこの謝罪が、同様の精神で受け入れられるよう敬意を込めて要請する。我々は、我らが大いなる大陸の歴史に、この新しい頁が今まさに書かれんことを決意し、未来への勇気を得る。我々は本日、過去を認め全国民の未来への権利を謳うことで、この最初の一歩を踏み出す」と語った。未来のためにこそ過去を克服しようとする姿勢が明確である。

 スペインの動きも興味深い。イラク戦争を支持した保守政権に対して、20043月の総選挙で社会主義労働者党(社会労働党)が第一党となり、ホセ・ルイス・ロドリゲス=サバテロ首相を首班とする政権が誕生した。その直前にマドリードで列車爆破テロが起きたことは記憶に新しい。この社会労働党政権の下で、2006年統一左翼の発議でスペイン議会は、同年を「歴史的記憶の年」と宣言した。そこでは「内戦の犠牲となった、あるいはその後、民主主義の原理と価値を擁護したため、フランコ独裁の弾圧を被ったすべての男女を称え、認知し、同様に、基本的諸権利や公的自由の擁護、スペイン人同士の和解を進めるべく努力し、1978年憲法の制定をもって民主主義体制の定立を可能にした人々をも、称えるものとする」と謳われている。翌200710月には「歴史的記憶の法」が成立した。

ここには、1930年代の内戦期からその後のファシスト党による独裁期を含めて、政治的イデオロギー的理由あるいは宗教的信仰から課されたあらゆる刑罰・制裁ほかの暴力は、根本から不当であること、そうした迫害・暴力の対象とされた人々の諸権利の認知・修復(名誉回復の宣言)をはかることなどが盛り込まれている。

サバテロ首相は1960年生まれであるが、祖父がスペイン内戦中、共和国軍の将校であり、フランコ派に捕らえられて処刑されている。日本にあてはめると、治安維持法で弾圧され殺された人の孫が首相になり、国家による弾圧の人権蹂躙を告発し、被害者の名誉回復を図ったといえるかもしれない。いまだに治安維持法などによる弾圧について反省も謝罪もしない日本政府・裁判所とは対照的である。

ちなみに、社会労働党は20083月の総選挙でも勝って政権は継続しているが、閣僚18人中9人が女性である。ブッシュ政権の戦争政策への批判、自国の過去の克服と、女性の政治進出=ジェンダー・バランスの達成、とは一連のものであることを示唆しているのが、スペインのように思われる。

 1990年代中ごろからの世界的な過去の克服の動きについて、ここではほとんど触れられなかったがさまざまな問題や課題が指摘できるし楽観もできない。アメリカやスペインのケースなどは、現在の国家の枠内にいる人々への謝罪と和解への動きであって、国家の外にいる旧植民地や侵略戦争の被害者に対するものではないという問題がある。しかし世界はけっして19世紀に戻ることなく、確実に新しい世界に向けて変化しつつある。そのことをはっきりと認識し、そのなかで日本のあり方を探求しなければならない。

   

9、歴史認識と現状認識はメダルの裏表

  歴史認識と現状認識はメダルの裏表である。今生きている社会と格闘するとき、なぜこうなっているのか、どのようにすれば変えられるのか、と真剣に考えようとするとき、歴史を振り返る必要がある。歴史学とは、過去を振り返ることを通じて未来を見ることである。日本では過去にこだわらず、振り返らないことが「未来志向」だなどと言う人々がいるが、とんでもない暴論である。この間、日本では、人々の歴史意識の衰退が重要な問題として、指摘されてきている。自分たちにとって都合の悪いことに対しては、いつまでも過去にこだわるなと言って切り捨てようとしながら、都合のいいものには、「伝統」だとか「日本」などというものを持ち出して喜ぶ。このような態度は、あまりにもご都合主義だろう。

さらにいえば、歴史意識の衰退は、一方では自己に都合のよい 恣意的 ( しいてき ) な観念との一体化、(しばしばナショナリズムと結びつく)、によって安堵感を得るか、内向化して自分の心に閉じこもるか、時には他者への排他的な攻撃性となって現われることもある。

今日の東アジアを見ると、人々の交流がこれほど進んでいる時期はない。それはグローバリゼーションという経済の話だけでなく、自らの過去を克服し、国家を越えた連帯と共同の輪を広げようとしている人々の交流という意味である。「戦争」という手段を使わずに問題を解決しようとする国際的な枠組みが、EU、ASEAN、南米や各地でこれほどまでに広がっている時代はこれまでなかった。自分の国は「いつも正しいのだ」「最も優れた国だ」「優れた民族だ」などという独善的なナショナリズムが時代遅れになりつつある。

さきに韓国の「強制動員被害真相究明委員会」のことを紹介したが、その委員会の初代事務局長の崔鳳泰さんと話したとき、彼は、「この委員会は韓国政府の機関だが、韓国や日本の良心的な人々に支えられて出来たものだ」「だから、みんなで利用してほしいし、日本のみなさんもぜひこの機関を利用してほしい」と言っていた。彼は長年民主化運動を闘ってきた人物だが、韓国民主化の過程のなかで国家機関の役職につき、その国家機関をアジアの人々が共有して活用していこうという姿勢を持っていた。

こうした動きに対する反発、攻撃も強いので楽観することはできないが、東アジアの人々が連帯し、共同して未来を作っていく条件が、あちこちで、出来つつある。

ようやく私たちは“東アジアの民衆の連帯”を展望することができる時代を迎えつつあるのだ。主権国家が最高の存在であった近代を、国家を超えた民衆の連帯によって乗り越える手掛かりを、私たちは、ようやく得つつあると言えるだろう。そのなかで、そうした開かれた認識を持てずに、世界史の流れの足を引っ張っている日本社会を変えることは、日本に生きている私たちの責任である。

 

【関連する文献】

戦後平和主義を問い直す―戦犯裁判、憲法九条、東アジア関係をめぐって』林博史著かもがわ出版2008/日本の戦争責任資料センター、女たちの戦争と平和資料館編『ここまでわかった!日本軍「慰安婦」制度』かもがわ出版2007年(第二章担当林)/林博史ほか編著『連続講義 暴力とジェンダー』白澤社/2009年日本の戦争責任資料センター/『季刊戦争責任研究』(20099月現在、65号まで)掲載までの各論考。