東京歴史科学研究会『人民の歴史学』第191号、2012年3月

文献紹介

吉見義明監修、内海愛子・宇田川幸大・高橋茂人・土野瑞穂編

 『東京裁判―性暴力関係資料』(現代史料出版、2011年)

                          林 博史


東京歴史科学研究会の機関誌に書いたものです。2012.5.26記


 東京裁判についての研究は一九八〇年代より本格的に始まると言ってよいだろう。アメリカ国立公文書館に所蔵されている国際検察局などの資料が利用され、被告の選定過程を含めて東京裁判の開廷にいたるまでの経緯や、天皇や七三一部隊の免責など裁かれなかった問題、東京裁判の背後における各国の動きなど多くの研究が蓄積されてきた。しかしそれらの多くは、重要ではあるが、ある意味では法廷の外側の問題であり、法廷において何が審議され、何が裁かれ、あるいは裁かれなかったのか、という法廷内のことは等閑視されてきたと言ってもよい。東京裁判に提出された膨大な証拠書類について、ある事件の検証のために関連するものだけを調べるということはあっても、証拠書類や法廷での証人尋問を全体として検証し、それらを通して、検察は何をどのように論証しようとしたのか、弁護側はそれに対してどのように反駁したのか、判決は具体的に何を事実認定し、どのような法理と事実認定に基いて個々の被告に有罪無罪の判断をおこなったのか、などの点についてはあまり関心が向けられてこなかった。

 詳細は省略するが、一九九〇年代にようやく審理過程をあつかった梶居佳広氏の研究が出され、二〇〇〇年に開催された女性国際戦犯法廷にむけた準備のなかでいくらかの調査がおこなわれ、内海愛子氏の論文も出された。その後、審理過程の分析に本格的に取り組んだ戸谷由麻氏の研究が出された。戸谷氏の成果を受けて、ちょうど安倍内閣のときに、日本の戦争責任資料センターが、東京裁判に提出された日本軍「慰安婦」に関わる証拠書類を外国人記者協会で発表し、世界的な反響があったのは二〇〇七年のことだった[1]。ただ、それらはまだまだ不十分な調査にとどまっていた。

 そうした中で、内海愛子、宇田川幸大、高橋茂人、土野瑞穂の四人による粘り強い調査の成果が本書である。本書は、東京裁判に提出された証拠書類のなかから、性暴力に関連するものを探し出し、証拠書類(邦訳)四〇点を約二〇〇頁にわたって写真版で掲載している。これまでの研究では見落とされていたものも含めて、初めてのまとまった資料集と言える。なお証拠書類の正文は英語であるが、弁護士や被告らのために邦訳も作成されており、本書ではその邦訳を掲載している。

 また本書には性暴力だけでなく民間人に対する戦争犯罪を扱った証拠書類のリストが約六〇頁にわたって掲載されている。性暴力関係以外はリストだけであるが、このリストがあれば証拠書類にはかんたんにアクセスできるので、大変に有意義であり、多くの研究者には欠かせないリストである。巻末には、開廷された四二三日の全日程とその日に扱われたテーマと証人が記された審理日程表が付けられており、これもきわめて利用価値が高い。また東京裁判についてのいくつかの基礎データも収録されている。

 順番が逆になったが、巻頭には四人の執筆になる「東京裁判と性暴力―解説にかえて」と題された詳細な解説が付けられている。ここでは、中国、フィリピン、その他の東南アジアにわけて検察の戦争犯罪立証の仕方とそのなかでの性暴力の扱いについて検討がなされ、さらに弁護側の反駁の内容、判決における性暴力の扱いと被告の個人責任の認定のあり方についても検証されている。これは解説と言う以上に、優れた論文として参照されるべきだろう[2]

掲載されている性暴力関係の証拠書類は、中国一〇点、フィリピン七点、ビルマ一点、香港三点、アンダマン諸島一点、オランダ領東インド九点、フランス領インドシナ九点、計四〇点である。宣誓供述書あるいは口述書が多いが、戦争犯罪についての捜査報告書からの抜粋、証拠抜粋などさまざまである。性暴力だけを扱っているものもあれば、いくつかの残虐行為のなかで性暴力にも言及しているものもある。

中国に関しては、民間人に対する犯罪を扱った証拠書類が一五〇件提出されており、そのうち性暴力にも触れているものは三九件とされている。フィリピンでは、民間人に対する犯罪に関する証拠書類が九五点提出されており、そのなかで性暴力に関するものは三五点であるが、強かん事件として独立して証拠が提出されているのは六点にすぎないという。本書には七点が収録されている。東南アジアに関しては、民間人に対する犯罪を扱った証拠書類一〇五件、うち性暴力に関するものが含まれているのが一三件とされている。

日本軍「慰安婦」に関する証拠書類としては、すでに日本の戦争責任資料センターが七点の資料を発表しており(『季刊戦争責任研究』第五六号、二〇〇七年六月)、主なものはここで確認されているが、本書にはそれ以外の資料も紹介されている。たとえば、フランス領インドシナに関して、提出された供述書のなかで(本書資料四〇)、さまざまな残虐行為の叙述につづいて、「前記の各地では仏蘭西人女子に対する陵辱行為も若干行はれました。ある婦人と一四歳になるその妹とは強制的に数週間約五十名の日本兵と雑居させられ、その虐待と暴行を受けました。その一人は発狂しました。彼女達は二人ともその後処刑されました。また別の例では、フランスで十五才になる一少女とその母親が強姦されて、殺害されたといふ例もあります。更にまた数地方では原住民婦女子は売淫行為を強制されました」と述べられている。

証拠書類をていねいに読み込んでいかなければ、見落としてしまうような記述も多く、本書の調査の丁寧な仕事ぶりがうかがわれる。

本書の活用方法はいろいろあるだろうが、一つは東京裁判における審理のあり方を速記録とあわせて分析し、東京裁判が何をどのように裁いたのか、あるいは裁かなかった(裁けなかった)のかを法廷の審理過程に即して分析することであろう。それには、多数派判決と少数意見判決もあわせて判決の論理を検証することも含まれる。

もう一つは東京裁判そのものの研究とは必ずしも言えないが、ここに提出された証拠書類は、日本軍がアジア太平洋各地でおこなった戦争犯罪の実態を解明するうえで貴重な資料群でもある。日本の戦争犯罪研究にはまだまだ落ちていることが多く、その手がかりを得る上でも重要である。

 ただ注意しておかなければならないのは、東京裁判に提出された証拠書類は、各国の捜査チームがおこなった戦争犯罪捜査の収集情報のなかのほんの一部にすぎないということである。たとえばフィリピンのマニラでは少なくとも数十人の女性が監禁され数日にわたって強かんされ続けられるという、いわゆるベイビューホテル事件がおこっており、それに関する「証拠概要」が検察側の証拠書類として東京裁判にも提出されている(本書資料一六)。この文書は、捜査報告書の一部で、基の文書には事件の概要や捜査の経緯、犯人と思われる日本軍将校に関する情報なども記載されているが、東京裁判に提出されたのは、そのなかの被害者の証言を整理した箇所である「証拠概要」だけである。またこの捜査報告書には、一〇〇人あまりの、八〇〇枚を超える宣誓供述書が添付されている。つまり八〇〇数十頁にわたる捜査報告書のなかの、ほんの数枚だけが東京裁判に証拠書類として提出されたのである。なおこの捜査報告書の一部はマニラにおこなわれた山下奉文の戦犯裁判にも提出されている。

このケースだけでなく各事件ともに本書に収録された資料あるいは資料リストに基いて、各国の戦犯裁判関係資料にあたって事件の実相を解明し、それぞれの事件が各国のBC級裁判においてどのように扱われたのかについても調べる必要がある。

 かねてから私が主張していることであるが、A級戦犯を裁いた東京裁判は、B級犯罪も裁いた、いわゆるAB級裁判であり、一連のBC級裁判との関連で東京裁判を理解しなければならない。なかなか大変な作業であるが、本書は戦争犯罪の実態解明のうえでも、同時に東京裁判とBC級裁判を結びつけて研究するうえでも重要な手がかりとなる、今後の研究にとって不可欠の資料集である。本書をまとめられた四人の労苦に敬意を表するとともに、本書が今後広く活用され、新しい戦犯裁判研究が生まれてくることを期待したい。

 

(注)


[1] これらの主な研究については、本書の解説ならびに拙著『戦犯裁判の研究』勉誠出版、二〇一〇年、第一章、参照。

[2] 解説の注15において、戸谷氏に対する米山リサ氏の批判として数行が引用されている。この後半の「アーカイブズ自体が帝国主義的に構成されていることに無批判のまま」云々という非難は戸谷氏のみならず私に向けられたものである。米山氏がこの文を書いた同じ本に私も東京裁判における性暴力関係資料について小文を書き、その巻末のブックガイドに三冊のうち一冊として戸谷氏の著書を挙げたことへの批判として米山氏の一節が書かれたと了解している。同じ本に執筆しながら、私には米山氏が書いたことは一切知らされず、米山氏はこちらの書いたものを読んで、一方的に断罪する文を書いた。なお戸谷氏の著書における「慰安婦」関係の叙述は、英語版と日本語版ではかなり違っている。私は日本語版での出版にあたり、事前に読むことを依頼されたので読んだ上でコメントし、それをふまえていくつかの点で戸谷氏は修正を加えている。そのうえで戸谷氏の日本語版をブックガイドに紹介したのである。ブックガイドに紹介することがそれを全面的に称賛することとしか考えられず、アンフェアーな方法で私を非難している文を、この解説の執筆者がいかなる意図で長々と紹介したのか、そこが理解できなかった。