沖縄戦の中のもうひとつの住民像

『季刊文芸誌 脈』第44号、1991年12月

林 博史


沖縄で出されている文芸誌に寄稿したものです。この号は沖縄戦の特集です。このテーマをさらに実証的に論じたものを『歴史評論』1992年2月号に「『集団自決』の再検討」として書いています。(『文芸誌 脈』の連絡先は、那覇市曙3-20-1 脈発行所。沖縄の書店には置いています。)  1999.4.1


 最近、読谷村を訪ねる機会が幾度かあり、知花昌一さんの話を聞くことがあった。チビチリガマとシムクガマなどに案内してもらった時に途中、大きな亀甲墓にも寄った。そのとき、知花さんが話してくれた内容はおおよそ次のようなことだった。       

  沖縄では自殺した人はこの墓にいれてもらえず脇に小さく葬られる。それは一族の血筋をたやさないことを大切に考えるので、自ら命を絶つことは許されない行為と考えられているからだ。沖縄は本土と違って、武士階級が成立せず、武士道にあたるものがなかった。武士道でいう、死を美徳とする考え方、自決を名誉とするような考え方は、沖縄にはなかった。沖縄戦でいわゆる「集団自決」(「自決」という言葉は適当ではないと知花さんは言っている)がおきたが、これは沖縄の考え方ではなく、本土からもたらされたものだ。

 この話は強く印象に残った。というのは、このごろ「集団自決」によって死んでいった人たちと「集団自決」を拒否して生き残った人たちとの違いがどうして生まれたのか、ということを考えていたからだ(「集団自決」という言葉は実態を表していない不正確な言葉だと思うが、他に適当な言葉がないので、括弧付で使うこととする)。チビチリガマのようにガマの中に避難していたところに米軍がやってきて、逃げ場もない状態に陥った所はたくさんある。あるいは大規模な「集団自決」がおこった渡嘉敷・座間味・慶留間の慶良間諸島のように、小さな離島に米軍が上陸し、追い詰められた所も他にたくさんある。しかし、各地の状況を調べてみると、「集団自決」をおこなわなかった所がたくさんある。むしろ「集団自決」をおこなわなかったところの方がずっと多いと見られる。

 読谷のなかでしばしば対比されるのが、同じ波平集落の住民が避難していたチビチリガマとシムクガマだ。「集団自決」がおこなわれたチビチリガマと全員が投降して無事だったシムクガマとの対比は、よく知られているのでくりかえさない。チビチリガマでは元兵士や元従軍看護婦など日本軍の意思を代弁した元軍関係者らの独走によって、多くのこども老人女性がまきこまれて死んでいった事件であり、集団で「自決」したというようなものではなかった。一方、シムクガマでは、ハワイ帰りの人が主導権を握って米軍と交渉し人々に投降をうながした。 

 ハワイに移民で行っていた人は、そこで当然アメリカ人というものを知っており、日本軍が宣伝するような残酷な「赤鬼」ではないことを体験で知っていた。だから住民しかいないことを米兵に話せば、命を助けてくれると考えたのだ(兵士が住民に対して、残虐な行為をおこなうか、あるいは保護しようとするのか、その違いが生まれる理由として、侵略戦争かどうか、兵士が戦争の目的をどう考えているのか、など戦争の性格が大きいことは言うまでもない)。当時、多くの沖縄の人々が日本軍の宣伝を信じこんでいたことは多くの証言でも明らかである。米軍に捕らえられたら、女は辱められてから殺されるし、男は戦車で轢き殺される、ということを本当に信じていた。さらに住民であっても米軍に捕まることは恥辱であり、いざとなれば死ぬべきだという教育=皇民化教育が徹底的におこなわれていた。しかし、移民帰りの人の多くは、そうした教育を十分には受けていなかったし、しかも日本軍の宣伝のうそを見抜いていた。もちろん彼らは、日本軍が一緒にいた時には主導権をとることができなかった。なぜなら投降しようと住民に呼びかけることはスパイ行為とされて、日本軍に殺害されてしまうからだ。だから日本軍がいないことが必須条件だった。

 住民が集団で投降したケースを調べてみると、移民帰りの人やクリスチャンあるいは老人が住民をリードしたことがしばしば見られる。北谷の上勢頭の壕ではハワイ帰りの人が米兵と交渉し全員投降して助かった。北中城の島袋ではクリスチャンの村会議員が「人民は殺さない」と住民をなだめ、投降して助かった。宜野湾の新城では移民帰りの人が「どんなことがあっても死ぬことを考えないこと」と人々を説得し、「アメリカ兵は鬼畜ではない」と安心させ、米軍がやってくると交渉して、みんなで投降して助かっている。浦添の伊祖の壕では日本兵から、米軍が来たら自決するようにと手榴弾を渡されるが、おじいさんが「ご先祖様にすがって命を守って頂くようにするんであって、こんな物はすぐに遠くへ捨てて来なさい」としかり、米軍が来ると老人三人が先頭に立って投降した。 こうした例は、『沖縄県史』や市町村史にたくさん紹介されている。

 一国の国家主義にこりかたまり、他民族への偏見を煽ってきたことが、「集団自決」をひきおこす大きな原因になったのに対して、国家や民族を超えた普遍的な理念を理解していたこと(クリスチャンのように)、アメリカ人と実際の生活を通じて交流があり、人としてアメリカ人を知っていたこと(移民帰りのように)、あるいは皇民下教育をうけていないことによって偏狭な国家主義の束縛から自由であったこと(老人や移民帰りのように)、そうした要因が「集団自決」を拒否し、生きることを当然のこととして主張し、実行しえたものではないだろうか。

 「集団自決」をおこなった人々の意識、といっても単純ではない。「集団自決」をおこなった集団内の階層を区別しなければならない。
 大きく分けると、次のようなグループにわけられるだろう(閉ざされた空間であった渡嘉敷島を一つの典型として考えてみる)。
@村長、組合長、巡査、学校長・教員など村(島)の指導者
A元軍人、防衛隊員など軍隊経験者や現役軍人
B警防団などに組織された少年たち
C一般の大人たち(成青年の男子は軍に招集されているのでほとんどは女性)
D老人たち
Eこどもたち      

 単純に類型化して整理してしまうと、「集団自決」を主導した人々は@Aの人々であり、Bの人々もその実行者だった。@は自己を軍と一体化させた指導者として捕虜になることは恥辱であり、天皇のために死ぬことを美徳と考えていたグループである。Aは@と共通する意識もあるかもしれないが、むしろ中国での日本軍の残虐行為をよく知っており、その体験から住民が捕まれば米兵に酷いことをされて殺されると思っていたグループだろう。Bの少年たちは戦争中の皇民化教育を徹底して受けて最も純粋に信じこまされていた部分である。ひめゆりなどの学徒隊の人たちはこのBのグループを代表していると考えられる。

 CDは米兵に辱められて殺されるという宣伝に脅えていた人々ではあるが、「集団自決」を主導するような人々ではない。チビチリガマでのようにむしろ「自決」を拒否してガマを出ようとしたのがこれらの人々だ。しかし、@のような指導者が「自決」を決定し、村民(島民)に指示した場合、この人々にとってそれは命令と同じことでそれに逆らうことは難しかった。戦時体制の下で村の指導者の指示は、軍の上官の命令に等しい重みと強制力があったことを忘れてはならないだろう。そう考えると、このCDの人々は軍や村の指導者たちによって、「集団自決」に追いやられ、巻き込まれた人々と見ることができる。Eのこどもたちは、言うまでもなく巻き添えにされた人々である。 このように見ていくと、「集団自決」をおこなった人々は多様であり、それぞれに即した原因の見極めが必要だと思う。これまでの議論では、この階層差が十分に考慮されていないように見られる。

 こうした「集団自決」の構造は、まさに戦争を支えた地域の支配構造にほかならない。沖縄戦の研究では、この点の解明がきわめて遅れている。このことは結局は沖縄内部の戦争責任の問題にぶつからざるをえないが、そこまで突き詰めないと沖縄戦の実像は一面的なものに終わってしまうのではないだろうか。
 地域の戦争体制を支え、推進した人々以外の人々は、かなり異なった意識をもち、異なった行動をしている。軍や村の指導者たちの束縛を逃れ、そうした重圧がないとき、人々の行動はむしろ生きることへの欲求に満ちている。
 一七歳から四五歳までが召集された防衛隊では、上官の命令を拒否したり、本土出身兵に反抗したり、さらにしばしば戦線からの離脱(軍からの逃亡)をおこなっている。戦車への体当たりを命ぜられたのでそれを拒否して逃亡したり、「どうせ勝つ見込みはない」からと考えて集団で逃亡したりした例がたくさんある。
 また沖縄戦が始まる前のことだが、初年兵の逃亡も随分あったようで第六二師団は「初年兵の離隊跡を絶たざるに付各隊は指導を厳にし、かかる事故の絶無を期せられ度」(一九四四年一二月)と指示しているくらいである(くわしくは拙稿「沖縄戦における軍隊と民衆 防衛隊における沖縄戦」藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』立風書房、1987年、にくわしく書いたので参照していただきたい)。こうした軍からの逃亡は学徒隊の場合にはまず見られないので、防衛隊と学徒隊は対照的である。

 女子学徒隊や鉄血勤皇隊とよばれた男子学徒隊の場合は、中学校や師範学校に進学できた少数のエリートとして徹底した皇民化教育をたたきこまれ、日本の侵略戦争を「聖戦」と信じこまされ、天皇のために命を捧げることを当然のこととして育てられ、戦場に投げ込まれて命を失っていった。そうした「祖国」のために命を投げ出す行為のみが、「殉国美談」としてもてはやされてきた。もちろん学徒隊は戦争の大きな犠牲者であり、沖縄戦の悲劇を代表するものであって、沖縄戦を考えるときに欠かせない要素であることは言うまでもない。現在、ひめゆりの同窓生たちが、皇民化教育によって自分たちが真実を見る目を奪われ、戦争を疑うことすらできずに戦争に加担させられ棄てられていったことへの真摯な反省から、ひめゆり平和祈念資料館を作り、語り部として資料館を訪ねる人々に訴える姿には深い感動を覚えるのは私だけではないだろう。

 そうした学徒隊の経験とその意味を重視しつつも同時に、学徒隊は沖縄県民の沖縄戦への関わり方、沖縄戦下での意識と行動を代表するものではないと言わなければならない。防衛隊の人々のような意識と行動が、実はかなり大きなウェイトを占めるのではないか。それは学徒隊参加者が二千数百人なのに対して、防衛隊は二万数千人であることを見ても推測できる。またすでに述べたように死を拒否して、米軍に投降した人々はおそらく「集団自決」をおこなった人々よりずっと多いと見られる。

 「祖国」の欺瞞を見ぬいて、死を拒否し生を求めた人々は沖縄戦の歴史のなかから切り捨てられてきた。このことはすでに大城将保氏の『沖縄戦 民衆の目でとらえる「戦争」』(高文研)をはじめ、幾人かの人によって指摘されてきている。しかし、そうした事例を掘り起こし、沖縄戦像の中できちんと位置づける作業はまだ始まったばかりといえよう。

 今日私たちは、沖縄戦の中で死をよぎなくされた人々の体験から歴史の教訓を学びとるとともにこうした生を求めた人々の真剣な生きざまから学ぶべきだろう。そのとき、本当は死にたくなかった、生きたかったと心の底から渇望しながらも、「生きたい」ということが言えず、死を選ばざるをえなかった(選ぶことを強制された)人々の声なき叫びの重みを真に受けとめることができるように思う。そして戦争を拒否することが恥ではなく、誇りうることであり、私たちの歴史の中にそうした人々がたくさんいたことを高く評価してよいと思う。
 そうした人々の意識のなかに、死を美徳とする伝統が沖縄にはなかったということが、生きているのではなかろうか。