マレー半島における日本軍慰安所について

関東学院大学経済学部一般教育論集『自然・人間・社会』第15号、1993年7月

林 博史


雑誌『世界』に書いたものはコンパクト版ですが、その後、わかっている限り詳細に資料を紹介しながら書いたものがこれです。なおクアラピラの慰安所については『世界』をご参照ください。  1999.4.1



はじめに
T 慰安所に関する日本軍史料
U 元日本兵の証言にみる慰安所
V ネグリセンビラン州の慰安所
W マレー半島各地の慰安所
X シンガポールの慰安所と料亭
おわりに

 

はじめに

 1992年1月防衛庁防衛研究所図書館が所蔵する旧日本軍の史料の中に慰安所関係の史料があることが吉見義明氏によって確認され、その内容が『朝日新聞』で報道された。その結果、日本政府は戦後47年にしてようやく国が慰安所に「関与」していたことを認めた。そして政府は防衛庁・外務省など関連する各省庁に史料の調査を指示し、その調査結果が7月6日に公表された。この調査は、各省庁が手持ちの史料を点検するだけのものでしかなく、慰安所に関係した元日本軍人や元慰安婦からのヒアリングは一切おこなわないなど問題が多いものだが、合計127 件の史料が明らかになったことにより、慰安所の実態が日本の公文書からも浮き彫りになってきた。しかしその後、研究者や民間の諸団体の調査により、防衛庁図書館や国立公文書館などからも政府調査には含まれていない慰安所関係の史料が次々と見つけられている。7月に公表された政府調査はきわめてずさんなものであったことは明らかである。政府はその後も史料の調査を継続しているとのことで、世論の強い批判を受けて、ようやく元慰安婦からの聞き取り調査を始めるようである。

 一方マレーシアでは、連立与党の中心政党である統一マレー国民組織(UMNO)の青年部の呼び掛けに応じて、二人の元慰安婦が名乗り出たことが今年2 月19日に発表された1)。UMNOの青年部は、泰緬鉄道で働かされながら補償どころか給与の支払いさえも受けていない人々を組織し、給与と時間外手当ての支払いを求める運動をおこなっている。UMNO青年部によると、一人はクアラルンプール出身の中国系女性で、市内のホテルで毎日10〜20人の兵士の相手をさせられたという。もう一人は東北部のケランタン州出身のマレー系女性で、詳しい状況はまだわかっていないとのことである。
 イスラム教を国教とするマレーシアでは、元慰安婦が名乗り出ることはとりわけ困難であるが、政府与党が動き始めたことによって、今後の動きが注目される。ただUMNO青年部のこの動きは何らかの圧力によって抑えられているとの話もあり予断を許さない。

 マレー半島における日本軍慰安所についての私の調査内容については、『朝日新聞』1992年8月14日付けで紹介され、その後、韓国の雑誌『新東亜』1992年10月号に「赤道下日本帝国軍従軍慰安婦」と題して、『世界』1993年3 月号に「マレー半島の日本軍慰安所」と題して発表した。ただ前者はハングルで書かれており、後者は枚数が短いために大幅に削らざるをえず、シンガポールについてはまったく触れられなかった。本稿では、その後寄せられた情報を含めて現在の段階でわかっている史料や文献をくわしく紹介し、マレー半島における日本軍の慰安所・慰安婦についての全体像を明らかにする一助としたい2)

1) New Straits Times 1993.2.19,『毎日新聞』1993年2 月20日( 共同通信配信記事) 。なおこの記事のさらにくわしい内容について、共同通信社クアラルンプール支局にご教示いただいた。 
2) 吉見義明編集解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、にマレー半島関係の史料も掲載されている。この資料集には掲載されていないが、吉見氏の解説「従軍慰安婦と日本国家」で紹介されている、馬来軍政監部の「慰安施設及旅館営業取締規程」などの軍政規程はいずれも吉見義明氏に史料を提供していただいた。 なお本文中に記した論文以外にかんたんな史料紹介を「マレー半島従軍慰安婦の史料をめぐって」『歴史地理教育』1993年1 月号、として発表している。
 マレー半島の慰安所に関する新聞記事としては、私が把握しているかぎりでは、本文で紹介した朝日新聞の記事以外には、『神戸新聞』1992年3 月22日、6 月28日、『信濃毎日新聞』1992年7 月14日、『中国新聞』1992年3 月19日( 『神戸新聞』3 月22日と同文) がある。マレーシアでは、中国紙・英字紙の各紙で報道されている。

 

T 慰安所に関する日本軍史料

 マレー半島の慰安所に関する史料は、現在わかっているかぎりではいずれも防衛庁防衛研究所図書館に所蔵されているものである。まずマレー半島のネグリセンビラン州とマラッカ州に駐屯した第 5師団歩兵第11連隊の関係史料から見ていきたい。

 日本軍第25軍は1941年12月8 日マレー半島東北部のコタバル、さらにタイ領のシンゴラ4パタニなどに上陸、南にむけてマレー半島を縦断、翌年2 月15日シンガポールの英軍が降伏して、マレー半島全域を占領した。その直後、シンガポールで華僑4 〜5 万人を「抗日分子」という理由で虐殺した。シンガポールの粛清と平行して、第18師団がジョホール州、第 5師団がジョホール州を除くマレー半島全域に展開して、42年 3月はじめから約1 か月間、各地で華僑粛清を集中的におこなった。こうした状況の下での史料である1)
 第11連隊は、連隊本部と第 2大隊本部をネグリセンビラン州セレンバンに置き、第 1大隊本部をマラッカ州マラッカに置いた( 第 3大隊はシンガポールに残留) 。この2 州の粛清・警備が第11連隊( 南警備隊) の管轄であった。

 マラッカに駐屯していた第11連隊第1 大隊は1942年3 月20日「大隊日々命令」を出し、その中で「一、慰安所に於ける規定を別紙( 省略) の通り定む 追而『マラッカ』警備並駐留規定中第五章一八項は之を削除し慰安所使用配当日に依り休務すべし(大隊砲小隊慰安所使用配当日毎週金曜日とす)」とある。この命令は「歩兵第十一連隊第一大隊砲小隊陣中日誌」に記載されたもので、残念ながら「慰安所に於ける規定」は残っていない。しかしこの命令が出された日には慰安所が開設され、駐屯していた部隊ごとに配当日を決めて慰安所を利用させていたことがわかる。この大隊砲小隊は金曜日が配当日になったので、次の金曜日の3月27日には「本日休務日なるを以て□軍曹以下三十七名 極楽園及慰安所に至り十八時二十分全員異常なく帰隊す」。その翌週の金曜日である4 月3 日には「本日は小隊の休務日なるを以て十一時より□□軍曹以下三十五名市内娯楽場及慰安所に外出をなす」とある。その後は、休務日が木曜日に変更され、「慰安所に外出」した旨の記載はなくなるが、休務日にまとまって慰安所に通っていたと推測される。
 第1大隊がマラッカに来たのは2月26日なので、1 か月もしないうちに慰安所が開設されてたことがわかる。マラッカ州では3 月はじめから25日まで華僑虐殺が続けられており、こうした虐殺をおこないながら慰安所を設けていたことがわかる。

 歩兵第11連隊の第 2大隊第7 中隊は、ネグリセンビラン州のクアラピラに駐屯していたが、この第7 中隊の陣中日誌の中に、3 月23日付「南警備隊会報」が記載されており、その一項目に「兵站に於て指定せる慰安所の外私娼家屋に立入りを厳禁す」とある。南警備隊は第11連隊のことであり、この23日までには慰安所が設置されていたこと、慰安所を兵站が担当していたことがわかる。

 さらに第 7中隊の陣中日誌によると4 月3 日に次のような記述がある。
「一、中隊は九時三十分橋本少尉以下二十六名『トレンビ』方面の掃蕩後の再調査を実施せしむ 十三時五十分全員無事帰隊し不偵分子一名を刺殺す
 二、本日より慰安所開設せるを以て午後一般に休養せしむ」
 大規模な虐殺は三月末にほぼ終わっているが、粛清はその後も続けられており、このように粛清で一人刺殺してから、休みをとって兵士を慰安所に行かせるという状況が記載されている。クアラピラではこの4 月3 日に慰安所が開設されたことがわかる。

 4 月25日に定められた第 7中隊の「クアラピラ・バハウ駐留規定」の「休務日」の項目の中に次のような記述がある。
 「公用外出者並一般休務日に於ける外出者は当分間町内に於ける飲酒食を厳禁す 但し慰安所内に設置しある飲食店内の飲食は此の限りにあらず」
 このクアラピラの慰安所についてはVでくわしく述べたい。

 慰安所の使用をめぐってのトラブルもあったようで、第11連隊は4 月24日付の「南警備隊会報」の中で、「一、慰安所に於て切符を購入することなく慰安する者あり 必ず事前に切符を購入するを要す 各隊巡察将校も亦此の点に著意して巡察すると共に違反者あらば速に報告せられ度」と通達している( 「第三中隊陣中日誌」) 。慰安所での違反者の取締りに日本軍の巡察将校が関わっていたことがわかる。
 以上の第11連隊の史料から、1942年3 月20日ごろには慰安所が開設され利用され始めていたこと、兵站が慰安所を担当し、巡察将校が違反者の取締りに関与していたことなどが裏付けられる。

 政府が公表した史料として、「独立自動車第42大隊第 1中隊陣中日誌」がある。シンガポールに駐留していた1942年4 月30日に「会報」が下達され、その中の「四 慰安に就て」の一項目に「指定以外の慰安所への立入を禁止す」とある。7 月4 日の「軍会報」の中では「風紀の粛正並に防諜及悪疾予防の為自今軍に於て設置したる特殊慰安所以外特に私娼窟等に於て特殊慰安を求むる事を禁ず」とある。
 この部隊はまもなくジョホール州ムアに移動した。ムア駐留中に受け取った8 月24日付「軍会報」に次の記述がある。
 「一、近時軍人軍属にして軍用車又は人力車等に地方の婦女子を同乗せしむるものあり殊に慰安婦等を同乗せしむる者を散見するは頗る遺憾とする処にして自今厳に戒慎せられ度 二、飲食店慰安所等にて「ビール」瓶「コップ」を故意に破損する者あるも屡次の注意に鑑み厳に戒められ度 尚自今故意に破損する者は業者に対して弁償するものとす 三、将校慰安所真砂は従業婦の監督不行届の廉に依り来る二十五日(火)及二十六日(水)の両日営業を停止せしむるを以て同日の利用を禁止す」
 この史料によりシンガポールとムアに慰安所があったことが確認できる。

 マレー半島とスマトラを管轄していた第25軍(富集団)司令部が1942年8 月25日付で作成した「第二十五軍情報記録(第六十八号)自七月十一日 至七月末日」の中に、憲兵隊による調査「最近に於ける在留邦人状況の概要」(7月20日現在) が含まれている。ここでいう在留邦人には日本人だけでなく、朝鮮人と台湾人も含まれている。
 この史料によるとマレー半島(シンガポール含む)とスマトラにおける在留邦人(軍人軍属を除く)は男396 名(戦前よりの在住者67名) 、女341 名( 同110 名) 、計734 名( 同177 名) 、州別ではシンガポールが一番多くて283 名、次いでジョホール州127 名、最小がネグリセンビラン州2 名、渡来府県別では、朝鮮196 名、長崎県59名、台湾49名など、となっている。そして職業別では、「慰安婦の一九四名を最高とす」と記されている。
 この時期、邦人の民間の娼婦はいないと思われるので、この慰安婦は従軍慰安婦のことと考えられる。「慰安婦」を「職業」としている194 名の渡来府県別がわからないので朝鮮人慰安婦がどれだけいたのかはわからないが、朝鮮から来た196 名のかなりがそうではないかと推測される。

 開戦時にマレー半島にいた日本人の多くはイギリス軍によって抑留され、インドに移送された。その内、ビルマで抑留された日本人を含めて400 名余りは1942年9 月16日交換船龍田丸でシンガポールに戻ってきた2)。こうした抑留された日本人の数は、上記の史料には含まれていない。戦前からの在住者は「英国側に拉致せられざるもの」であり、マレー人や華僑と結婚している人などが多かったと見られる。戦前からいた女性110 名の中の多くが、後に述べるように慰安所に関わったと見られる。慰安婦は日本軍占領後はじめてマレー半島に来た女性と思われるが、戦争開始後、渡来してきた女性231 名の8 割以上が慰安婦であったという計算になる。こう時期には料亭も開業しており、その芸妓などの従業員もいただろうから、残りはそうした女性だったのかもしれない。

 このように日本軍はマレー半島占領後、非常に早い時期に、しかも華僑粛清という大規模な作戦をおこなっている最中、あるいはその終了直後に慰安所を開設していった。こうした敏速な措置をおこなった背景には中国での経験への日本軍なりの「反省」があると見られる。

 マレー半島占領後、クアラルンプールを含むセランゴール州に配備されたのが、第 5師団歩兵第41連隊である。先に紹介した第11連隊と第41連隊の二つで歩兵第9 旅団を構成している。第41連隊は1937年の日中戦争が始まった時、師団主力とは離れて、南京攻略戦に参加、南京には行かなかったが杭州攻略をおこなった。この戦闘に参加した第41連隊の元兵士はつぎのように証言している3)
 杭州湾上陸に先立って「民家を発見したら全部焼却すること」「老若男女をとわず人間を見たら射殺せよ」などという「特別命令」が伝えられた。兵士たちは「どうせ殺して仕舞うのなら殺す前に冒してやれ」と「此の特命に便乗した兵士の犯罪が激増した」。「その悪癖が尾を引き特命解除後も留地ごとに強姦の声が処々に高まり住民達より最も恐れられる悪名を残す結果となった」という。
 この杭州作戦ののち同連隊は徐州会戦に参加した。こうした中で1938年6 月27日北支那方面軍参謀長岡部直三郎の名で「軍人軍隊の対住民行為に関する注意の件通牒」が出されている。この文書は、北支那方面軍の下にあった第 9旅団と第41連隊のそれぞれの陣中日誌の中に記載されている。その一部を紹介しよう4)。 
 「治安回復の進aaa遅々たる主なる原因は( 中略) 一面軍人及軍隊の住民に対する不法行為か住民の怨嗟を買ひ反抗意識を煽り共産抗日分子の民衆扇動の口実となり治安工作に重大なる悪影響を及ほすこと尠しとせす 而して諸情報によるに斯の如き強烈なる反日感情を激成せしめし原因は各所に於ける日本軍人の強姦事件か全般に伝播し実に予想外の申告なる反日感情を醸成せるに在りと謂ふ」「各地に頻発する強姦は単なる刑法上の罪悪に留らす治安を害し軍全般の作戦行動を阻害し累を国家に及ほす重大反逆行為と謂ふへく( 以下略) 」

 日本軍兵士による中国住民への強姦事件が頻発しており、それが強烈な反日感情を生み出していることが率直に語られている。そして「右の如く軍人個人の行為を厳重取締ると共に一面成るへく速に性的慰安設備を整へ設備の無きため不本意乍ら禁を侵す者無からしむるを緊要とす」とこうした強姦事件を防ぐために軍隊慰安所を速やかに設置することを述べている。
 この北支那方面軍参謀長の通牒は、第41連隊だけを対象としたものではないが、さきの第41連隊の兵士の証言でも強姦事件が頻発したことを認めており、第41連隊も含めた日本軍兵士への対策として慰安所の必要性が言われているのである。

 こうした経験をしてきた日本軍がマレー半島侵攻作戦に参加し、マレー半島を占領したのである。過去の経験を知っている日本軍首脳部が、できるだけ速やかに慰安所を開設するように努めたことは当然の成り行きであっただろう。占領行政を円滑に進めるために、一方で治安攪乱要因となりうる「抗日華僑」を徹底して粛清=虐殺するとともに、他方で住民を離反させる日本軍側の要因、すなわち日本兵による強姦事件をなくすために慰安所を粛清と並行して設置していったと見ることができる。華僑粛清や慰安所の早期設置もともに中国戦線での経験から導き出された措置であったと言ってよいだろう。

 さて少し後の時期になるが、その後の政府調査によって判明した史料がある。それは、馬来軍政監が制定した「慰安施設及旅館営業取締規程」( 馬来監達第28号、1943年11月11日) 、「慰安施設及旅館営業遵守規則」、同別冊「芸妓、酌婦雇傭契約規則」( 馬来監達第29号、1943年11月11日) である5)。この時点では、すでに第 5師団は豪北に移動(42 年12月より) 、第25軍もスマトラに移駐していた(43 年5 月) 。第25軍の移駐とともに第25軍軍政監部もスマトラに移駐して、スマトラだけを管轄し、シンガポールには馬来軍政監部が設置されてマレー半島を管轄していた。

 まず「慰安施設及旅館営業取締規程」は、計30条と付則からなる。この規程は「軍人軍属並に一般邦人を対象とする慰安施設及旅館の整備並に営業取締に関する事項を規定」( 第 1条) したものである。「慰安施設」とは、「一 娯楽施設( 映画、演劇、演技、読書、音楽、運動)  二 飲食施設( 喫茶、食堂、料理屋)  三 特殊慰安施設( 慰安所) 」に区分されている( 第 4条) 。慰安施設の営業は「軍専用」「軍利用」「其の他の営業」の三つに区分され( 第 8条) 、「軍専用」「軍利用」の認定は軍( 第 2師団長または第 2師団長の指示する独立守備隊長) がおこなう( 第 9条) 。経営と従業員については「慰安施設の経営者は邦人に限定するを本則とするも従業員は為し得る限り現地人を活用し邦人の使用は必要最少限度に止むるものとす」( 第 7条) とされている。つまり慰安所の経営は日本人に限定するが慰安婦はできるだけ現地の者を使えという考え方である。なお「飲食施設及慰安施設( 慰安所) は其の営業場所を考慮し現地人に対する文化施策に悪影響を及ぼさざる如く努むべし」( 第 6条) というように、慰安所が好ましくないものであることを自覚しているようだ。

 具体的な営業処理については、地方長官が次の事項を処理することになっている。
「一 営業の許可、禁止、停止  二 営業の譲渡及営業所移転の許可  三 稼業婦の就業及就業所変更の許可  四 営業者及稼業婦の廃業許可」( 第12条)
 地方長官は、軍専用・軍利用の認定と取消、営業者及び従業員の転業転籍、邦人の営業者及従業員の呼寄せについて、軍政監に報告あるいは進達することになっている( 第13〜17条) 。呼寄せについて言えば、「呼寄の要ありと認めたるときは関係者の呼寄証明願に其の事由を具し軍政監に報告し其の決定を得て処理すべし」(第16条) 「軍政監前条の報告を受けたるときは意見を付し軍に申請するものとす」( 第17条) とあるように、もし朝鮮人慰安婦が必要だと地方長官が判断すれば、関係者の願いにその理由を付けて軍政監に報告しその決定を得て呼寄せをおこない、軍政監はその旨を軍に申請するというシステムになっている。

 また地方長官は「軍の要望又は軍政監の指示あるときは家屋設備の貸与等を斡旋」( 第18条) すること、「慰安施設及旅館の営業者並に従業員に対し毎月一回健康診断」「稼業婦に対し毎週一回検黴を行ふべし」( 第21条) と慰安婦への検梅実施は地方長官の責任でおこなうことになっている。慰安施設等の営業者の名簿とともに稼業婦の名簿も地方長官が「備付け異動の都度整理すべし」とされ、さらに「稼業婦に対し証票( 様式適宜) を交付し就業中之を携帯せしむるものとす」とされている。
 「軍専用及軍利用店の販売価格、代金、サービス料等は別途定むる所に依る」( 第20条) とされている。この金額はわからないが、慰安所の利用料金も軍政監( あるいはそれにかわる軍政機関) が決めることになっていることがわかる。
 この規程は1943年12月1 日から施行され、これにともない1943年10月5 日馬来監達第24号慰安施設及旅館営業取締規程は廃止されることになっている。

 次に「慰安施設及旅館営業遵守規則」を見よう。この規則は全19条と付表7 つ、「資産負債内訳表説明事項」、「別冊」として「芸妓、酌婦雇傭契約規則」からなっている。
 この規則では、軍専用・軍利用という標識( 縦8cm 、横3cm 以下) を店頭に掲げること( 第 2条) 、従業員を雇入れあるいは解雇したときは所定の様式により地方長官に届け出ること( 遠隔地では所轄警察署を経由してもよい)(第 3条) などとともに、稼業婦を雇入れた時は「別冊芸妓、酌婦、雇傭契約規則に基き雇傭契約を定め所轄地方長官の認可」を受けなければならない( 第 6条) 。営業者が遵守すべき事項として11項目があげられているが( 第 7条) 、その中には「外部より見透し得る場所に於て婦女子をして客と戯れ或は異様の服装又は見苦しき姿態をなさしめざること」「婦女子をして客を随伴外出せしめざること」などの項目がある。

 「別冊芸妓、酌婦、雇傭契約規則」は全14条からなる。芸妓と酌婦をあわせて稼業婦と称することとされている。稼業婦は毎月稼高の3 パーセントを強制貯金させられ、廃業の時に返されることになっている( 第 3条) 。強制貯金を除いた稼高は、稼業婦の債務残高によって配分の割合が異なり、債務残高が1500円以上の場合は、雇主が六割以内、稼業婦本人が四割以上、1500円未満の場合は、雇主五割以内、本人五割以上、無借金の場合は、雇主四割以内、本人六割以上とされている。
 費用負担については、「居室、戸棚、衣類箪笥、消毒用器具」「寝具一式」「食費、灯火」「消毒薬品」「健康診断に要する費用」は雇主の負担とし( 第 2条) 、「稼業上に起因する妊娠分娩及疾病に要する諸費用」は雇主と稼業婦の折半負担、「其の他に起因するもの」は稼業婦の負担( ただし雇主は「見舞金として適当の補助」をおこなうことが求められている) とされている( 第 5条) 。
 稼業婦が「遊客」などから直接もらった金品は稼業婦の収得とし( 第 6条) 、遊興費の不払があればすべて営業主の負担とされている( 第 7条) 。雇主は賃貸計算簿と稼高日記帳を各二通作成し一通は稼業婦に交付すること( 第10条) 、稼業婦が廃業する時などには両者を地方長官に提出し検閲を受けること( 第12条) なども定められている。
 なおこれまでなされた契約の中で、この規則より稼業婦に有利な内容はそのまま認められ、稼業婦に不利な内容はこの規則に則って変更されることとされている( 第 1条、第14条) 。
 以上のように、慰安所の設置・運営、慰安婦の募集・就業条件など細部にわたって軍政監・地方長官などの軍政組織が管理監督していたことが明確に示されている文書である。

 当初、兵站が担当していた慰安所の管理がいつ軍政機関に移管されたのか、確認できていないが、それに関わるのではないかと見られる史料がある。 軍政組織について、1942年7 月従来の軍政部が軍政監部に改組され、軍政機構が整備拡充された。これにともなう措置と考えられるが、7 月17日付の富集参丙第155 号を以て第25軍指定営業規定の一部が改正され、食堂経営者等の取締監督が軍政監部に移管された。それをうけて8 月9 日に邦人経営に係る飲食店等開設取締要領が定められ、料理店食堂旅館御用商人等の営業の許可、監督が市長・州長官に委任されることになった6)。これら規程改正や取締要領を見ていないので断定できないが、こうした軍政機構の改組にともなう管轄の変更がおこなわれており、慰安所の管理の変更もこれに含まれていたのではないかと推測される。

 こうした慰安所で使用する「衛生サック」の配給状況を記した史料がある7)。馬来軍政監部が出していた『戦時月報( 軍政関係) 』によると、1943年7 月31日付には、「衛生」の項目の中の5番目に「医薬品衛生材料の配給状況」の項があり、その第4項に「衛生サック ネグリセンビラン向 一〇〇〇個 ペラ向 一〇〇〇〇個」という記述がある。同年8月31日付には、「衛生サック マラッカ州 五〇〇〇個 セランゴール州 一〇〇〇〇個 ペナン州 三〇〇〇〇個」、9月30日付には、「衛生サック 軍政監部 五〇〇〇個 浅野物産及永福産業 一五〇〇個」、10月31日付には、「衛生サック 永福産業公司 一〇〇〇 ペナン政庁 二〇〇〇〇個 昭南特別市 一二〇〇〇個」、11月30日付には、「衛生サック マラッカ州政庁 五〇〇〇ケ」と毎月の配給状況が記載されている。『戦時月報(軍政関係)』はその後『軍政月報』と改称されるが、その1944年2 月29日付には、「衛生」の項目の中の「医薬品衛生材料配給状況(二月分)」に「軍専用特殊慰安所料理店倶楽部用一ケ月分として 衛生サック 七五〇〇〇個 過マンガン酸加里 七瓩(kg 筆者注) を各州市向に慰安婦数に応じて配給す 尚今後引続き補給の予定なり」と記述されている8)

 以上の記載された「衛生サック」の配給数は、1943年7 〜11月分と1944年2 月分の6 か月分で計17万5500個、のべ182 日間なので1 日当たり 964個の計算になる。ただ43年分は配給先として記載されているのが6州市と2企業だけであり、またそれ以前の『戦時月報』には配給の記載がないことなどから、別のルートでの配給ないし調達があったと考えられる。慰安婦数に応じて各州市に配給されたという44年2 月分だけでみると、1 か月30日平均として1 日当たり2500個となる。おそらくこの数字が、マラヤ軍政監部管轄下の慰安所での使用数の目安となるのではないだろうか。 
 『戦時月報』『軍政月報』の記載の仕方から推測すると、軍政監部が「衛生サック」の配給全体を統括するようになるのが1944年2 月からであり、それ以前は配給ルートはバラバラだったと見られる。先に紹介した「慰安施設及旅館営業取締規程」が1943年12月1 日より施行され、軍政監部が慰安所を統一的に管理監督する体制になったことに対応して、「衛生サック」の配給も軍政監部が一括して行うことになったのではないだろうか。
 なお配給先として2 つの企業が出てくる。浅野物産は浅野財閥の一企業であり、永福産業はクアンタンで造船などを行っていた企業であるが、なぜこの二つに配給されたのか不明である。

1) 華僑粛清ならびに第11連隊の関係史料については、拙著『華僑虐殺 日本軍支配下のマレー半島』すずさわ書店、1992年、参照。
2) 富集団軍政監部『軍政監部旬報』第16号、1942年9 月第 2旬(9月11日〜20日) 。
3) 宮下光盛『徒桜 野戦兵士・野戦憲兵編』1976年、22、30ページ。
4) 吉見義明氏によって確認された史料であり、吉見義明「いまこそ『過去の克服』を-従軍慰安婦問題の基本資料をめぐって」『世界』号、に詳しい。
1992年3 月5) 馬来軍政監部『軍政規定集』第 3号、1943年11月11日、に所収( 防衛庁図書館所蔵)
。吉見義明前掲書の解説「従軍慰安婦と日本国家」72-73 ページ、参照。
6) 富集団司令部『戦時月報(軍政関係)』1942年8 月末。なお州長官と特別市長( 昭南市) ならびにこれに準ずるものを地方長官という( 富政令第 2号「第25軍軍政施行令」1942年9 月26日) 。
7) 宮前千雅子氏が防衛研究所図書館で発見した史料であり、川瀬俊治「『従軍慰安婦問題』を問う 『資料編』解説ノート」( 解放出版社編『金学順さんの証言』解放出版社、1993年) 241-243 ページに紹介がある。『信濃毎日新聞』1993年4 月8 日( 共同通信配信記事) 参照。   
8) 川瀬俊治前掲論文ならびに共同通信配信記事では、「過マンガン酸加里 七瓩」が「七瓶」と誤記されている。「七瓶」では11の州市に配給しきれない。また242 ページに「衛生品衛生材料配給状況」とあるのは正しくは「医薬品衛生材料配給状況」である。馬来軍政監部が管轄する州の数と名称にも混乱が見られる。なお同論文のマラヤ部分は、政府発表の1 点と宮前氏の発見した史料以外のマラヤ関係史料( すでに『従軍慰安婦資料集』に収録されている) をまったく無視して記述しているので、同論文執筆時点においてさえも、史料状況を反映していない記述になっているのは残念である。

U 元日本兵の証言にみる慰安所

 マレー半島では、当初、慰安所の開設・管理、慰安婦の募集を担当したのは兵站であった。兵站は軍需物資の供給など後方の業務を担当する部隊であり、慰安所もその仕事の一つだった。この第25軍兵站に勤務して、マレー半島での慰安所の開設・管理にあたった元兵士B氏の話を紹介する。
 1942年1 月2 日マレー半島の上陸地点シンゴラにいた兵站の将校以下3 名にバンコク出張が命ぜられた。その任務の一つが慰安婦集めだった。翌3 日バンコクに向かった。ただバンコクでは事情がわからなかったので、日本の企業の駐在員に頼んでタイの各地から23人の娼婦を集めてもらった。しかし性病検査をすると合格したのは3 人だけで、このタイ人3 人を連れて帰り、2 月はじめ頃、ハジャイとシンゴラ( いずれもタイ領) に慰安所を開設した。これがマレー半島で最も早い慰安所のひとつではないかと見られる1)

 兵站本部とともに行動したB 氏は3 月31日ペラ州のタイピンに入った。すでに先行していた兵站支部が将校用と兵士用の慰安所を1 件ずつ開設していた。将校用は、現在レストハウスのある丘の上の邸宅を使い、兵士用は丘のふもとにあった。B 氏はタイピン中央病院に性病検査を依頼し、そこのインド人の病院長に検査をおこなってもらった。将校用の慰安婦は全員中国人、兵士用はほとんどが中国人で、白人とアジア人の混血のユーラシアンらしき女性もいた。
 その後、5 月23日B 氏らはクアラルンプールに入った。B 氏はクアラルンプールの慰安所の開設を担当した。まずクアラルンプールに残っていた日本人女性を集めた。マレー半島にはかなり以前から多くの日本人が移民してきており、女性は娼婦が多かった。だが第一次世界大戦後、日本政府は日本人が外国で娼婦をしていることは好ましくないと指導したこともあって、ほとんどの女性は娼婦をやめた。マレー人や中国人と結婚した女性も多かった。
 軍はそうした女性を集めた。ちょうど14人が集まった。娼婦の経験者が12人、そうではない人2 人だった。娼婦経験者には慰安婦集めと慰安所の管理を任せ、非経験者には兵隊用の食堂の経営を任せた。慰安所の建物は日本軍が接収あるいは借りて提供した。

 クアラルンプールの慰安所は地域ごとにわけると次の7 つの地域に設けられた。
@「六軒屋」(道路沿いに並んでいた華僑の邸宅6軒を接収して使用)とその道向かいの「つたのや」の7軒。市の北東部のJalan Tun Razak にあり、警備隊本部のあったGarneyRoad から市内に出てくる途中にあたる。ほとんどの慰安婦は中国人だが、はじめに集めたタイ人3人やインド人2人、ジャワ系の人3人がここにいた。「つたのや」は最初にできた慰安所であり、42年4 月ころの開設と見られる。
APenang Road の現在、トゥンク・アブドゥル・ラーマン公会堂のある位置に中国人慰安婦ばかりの2軒。B「興南会館」という高級将校用の料亭兼遊廓とそのそばに将校用慰安所。@とAの中間にあたり、Jalan Yapkwan Seng沿いである。前者には日本人女性10数人が仲居として働いており、将校が口説いていたという。
Cイギリス人の邸宅を使った慰安所3軒。市の南部の日本人墓地の近くのSan Peng Road にあった。
D市の中心街Jalan Tuank Abdul Rahman のコロシアムの近くに将校用慰安所1軒。
E市の中心部にあったイースタン・ホテルを接収して使った「月野屋」。クアラルンプールでは最大の慰安所であり、中国人慰安婦が30人くらいいた。後に将校用の料亭になった。「はじめに」で紹介した中国系女性はこのホテルにいた可能性がある。
F最後に開設された慰安所。市内の中心部の丘の上( チャンナタウンの北側) にニッパ葺きの屋根のL字型の大きな家を建てた。そこに42年8 月ごろシンガポールから朝鮮人慰安婦約20人余りが列車で送られてきた。B 氏は駅まで迎えにいって彼女らをこの慰安所に運んだ。B 氏が見たところでは、その女性たちは慰安婦になってからかなり期間がたっているように見えたという。

 以上の7 か所に計16軒の慰安所が開設された( 興南会館は慰安所とはやや性格が異なるので含めていない)2) 。42年4 月に最初の慰安所「つたのや」が開設され、朝鮮人慰安婦が送り込まれてきた8 月ごろまでに一通り慰安所の開設は終わった。この時点で慰安婦の人数は150 人を越えていただろうという。一番多かったのが中国人、次に約20人の朝鮮人、あとはタイ人3 人とジャワ系3 人、インド人2 人であった。またマレー人と中国人の混血、ジャワ人とマレー人の混血もいたという。B 氏が関わったかぎりでは、マレー人はイスラム教徒なので慰安婦にはしなかったが、ジャワ系の一人は熱心なイスラム教徒で毎日お祈りをしていたという。ただ他の都市ではマレー系の慰安婦がいたところもあるという。マレー系といっても多様なのでくわしくはわからないが、マレー人の慰安婦も少ないながらもいたと見られる。
 ジャワ系の人の中に、娼婦とはとても見えない女性がいたのでB 氏がどうして慰安婦にされたのか、たずねたところ、妹と一緒にシンガポールの町を歩いていたら、いきなりトラックに乗せられて連れてこられた。妹は逃げて助かったという話をしたそうである。

 マレー半島でこうした強制連行のようなことがおこなわれたのかどうかはわからない。これに関連して、慰安婦ではないが、1943年ごろシンガポールで、泰緬鉄道建設のための労働者をかり集めるために「軍のトラックが市中に現れて逃げ惑う市民を無差別に連れ去るというので恐慌状態を惹き起こした。また映画館の中にまで若者狩りの手が伸びるという話まであった」。これに対して「市民の側から強い非難」があり、「警察協助団区長からも改善を要望する意見が提出された」ので、昭南( シンガポール) 特別市の緒方信一警務部長から軍政監部総務部長に対して、「軍の現在の労務者徴集方法が市民に対し極度の恐怖と不安を与えている実情を述べ、その即時中止と労務者募集のための妥当な方法の確立を求めた」意見具申を行ったことがあったという3)。こうしたこともあるので、そのジ
ャワ系女性の話はありえないことではない。今後の課題である。

 慰安婦の中には、自ら希望してきた者もおり、彼女らは元中国人の妾であったり、元娼婦であった女性であった。希望してきても性病検査をして断った者もいた。六軒屋にはある時、母親に連れられた若い女性が志願してきたので管理をしていた「からゆきさん」がやめるように説得したが、どうしてもと希望するので慰安婦にしたことがあったという。また途中で本人の希望で慰安婦をやめたケースもあったという。
 兵士が慰安所を利用する際には、当初は兵士が慰安婦に直接1 ドルを渡し、慰安婦は食費などの経費をそこから経営者に渡していたという。さきに見たセレンバンの史料では切符を購入していたようであり、地域によってばらつきがあるようだ。

 慰安婦の性病検査は日本軍医だけでなく、ユーラシアンの婦人科医師にも頼んだ。B 氏は医師に付いて、毎週金曜日に検査で慰安所をまわったという。 慰安所に使った建物は多くが中国人やイギリス人の邸宅であった。この点はあとでも見るように、マレー半島の慰安所は立派な建物が多く、粗末な長屋や堀建て小屋を使った他の地域とはちがっている。もちろん建物が立派だからといって、慰安婦にされた女性の扱いが良かったわけではないことは言うまでもない。

1) 関口竜一氏が聞き取りをした元憲兵の回想によると、シンゴラの町はずれに慰安所があり、輸送船で送られてきた兵士たちが慰安所に殺到し長蛇の列を作ったという。慰安婦は一人一日平均17〜20人の兵の相手をしていた。憲兵隊長と兵站司令官の承諾を得て慰安所利用料金を値上げしたとも語っている。これは42年初めころの話だが、その時点では慰安婦の数はかなり増えていたようだ( 関口竜一氏よりご教示いただいた) 。
2) 『朝日新聞』1992年8 月14日の記事ならびに『歴史評論』の拙稿において、興南会館も慰安所と見なしてクアラルンプールの慰安所件数を17軒としたが、このように訂正させていただく。なお『世界』の拙稿ではすでに16軒としている。
3) シンガポール市政会『昭南特別市史 戦時中のシンガポール』日本シンガポール協会、1986年、106-107 ページ。
4) 防衛庁防衛研修所戦史室『南西方面陸軍作戦 マレー蘭印の防衛』朝雲新聞社、1976年、前掲『華僑虐殺』、参照。


V ネグリセンビラン州の慰安所

 私の調査によって判明しているネグリセンビラン州内の慰安所について述べたい。
 ネグリセンビラン州は1942年2 月末より同年12月まで歩兵第11連隊が粛清・警備を担当していた州である。セレンバンに連隊本部と第 2大隊本部、第 5中隊、連隊砲中隊、速射砲中隊、その他、クアラピラに第 7中隊、クアラクラワンに第 8中隊、ポートディクソンに第 6中隊( 4月にバハウより移駐) 、ゲマスに第 3中隊(7月にセレンバンより移駐) 、タンピンに第 4中隊が駐留していた。なお歩兵第11連隊はマラッカ州の警備も担当し、マラッカに第 1大隊本部が置かれていた。

 42年6 月には新しく編成された第12独立守備隊第44大隊がゲマスで訓練をおこなっており、第12独立守備隊は9 月から第25軍に編入されて警備に参加している。また8 月には近衛第 5連隊の2 個中隊が第11連隊の指揮下にはいってネグリセンビラン州とマラッカ州の警備に加わったが、まもなくジャワに移動した。1942年12月10日第 5師団はマレー全域の警備任務を第12独立守備隊に委譲、第11連隊はその前日に警備任務を独立守備歩兵第45大隊に譲り、豪北方面へ移動していった。

 44年4 月時点では、ネグリセンビラン州とマラッカ州に1 こ大隊が配備されていた。
44年11月に独立守備隊を統合再編して、第94師団が編成され、その下に歩兵第256 連隊がクアラルンプールに本部を置いて、マレー半島の警備にあたった。1945年に入ると英軍の反攻に備えて、マレー半島の防衛が強化され、45年6 月第256 連隊は本部をセレンバンに移動させ、、第 1大隊がタンピンに本部を置いてネグリセンビラン州とマラッカ州を担当することになった。この態勢で敗戦を迎えた4)
 ネグリセンビラン州とマラッカ州をあわせて、日本軍の駐留した規模は歩兵で見るかぎりでは、、42年中が1こ連隊規模(1こ大隊欠) 、その後は1こ大隊規模であったと見られる。両州で1こ中隊規模以上の部隊が駐留した都市は、現在判明しているかぎりではごく短期間のものを除くと、セレンバン、クアラクラワン、クアラピラ、ゲマス、タンピン、ポートディクソン、マラッカの7 都市である。このうちタンピンとクアラクラワンを除く5都市には慰安所があったことがわかっている。

 まず州の最大の都市セレンバンである。ここには第11連隊本部や第 2大隊本部がおかれ、駐屯していた兵士も多かったので、B 氏によれば慰安所も2 か所以上あった。地元の人の証言では、その一つの慰安所はサルタンの王宮のそば、レイクガーデンの北西の一角にあった。李振鵬氏(1942 年時点で13歳) はこの近くに住んでいて、よく鳥をつかまえたりして遊びにそのあたりに来ていた。そこはイギリス人の邸宅だったところで、ハイビスカスの花や竹で囲まれた敷地内には高床式の大きな建物が2 軒あり、その後ろに小さな家が一軒建っていた。正面ゲートには横書きで「清風荘」、縦書きで「日本軍人慰安所」という看板が掛かっていた。少なくとも7 〜8 人の女性がいて、日本語を話すのを聞いたことがあり、李氏は韓国か台湾の女性ではないかと言っているが、はっきりとはわからない。トラックや乗用車に乗った軍人が入っていくのをよく見た。乗用車には真っ白に服を着た文官が乗っていた。トラックにも2 〜3 人くらいしか乗っていなかったという。日本兵がフェンスをパトロールしていたという。
 そうした状況から見ると、将校用の慰安所であったのではないかと思われる。
 いつ頃、慰安所が設置されたのかははっきりとしないが、敗戦まで慰安所だったということである。
 ここは現在は新しい建物が建てられ弁護士が住んでいるということである。B 氏の話でもレイクガーデンの中に慰安所が一つあったということなので、ここがそれにあたるのではないかと見られる。

 ゲマスには42年7 月に第 3中隊が移動してきた。町の郊外の南側の丘の上に警備隊の宿舎があったが、ある兵士の証言によると、その丘から見える別の丘の上にに慰安所があったという。この町は二つの鉄道路線が分岐する交通の要衝だったので、憲兵隊や鉄道隊なども駐屯していた。

 港町ポートデイクソンには、郊外に慰安所があった。邱開元氏(20 歳) の話によると町から南方に約4 キロはなれた海岸沿いにある、元中国人の金持ちの別荘を接収して使っていた。そこは日本人専用の施設だった。その慰安所の慰安婦が時々、町に買物に来ていた。邱氏は町で雑貨屋をやっていたので、その店にも2 〜3 人が買物によく来た。店で働いていた若い店員が彼女たちとよく話しており、彼女らは広東語を話していた。話をするだけで何も買わない時もあった。どこの女性かはわからないということである。広東語を話していたことから見ると、マレー半島の中国人だったようだ。
 陳章賀氏(13 歳) は、そこの慰安所について聞いたことがあり、日本人専用のところだと知っていたが近くに行く勇気がなかったという。
 慰安所の建物は現在も残っている。そこは戦後はマッサージ・ガールがいたダンスクラブとして使われていたが、現在は廃墟となっている。海岸沿いの広い敷地に建てられた一部3階建ての豪邸である。邱氏が「窓が99こある」と言うのもけっして誇張ではない。

 クアラピラには将校用と兵士用の2 箇所慰安所があった。計18名の中国人の慰安婦がいたことなど、詳しくは『世界』の拙稿に譲るが、そこでは触れなかったことを補っておきたい。
 将校用の慰安所は、町の北西のはずれの建物を使っていた。現在、クアラピラ雑貨商会の看板がかかっている2 階建ての長屋風の建物である。もう一つの兵士用の慰安所は、町の郊外にある。町の南に現在、トゥンク・モハマッド中学校があるが、この校舎を第 7中隊が宿舎にしており、校舎の側に現在、教員用住宅があり、そこを中隊長と小隊長のそれぞれが1 軒ずつ使っていたという。その学校の北側にヤムトゥン( ネグリセンビラン州のサルタンのこと) の二番目の夫人が住んでいたレンガ作りの2 階建ての建物があった。そこを慰安所として利用した。宿舎からは100 メートルもない距離である。
 なおこのヤムトゥンは後にマレーシア初代国王になり、この第二夫人の子が現在のネグリセンビランのヤムトゥンになっている。つまり王族の邸宅を慰安所に使っていたのである。この点はクアラピラの地元でもB 氏からも確認したことである。
 なおクアラピラには戦前も現在も娼婦はおらず、町の人はクアラピラはきれいな町であることを誇りに思っている。

 第 8中隊が駐屯していたクアラクラワンには慰安所はなかった。ここでは休務日にはトラックでセレンバンまで出かけたようだ。

 タンピンについては、まだ確認できていない。今のところ、慰安所があったという情報には接していない。
 バハウの郊外に、日本軍の将校らがよく女性を連れていってパーティをやっていたという家があった1)。1920年代に日本人の商人が建てたという家で、日本式の窓の手すりが付いている瀟洒な建物である。ただ女性たちがいつもいたのではないようなので、慰安所ではないと見られる。バハウは当初、第 6中隊が配備されるがすぐに移動してしまい、その後は第 7中隊から1こ小隊が派遣されていただけである。

 以上見たようにネグリセンビラン州では、中隊規模以上の部隊が駐屯した都市では、クアラクラワンとタンピンを除いて、セレンバン、クアラピラ、ゲマス、ポートディクソンの4都市に慰安所があった。先に紹介した憲兵隊の邦人調査では、42年7 月20日現在、ネグリセンビラン州には邦人が2 人しかいなかったということなので、この時点では州内に朝鮮人慰安婦はいなかったと見られる。慰安婦は中国人が多かったようだ。

 ネグリセンビラン州ではないが、第11連隊第 1大隊が駐留していたマラッカにも慰安所があった2)
 将校用の慰安所がマラッカ市街の北西のはずれにあった。海岸沿いの道路に面したバルコニー付の邸宅で、その建物は現存している。建物の表に「晨鐘励志社」「1928」と書かれており、現在も同社の所有である。1 階は広いピロティと2 部屋、2 階は広い屋根付ベランダが2 つにホールと個室が6 部屋からなっている。この建物の管理人の話でも、戦争中は日本軍の慰安所として使っていたということである。 
 マラッカのサンチャゴ砦の丘の麓、市街地のはずれにも慰安所があった。この建物も現存しており、平屋ではあるが、邸宅である。
 もう一軒、マラッカの北西の郊外の海に面した場所に星見旅舎と呼ばれた慰安所があったという。ここには和服を着た女性がいて、日本軍の将校がよく来ていた。ゲートでは何か証明書を見せて、中に入っていったということである。ここは古い建物で、戦後は雨もりがひどく、まもなく火事になって、その後新しい建物が建てられた。
 この星見旅舎は将校用の料亭であったかもしれないが、慰安所であったとすればマラッカには3 軒あったことになる。
 慰安婦としては、はじめの二つの慰安所については、台湾人とマレー半島の中国人がいたという。

1) 『南洋商報』1991年9 月4 日。
2) 以下の記述は、マラッカ在住の郷土史家である林展源氏が地元住民からの聞き取り調査によって明らかになったことを私に説明していただいた内容である。慰安所の現地にも案内していただいた。記して感謝したい。

 

W マレー半島各地の慰安所

 マレー半島で慰安所があった町について、現在わかっている範囲で紹介しておきたい。
おそらく実際にはもっとたくさんあったはずである( 地図参照) 。

 北から見ていくと、まずケダ州のアロースターである。第41兵站警備隊の一員としてマレー進攻作戦に参加した竹森一男氏によると、第41兵站は1941年12月19日にアロースターに入った1)。当時日本軍はまだペラ州で戦闘をおこなっており、後続部隊が次々とアロースターを通過して南下していた時だった。
 「勤務隊の手で、街の中央部に慰安所が開設された。どこから集めてきたのか、マレー人、インド人、中国人の慰安婦に、朝鮮婦人がかなりまじっていた。すでにサイゴンで徴発し、輸送船の船底に隠しておいたという用意周到さに、私たちは気づかなかった。慰安所は、開設と同時に、宿営中の後続部隊によって大入満員となった。兵士の列はえんえんとつづいた。」
 ここには日本人慰安婦はいなかったという。慰安所開設の月日ははっきりしないが、41年12月ないしは42年1 月のことと見られる。いずれにしても非常に早い。竹森氏によると、上記の記述のあとで、兵士たちは、「現地において、略奪、強カンを行なった者は銃殺に処す」という軍司令官の「命令を守った」と記しているが、そうした「秩序」が維持された理由の一つが、この早い時期における慰安所の開設であったとみることができよう。
 ケダ州バーリンには、42年5月歩兵第21連隊の第3 大隊第12中隊が移駐してきているが、ここに慰安所があった2)

 ケランタン州コタバルの慰安所については、コタバルの憲兵隊長だった高橋三郎氏の証言がある3)。それによると、藤原機関の通訳が慰安所を経営しており、慰安婦は全部で10人くらいいた、「現地」の者ばかりで「全部マレーシア人」「なかに中国人が何人か」いたという。憲兵隊長であった氏は慰安所には行かなかった、そのかわりに専属のメイドが付いており、身の回りの世話と専属慰安婦としての役割を果たしていたという。
 「はじめに」で紹介したマレー系の元慰安婦はこの州である。共同通信の取材によると関係者の話ではケランタン州だけで最高 200人ほどの慰安婦がいたという。この数には疑問が残るが、中国人の少ないマレー半島東部ではマレー人もかなり慰安婦にさせられていたと見られる。
 トレンガヌ州クアラトレンガヌにも慰安所があった。地元の人の話では町はずれの海岸沿いにあり、建物は現在、幼稚園として使われている4)。 

 ペナンでは、B 氏によると陸軍慰安所が同楽ホテルに開設されていた。また海軍の第 9特別根拠地隊がおかれた海軍の拠点でもあったので、海軍慰安所があった。西野留美子氏が紹介している海軍第12特別根拠地隊の元海軍中尉小沢一彦氏の証言によると5)、海軍は、下士官兵用に「もも屋」( 朝鮮人と中国人の慰安婦) と「さくら屋」( 日本人慰安婦) 、、軍属・工員用に「すみれ」という名の慰安所があり、将校用に「つた屋」「藤屋」という料亭があったという。ペナンは海軍の拠点だったのでかなり多かったようだ。
 1942年5 月30日付、海軍省軍務局長・海軍省兵備局長から南西方面艦隊参謀長宛に出された「兵備四機密第137 号」「第二次特要員進出に関する件照会」と題する文書によると6)、「料亭」には別府から10人、「純特要員」として海南市から50人をペナンに送ることになっている。ここで言う「特要員」とは慰安婦のことである。
 この文書によると、6 月6 日以後横浜発の輸送船で運ぶこと、「経営」については業者とすでに「協定」を結んでいること、などが記されている。その「協定」では、「料金」について「概ね一か年間の健康なる働きに依り負債を償却し得るを標準」とすること、士官用・下士官用・工員用に分けること、「運営を艦隊管理の民営とす」ることなどが決められている。
 特要員の送り込み先はペナンだけではなく、昭南( シンガポール) に「料亭」10人をはじめ、アンボン、マカッサル、バリクパパン、スラバヤもあげられている。

 ペラ州イポーにも慰安所があった。ここではクアラルンプールと同様に、在留日本人女性に慰安所の開設と管理を任せていたという7)。イポーにいたある兵士の話では、駅に近い学校に第256 連隊本部が置かれ、その近くに将校用住宅が並び、その先にあった華僑の商店4 〜5 軒を慰安所として使っていた。そこには約40人くらいの中国系女性がいた。また町の南側郊外の競馬場の山側に7 軒の住宅が並んでおり、これらを慰安所として使っていた。「七軒屋」と呼ばれており、1 軒に10名以上の慰安婦がいた。主に中国系だったが、一軒だけ全員朝鮮人女性だった(1944 年末ごろの状況) という。
 同州タイピンにはすでに紹介したB 氏の証言にあるように将校用と兵士用の2 軒があった。

 同州クアラカンサーでは、郊外のサルタンの王宮の近くに警備隊が駐屯し、その側のペラ河を見下ろす丘の上に慰安所があった。ここの慰安婦はほとんどが中国系で30〜40人いたとある元兵士は話している。  
 同州テロックアンソン( 現在テロックインタン) にも慰安所があったという元兵士の証言もある。
 従軍慰安婦110 番に寄せられたある兵士の証言によると、飛行場から200 人くらいがトラックに乗って町に外出し、慰安所に行った。慰安所の経営者は日本人で、そこには朝鮮人慰安婦がいて、軍属募集で来たのに裏切られたと語っていたという8)。この町がどこかわからないが、アロースターかイポーの可能性はある。

 ジョホール州バトパハの慰安所について、地元の新聞が紹介している9)
 現在、バトパハの潮州会館理事である陳観鵬氏の証言では、1943年に日本軍がマレー教師公会の会館を慰安所にし、そこにはちょうど10人の慰安婦がいた。そのうち一人はインドから来た中国人、一人はマレー人、一人はムアから来た中国人、その他はバトパハの中国人だった。慰安所の管理は、張良記という台湾人がおこなっていた。張は東洋ホテル( 現在、シャバンダル・スポーツクラブなどが入っている港の側の建物) も管理していたという。
 B 氏によると、この東洋ホテルの建物は上の階が(3階建て) が将校用の慰安所として使われていたということである。戦争中、東洋ホテルの向かいで店を開いていた駱英傑氏( 1911年生まれ。現在、バトパハ中華商会名誉会長) によると、そこは日本人専用ホテルで、将校たちがよく女性を連れてきていた、数人の女性はずっとそこにいたと話している。
 なお陳氏は、郊外のゴム園で日本兵が通りかかった中国人女性を強姦する現場に居合わせたことも証言している。
 B 氏の話では、これまで紹介した以外では、パハン州クアラリピス、クアンタン、ジョホール州セガマット、クルアン、ジョホールバルについて、それぞれ慰安所があったということである10)

 慰安所に関係した兵士の話を聞くかぎり、シンガポールを除いて、マレー半島では中国人の慰安婦が圧倒的に多い。朝鮮半島でおこなったような、いきなり女性を拉致していくようなやり方がどれほどおこなわれたのかわからない。と言っても、クアラピラの例のように、慰安婦の仕事の内容をきちんと説明せずに女性を集め、慰安婦にしているようなケースは多いと見られる。

1) 以下の記述は、竹森一男『兵士の現代史』時事通信社、1973年、148-150 ページ。なお同書ではアロースター入市を8 月19日としているが、前後の文脈から見て、12月の誤植と見られる。
2) ドリアン会『浜田連隊 続第十二中隊誌』1985年、138 ページ。
3) 映像文化協会『侵略・マレー半島 教えられなかった戦争』1992年、49-50 ページ。同書は、同名の映画( 映像文化協会制作) のシナリオを採録している。
4) 現地で確認された関口竜一氏よりご教示いただいた。
5) 西野留美子『従軍慰安婦 元兵士たちの証言』明石書店、1992年、54-55 ページ。小沢氏はアンダマンに駐留していたが、ペナンにも来ていた。
6) 重村実( 元海軍中佐) 「特要員と言う名の部隊」『特集文芸春秋 日本陸海軍の総決算』1955年12月、224-225 ページ。なおこの文書の原文は所在不明である。また隊名・人名は伏せられている。
7) 竹森一男『兵士の現代史』210 ページ。
8) 従軍慰安婦110 番編集委員会『従軍慰安婦110 番』明石書店、1992年、53-54 ページ。                          
9) 『新明日報』1992年8 月28日。
10) 『世界』の拙稿執筆以降に慰安所があったことが判明した都市は、クアラトレンガヌ、クアラカンサー、テロックアンソンである。これまでの調査から見て、歩兵連隊司令部、歩兵大隊本部がおかれた都市には慰安所があったと見てよい。また中隊本部の所在地では慰安所があった所となかった所と両方がある。第 5師団は42年2 月21日付の「第五師団命令」「師団参謀長の指示」とそれに付けられた「第五師団配備要図」によって、ジョホール州を除くマレー半島全域への部隊の配置を命じた( 第 5師団「新嘉坡攻略作戦戦闘詳報」) 。この「配備要図」は印刷が不鮮明で解読できない箇所があり、明らかに部隊名を書き落とした箇所もある。またすぐに部隊が移動している場合もあり、「配備要図」で指定された通りの配備が続いたわけではないが、とりあえずの目安として利用してみると、ケダ州では第21連隊第 3大隊本部のおかれたスンゲイパタニ、ペラ州では第42連隊第 2大隊本部のおかれた町( イポーとテロックアンソンの間であるが都市名不明) 、第 3大隊本部のあったタパー、セランゴール州では第41連隊第 2大隊本部のあったラワン、第 3大隊本部のあったカジャン、以上の都市についてはまだ慰安所の存在を確認していない。これらの大隊本部のおかれた都市には慰安所があった可能性はきわめて高い。その他に中隊レベルの駐屯地になると、ネグリセンビラン州を除いて20都市程度があり、その中のいくつかでは慰安所があったと見られる。第 5師団ではなく第18師団が配備されたジョホール州を含めるとその数はもっと増えるだろう。本稿で紹介した、慰安所があった都市の数はシンガポールとタイ領を除いて22都市であるが、30都市を超えることはまちがいないと推測している。

 

X シンガポールの慰安所と料亭

 シンガポールには何か所か慰安所があったことがわかっている。シンガポールを占領するのは1942年2月15日だが、かなり早くから慰安所が開設されていたと見られる。

 近衛師団のある通信部隊では42年2 月27日に駐屯地の近くに慰安所が開設されている1)。第25軍の軍政部幹部の元大佐が「八十人近い慰安婦が第一陣として開業したと記憶している」と語ったということが紹介されている2)

 当時、昭南特別市の幹部だった篠崎護氏によると3)、「昭南の治安が一応確立されると、軍兵站部は早速オーチャード路の裏、ケーンヒル街の一角を接収して兵隊の為の慰安所を開き、朝鮮から連れて来た親方と、台湾人であった日本名山口君子という女性に経営させた」という。
 このケーンヒル街の慰安所は、独立自動車第42大隊の元兵士直井正武氏によると4)、敷地がトタン板で区切られていたので「トタン塀」と呼んでいた。ニッパ椰子で葺いた「みすぼらしい楼閣」が並んでおり、慰安婦は朝鮮人が多かったが、「マライ人」もいたという。

 シンガポールのリー・クアンユー前首相は、1992年2 月日本で講演した中で、日本軍のシンガポール占領から4 週間もたっていない時期に慰安所が市内にあり、順番を待つ日本軍兵士の長い列を見たことがあると語り、そのうえで「日本はドイツと違って第二次大戦中に犯した残虐行為などについて、オープンで率直でない」と日本政府の姿勢を批判している5)

 1942年の中頃のこととみられるが、ビルマのラングーンに貨物船で朝鮮人女性40〜50人が送られてきた。新聞記者だった小俣行男氏が、その中の一人と話をしたところ、その女性は元学校の教師で、東京の軍需工場で働くということで応募したが、実際には仁川から船に乗せられてシンガポールに着き、シンガポールで約半数が降ろされ、残りがビルマまで送られてきたということだった。女性の中に17、8 歳の少女が8 人いたので、彼女たちについては憲兵隊に話をして慰安婦にはさせずに将校クラブで働くようにしたという。この話によると40〜50人がシンガポールで降ろされていることがわかる6)
 さきに紹介したように42年7 月時点で194 人の邦人慰安婦がマレー半島とスマトラにいた。おそらくその多くはシンガポールにいたのではないかと推測される。

 シンガポール市街の対岸のブラカンマティ島(現在セントーサ島)の駐留していた陸軍航空の燃料補給廠で通訳として勤務していた永瀬隆氏の証言によると、1942年11月になってから朝鮮人慰安婦12〜13人が送られてきて慰安所が開設された。現在の戦争博物館の所に補給廠の本部が置かれ、その南に隣接した建物が慰安所として使われた。氏は朝鮮人慰安婦たちに日本語を教えるように部隊長から命じられたので、その教育にあたった。彼女らと話をしていた時に「通訳さん、聞いてください。私たちはシンガポールのレストラン・ガールということで100 円の支度金をもらってきたが、来てみたら慰安婦にされてしまった」と泣きながら訴えたという。氏はまもなく12月末に原隊の南方軍の通訳班に復帰し、以降泰緬鉄道に関わることになる。

 インドネシア人の慰安婦がいたという証言もある。シンガポールの元社会問題担当相オスマン・ウォク氏が語ったところによると7)、彼は戦争中、港湾局で働いていた。そのときインドネシアからたくさんのロウムシャが船で運ばれてきた。その中に白い制服を着た16〜20歳くらいの少女たちが混じっていた。彼女たちは「看護婦になるために来た」と語っていたが、実際には市内の慰安所に連れていかれた。約30〜40人くらいいたという。彼女らは戦争が終わって、Katong Road にあった慰安所から逃げ出してきたが、その時オスマン氏に対して「看護婦にすると言われて来たが、慰安婦として働かされた」と語ったという。オスマン氏が港湾局で働いていたのは1944年中頃からのことなので、その時期のことと見られる。

 当時、「昭南博物館」にいたコーナー氏は、1944年4 月の出来事として、インドネシアから集められた人夫たちが船でシンガポールに運ばれてきたが、その途中あるいは到着後もたくさん死んだということを書いている中で、「人夫が女であり、若くてきれいだと、カタンの近くにある兵営に送られ、兵隊たちの慰みものになった。通行人は、彼女らがジャワ語で『助けて』と悲鳴をあげるのを耳にし、胸をしめつけられた」と記している8)
 オスマン氏もコーナー氏もこれらのインドネシア人( 男子) は泰緬鉄道建設のために連れてこられたとしているが、時期から見て泰緬鉄道建設は終わっているので、マレー半島で利用された労務者のことであろう。両者が語っているインドネシアからの女性は同じ人達のことと考えられる。
 1943年10月にシンガポールで南方各軍労務主任会議が開かれ、ジャワからマラヤなどに労働力を供給することが話し合われており、それを受けて労務者が大量にマラヤにも送られてきたようだ9)。その際に慰安婦の供給も議論されたのかもしれない。

 リュー・カン氏の執筆した画集10) の中にも慰安所が出てくる。この画集の第15話が「慰安所 House of Pleasure」である。英語版では、「慰安団(Comfort Parties) は日本軍にとって必要な付属品である。日本人たちがおこなった最初の行動の一つが、すべての娼婦を集め、将校用と兵士用の別の階級に分けることだった。あるところでは教会が慰安所にされた」とある。中国語版では、「日本人は神の後裔と自認し、国土を神州と称し、軍隊を神兵と称し、略奪を聖戦と称し」と皮肉りながら、「マレー中部( 中馬) のある所では聖なる礼拝堂さえも慰安所にしてしまった……」と説明されている11) 

 慰安所ではないが、日本軍とともに日本から料亭がたくさんやってきた。料亭とは本来、飲食店だがそれにとどまらず料亭の女性が娼婦を兼ねる場合も多い。有名な例では、シンガポールの住宅街の丘の上にあった南華女学校などを接収して、そこに東京の料亭がやってきて「つるや」という看板が掲げられた。そして近くの家を何軒か接収して、料亭で遊んだ将校たちの連れ込み宿にした。「つるや」では将校や商社員たちが「連日連夜のドンチャン騒ぎを演」じたので、評判になった。これらは南方軍の黒田重徳総参謀長がやらせたこととされている。これには付近の住民から昭南特別市当局に苦情もあり、「日本軍の威信」が「失墜してしまう」ことを心配した市の警察部長が軍の兵站参謀に善処を申し入れたが埒があかず、最終的には市長から南方軍の寺内寿一総司令官に訴えてようやく料亭は立ち退かされた。この問題が片づくまでに約半年かかった12)

 伊豆長岡温泉から「やまと部隊」と呼ばれた料亭がやってきた。軍政幹部のバックアップをうけて、市の中心部のクリケットクラブを「図南クラブ」という料亭にした。そこで働く女性は日本人だったが、事務員あるいはタイピストを募集するというので応募してきたのに、実際には将校を相手にいやなサービスを強要され、こんな約束ではなかったと女性が訴えたこともあった13) 
 ほかにもソフィア路の南幸女学校が「かにや」という軍の高級料亭に、ケーンヒル路の南洋女学校が軍の料亭にされ、海軍も別に料亭を開設した。このように女学校を料亭にしたことは連合軍にも伝わり、ニューデリーからの放送で暴露されたという14) 
 ある地元の人が次のように言ったという15) 
「英国人は植民地を手に入れると、まず道路を整備した。フランス人は教会を建てた。スペイン人は、教会を持ち込んで金銀を持ち出して行った。そして日本人は料亭と女を持ち込んだ。」

 戦争末期になり、日本軍が形勢不利になっていく頃には「ビルマは地獄、昭南天国」とか「ソロモン一線、東京二線、昭南島は第五線」という言葉が言われた16) 。1944年末シンガポールに到着、すぐにジャワに移動して1945年6 月初旬にシンガポールに再度もどってきた本田忠尚氏によると17)、「店頭の物資は次第に少なくなり、値段は天井知らずに吊り上がった」がその一方「日本料亭の数は減っていたが、高級軍人軍属、商社員などの特権階級が入りびたり、噴火山上の舞踏を続けていた」。「末期的症状の料亭の繁栄を見るに見かねて、方面軍参謀部第一課( 作戦) から、料亭をつぶせという強硬意見が出た。すると、民間の料亭を閉鎖するなら、軍の慰安所もやめてしまったらどうだ、との反対意見が二課( 情報) から出て、結局、沙汰やみとなった」と語っている。また「はじめのうちは軍のピー屋にいったが、なにしろそこは兵隊が門前に行列しているありさまだ。すぐいやになり、穴場を探す」とあり、敗戦直前になってもまだ軍の慰安所があったことがわかる。
    

1) 総山孝雄『南海のあけぼの』叢文社、1983年、150 ページ。
2) 千田夏光『従軍慰安婦』講談社文庫、1984年、228 ページ。この大佐は、渡辺渡大佐と思われる。
3) 篠崎護『シンガポール占領秘録』原書房、1976年、83ページ。
4) 直井正武『戦魂 シンガポール攻略戦・パラオ島防衛戦』東宣出版、1973年、112 ページ。
5) 『朝日新聞』1992年2 月13日。
6) 小俣行男『続・侵掠』徳間書店、1982年、181-183 ページ。米軍が作成した捕虜尋問報告書によると、1942年8 月に朝鮮からシンガポール経由でラングーンに約800 人の慰安婦が送られていることがわかる。小俣氏の話は、その慰安婦の一人のことかもしれない( 『従軍慰安婦資料集』442 ページ、459 ページ) 。
7) H.Sidhu, The Bamboo Fortress : True Singapore War Stories, Singapore,  Native Publications,1991, p181, 『赤旗』1992年2 月14日。
8) E.J.H.コーナー『思い出の昭南博物館』中公新書、1982年、162-163 ページ。
9) 小林英夫『" 大東亜共栄圈" の形成と崩壊』御茶の水書房、1975年、478 ページ、倉沢愛子『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社、1992年、第四章労務者(180ページ〜) 参照。
10)  劉抗Liu Kang『雑碎画集Chop Suey 』1946年( 再版、八方芸苑、1991年、邦訳 中原道子訳『チョプスイ シンガポールの日本兵たち』めこん、1990年) 。原著は、英語版と中国語版があり、絵は同じだがそれぞれ違う内容の説明文がつけられており、邦訳は英語版の説明だけが訳されている。したがって、「マレー中部のある所」という場所を限定した記述は英語版にも邦訳にもない。 
11) 現在のところ、教会を慰安所に使っていたという事例はつかんでいない。ただマレーシアの中では、東マレーシアのサバ州でそうした例が報告されている( 以下、Stephen R.Evans, Sabah(North Borneo) Under The Rising Sun Government,Singapore,1991 、による) 。なおサバとサラワクは「北ボルネオ」としてボルネオ守備軍の管轄にあった。
 サバ州のコタキナバルでは、カラムンスィンの側の丘の上( 旧市街と新市街の間) にオール・セインツ教会All Saints Church があった。この教会の側に建っていた司祭用宿舎が慰安所として使われた。その宿舎は広く、たくさんの部屋に別れていた。現在、教会の建物は残っているが、司祭用宿舎は残っていない。なお同教会は丘の麓に移転している。 もう一つの慰安所は、旧市街の後ろの丘の上にあったバーゼル・ミッション教会Basel Mission Churchの教会の建物と付属学校である。ここは現在、サバ神学院Sabah Seminary Collegeとなっており、建物が戦争中と同じものかどうか確認できなかった。 他に高級将校用の慰安所があったとされている。 サバとサラワク( 東マレーシア) はマレー人が少ないこともあってイスラム教徒が少なく、イギリスの影響でキリスト教の教会が多い。町のあちこちに教会があり、この教会を慰安所として使ったようである。私が確認した二つはいずれも丘の上にあり、住宅地からは少し離れているので、慰安所として使いやすかったのかもしれない。
 コタキナバルの慰安所の慰安婦は、ほとんどがインドネシアのジャワの女性であり、サラワクのクチンを経由して連れてこられたという。先に紹介したオスマン・ウォク氏の証言とあわせて見ると、ジャワからマレー半島や北ボルネオに労務者だけでなく、慰安婦も連れてこられていたようである。
12) 大達茂雄伝記刊行会『大達茂雄』1956年、186-187 、491-493 ページ、シンガポール市政会『昭南特別市史』日本シンガポール協会、1986年、202-203 ページ。
13) 篠崎護前掲書、81ページ、牛島俊作「二人の美女の物語り」( 田村吉雄編『秘録大東亜戦史 マレー・太平洋島嶼編』富士書苑、1953年)116-117ページ、寺崎浩『戦争の横顔陸軍報道班員記』太平出版社、1974年、172-177 ページ。
14) 篠崎護前掲書80-82 ページ。
15) 同前82ページ。
16) 横田康夫「シンガポールの夕陽」( 田村吉雄前掲書)127ページ。
17) 本田忠尚『茨木機関潜行記』図書出版社、1988年、12-14 ページ。
               

おわりに

 マレー半島においては、日本軍の占領直後の早い時期から、一部はシンガポールがまだ陥落していないうちから慰安所が設置されていた。慰安所が設置された都市は、マレー半島全土に広がっている。中国戦線での日本軍兵士の行動が「反日感情」を醸成し、占領行政を阻害してしまった経験をふまえた、軍の対応であったといえる。
 慰安婦の募集にあたって、朝鮮から連行されてきた慰安婦を別として、マレー半島において強制連行と言えるような方法が取られたのかどうか、という問題がある。概して、「からゆきさん」を通して集められたケースが多いと見られるが、クアラルンプールの箇所で紹介したようにシンガポールで街を歩いている時に拉致されたと語っていた慰安婦の例もあり、今後さらに調べる必要がある。

 1910年に締結され、1925年に日本も加入している「醜業を行はしむる為の婦女売買取締に関する国際条約」の第2条において「詐欺・暴行・脅迫・権力乱用その他一切の強制手段を以て成年の婦女を勧誘・誘引・拐去したる者は罰せられる」という規定がある。ここでは、だまして慰安婦にさせること=「詐欺」も「強制手段」の一つとされている。この国際条約の第1条では未成年者はたとえ本人の承諾があっても売春行為をさせることを禁じている1)。仮に暴力的な拉致ではなくても、「詐欺」による募集や未成年者を就業させることは、この国際条約に違反する行為である。

 なお最近明らかにされてきたフィリピンの実態では、軍により公式に開設された慰安所だけでなく、末端の各部隊が勝手に村から女性を拉致して慰安婦にしたり、少数の兵士が拉致してきた女性を囲い、米軍に解放されるまで数カ月間、強姦を繰り返したケースなどが次々と報告されている2)。長期にわたって多数の兵士への売春行為を強制されるケースを軍慰安婦として広くとらえるならば、そのあり様は地域によって実に多様である。これらの比較検討は今後の課題である。

 さてこうした慰安所の設置によって、日本兵の住民への強姦や略奪などの行為が改善されたのだろうか。第25軍司令部は、シンガポール占領時に歩兵部隊を市内に入れないなど、そうした点を配慮した措置を取っている。またB 氏をはじめ私が接した元日本兵からの話などでは、マレー進攻作戦中の日本軍の規律は厳しかったと言われており、私がこれまで現地でおこなった聞き取りなどから判断して、確かに中国戦線とはかなり違うという印象を持っている。たとえば一つの例をあげると、日本軍の1 こ中隊が駐屯していたネグリセンビラン州のクアラクラワンでは、日本兵による女性に対するトラブルはまったくなかったと地元の年輩者が語っている。

 ただ一方で、南方軍参謀・藤原機関長としてマレー作戦に参加した藤原岩市氏によると「山下軍司令官も開戦の当初に全軍将兵にこのこと( 中国で行ったような略奪などの行為筆者注) を最も厳しく戒めている。にも拘らず住民の訴えによると、日本兵の中にこの種の行為が散発している事実がある」と述べている。藤原氏の叙述は強姦事件ではなく3)、略奪事件の例であるが、シンガポールで戦後直後に出された文献には日本兵による強姦事件があちこちで起こったという話が出てくるものもある4)。この問題については今後の課題としておきたい。

 この慰安所の問題は、朝鮮人、台湾人、さらにはマラヤの中国人、東南アジアの諸民族への差別、蔑視の表れである。それは日本軍とともにそれを支えた日本の指導者、日本社会のあり方の反映である。
 そうした性格とともに、料亭での日本人女性への「サービス」の強要、しかも騙して連れてきたことなどにも見られるように日本軍がきわめて露骨な女性蔑視の集団であったことが示されている。たとえば、不満を訴える日本人女性に対して「男が戦場で戦っているのに女が男を慰めないとは何ごとだ、命令がなくともサーヴィスするのは当然じゃ」と一喝した日本軍人の発言にはっきりと示されている5)
 シンガポールでは特別市の幹部たちが、あまりにひどい軍の乱行を規制しようとしており、軍に比べれば良識的な対応をしている。だがその理由は現地住民に対する軍の権威が失墜するなどという、もっぱら軍政を円滑に進めるうえで障害になるという観点からの判断が主たるものであったように見られる。もちろんこのことは、この時点では日本社会において女性の人権という発想がなく、買春が一般に常識的なことであったの反映であるが、日本側の中での良識的な部分もそうした枠にとどまっていたのである。
 このように考えるならば、従軍慰安婦の問題は、当時の日本軍の特殊な、部分的な問題ではなく、日本軍( 兵) とそれを支えた日本社会( 指導者も民衆も含めて) のあり方に関わる問題であると言える6)。そうした意味で、日本軍がアジア太平洋各地に設置した慰安所の実態が実証的に明らかにされ、その歴史的意味が解明される必要があろう。

                                                                             
1) 吉見義明「課題を残す日本政府調査」(日本の戦後責任をハッキリさせる会『ハッキリ通信』第4号、1992年9 月)11-12 ページ。
2) 松井やより「フィリピンから 元従軍慰安婦 集団提訴へ」『朝日新聞』1993年3 月29日- 31日夕刊、参照。
3) 藤原岩市『F機関』原書房、1966年、78-79 ページ。
4) たとえば、司馬春英『惨痛的回憶』国連出版、シンガポール、1946年。シンガポール占領50年を記念して、シンガポール放送局(SBC) が作成したテレビ番組Between the Empireres (1992 年2 月15-16 日放送) の中でも、民家に入って若い女性を連れ去っていく日本兵の姿が描かれている。
5) 寺崎浩前掲書、178 ページ。                         
6) カンボジアでのPKO活動に参加する自衛隊員に対し、エイズ対策のために避妊具を配布することが防衛庁内で検討されていることが報道された(『朝日新聞』1992年8 月14日) 。結局、世論の批判を受けたこともあって取り止めになったが、もし配布されたとすれば、それはカンボジアやタイなどの娼婦に対して使われることになっただろう。
 その後、あるジャーナリスト( 元毎日新聞論説委員) が次のような文を発表した。
「カンボジアで行く自衛隊員は半年交替だそうです。しかし健康で若い男に半年間辛抱しろと命じるのはムゴイことです。かといって手近な女性に手を出せば、カンボジアはタイA 型エイズウィルスのすぐ近くです。冗談ではなしに、私は従軍慰安婦を送るのも一案だと考えています。何もセックスの相手をしなくてもいい。音楽を聞かせ、お茶を出してくれる女性がいるだけで、殺伐たる男社会の空気はなごむものなんです。」( 徳岡孝夫「PKOに従軍慰安婦?」『家庭の友』1992年11月)
 ここで言っているのは本来の意味での従軍慰安婦とは違うが、しかし戦場にいる兵士たちに女性がサービスをするのは当然という発想は、太平洋戦争中とまったく変わっていない。
 戦前、日本国内においても日本軍の駐屯地の近くにはたいてい公認の売春街があった。今日でも自衛隊の駐屯地の近くには、売春ないしはそれに近いサービスを提供する歓楽街がある所が多い( たとえば、『別冊宝島133 裸の自衛隊』JICC出版局、1991年、211-218 ページ) 。これは日本だけではなく、一般に軍隊と買春はきわめて密接な関係があるのが普通である。この点について、近代の軍隊が一般に持っている性格とともに旧日本軍の特質があると思われるが、突きつめた検討が必要である。
 一方、軍隊と買春の関係は社会のあり方の一つの反映でもあり、日本社会全体の問題であることは言うまでもない。日本男性による東南アジアや台湾韓国などへの買春ツアー、フィリピンやタイなどの女性を日本に連れてきての売春の強要、などの問題もあわせて考える時、従軍慰安婦問題は戦前から現在にいたるまでの日本社会のあり方そのものと関わる課題であるといえよう。

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