マレー半島の日本軍慰安所
                  『世界』1993年3月号

                                  林 博史


マレー半島にあった日本軍の慰安所について、新しい文書史料や日本兵と現地での聞き取りに基づいて、かんたんに紹介したものです。
 私がこの問題に取組むようになったきっかけは、慰安婦問題についての議論が韓国朝鮮人慰安婦にばかり集中していたからです。マレー半島での華僑虐殺などの調査の過程で、慰安婦問題にも出会っていましたが、東南アジア現地の女性が慰安婦にさせられていたことが忘れられているのではないか、と疑問に感じていました。ちょうど、1992年に日本政府は慰安婦問題の資料調査をおこない、その結果を発表しましたが、その中には私が防衛庁防衛研究所図書館ですでに見つけていた、いくつかの資料さえも含まれていませんでした。そこで現地調査をおこなうとともに、慰安所設置に関わった日本軍関係者にも話をきき、まず『朝日新聞』1992年8月14日付、で発表し、そのうえでこの論文を書きました。
 なおこの後で詳細な論文「マレー半島における日本軍慰安所について」を大学の紀要に発表しましたので(このHPに掲載)、そちらもあわせてご覧ください。ただし重複している部分もありますが、こちらにしか書いていないこともあります。  1999.4.1



はじめに
一 日本軍の記録にみる慰安所
二 元日本兵の証言にみる慰安所
三 クアラピラ慰安所
おわりに

はじめに


 昨年一月防衛庁防衛研究所図書館が所蔵する旧日本軍の史料の中に慰安所関係の史料があることが吉見義明氏によって確認され、『朝日新聞』で報道された。日本政府はようやく国の「関与」を認め、史料の調査をおこない、その調査結果が七月に公表された。
 私は一九八七年に防衛庁図書館で、日本軍がマレー半島でおこなった華僑虐殺の軍史料を見つけた。それが大きく報道されたことにより、日本軍がマレー半島でおこなった残虐行為がようやく日本でも知られるようになった。それらの史料の中に断片的ではあるが、マレー半島の慰安所についての記述があった。しかし、政府の公表した史料には、マレー半島の史料は一件を除いて欠落していた。
 昨年、私はマレー半島の慰安所の開設・管理にあたった元兵士の証言を聞くとともに、マレーシアにも現地調査をおこなって、いくつか慰安所を確認してきた。このマレー半島の関係史料と調査内容は『朝日新聞』八月一四日付で報道された。
 この間、中国大陸や沖縄など各地の慰安所の実態はかなりわかってきているが、東南アジアについてはほとんどわかっていない。ここでは、マレー半島の慰安所と慰安婦について、とりあえず現在の段階でわかっていることを紹介したい。
  ※一九四一年六月末において、シンガポールを含むマレー半島の民族構成は、中国人 ( いわゆる華僑) 二三八万人、マレー人二二八万人、インド人七四万人、その他にヨーロッパ人・ユーラシアン( 欧亜混血) などを含めて、合計五五二万人となっている。

一 日本軍の記録にみる慰安所

 まず防衛庁図書館に所蔵されている関係史料を紹介したい。マレー半島のネグリセンビラン州とマラッカ州に駐屯した第五師団歩兵第一一連隊の関係史料の中にいくつか慰安所についての記載がある(吉見義明編集解説『従軍慰安婦資料集』大月書店、に所収)。
 日本軍は一九四一年一二月八日マレー半島東北部から侵攻し、南にむけてマレー半島を縦断、翌年二月一五日シンガポールの英軍が降伏して、マレー半島全域を占領した。その直後、シンガポールで華僑数万人を「抗日分子」という理由で虐殺するとともに各部隊がマレー半島全域に展開して、四二年三月(一部は四月まで)の約一か月間、各地で華僑粛清を行った。こうした中での史料である。

 マラッカに駐屯していた第一一連隊第一大隊は一九四二年三月二〇日「大隊日々命令」を出し、その中で「一、慰安所に於ける規定を別紙( 省略) の通り定む 追而『マラッカ』警備並駐留規定中第五章一八項は之を削除し慰安所使用配当日に依り休務すべし(大隊砲小隊慰安所使用配当日毎週金曜日とす)」とある。残念ながら慰安所に於ける規定は残っていない。しかしこの命令が出された日には慰安所が開設され、駐屯していた部隊ごとに配当日を決めて慰安所を利用させていたことがわかる。この史料は「第一大隊砲小隊陣中日誌」でこの小隊は金曜日が配当日になったので、次の金曜日の三月二七日には「本日休務日なるを以て□軍曹以下三十七名 極楽園及慰安所に至り十八時二十分全員異常なく帰隊す」。その翌週の金曜日には「本日は小隊の休務日なるを以て十一時より□□軍曹以下三十五名市内娯楽場及慰安所に外出をなす」とある。
 第一大隊がマラッカに来たのは二月二六日なので、一か月もしないうちに慰安所が開設されている。マラッカ州では三月はじめから二五日まで華僑虐殺が行われており、こうした虐殺をおこないながら慰安所を設けていたことがわかる。

 歩兵第一一連隊司令部(ネグリセンビラン州セレンバン)は三月二三日に出した「南警備隊会報」の中で「兵站に於て指定せる慰安所の外私娼家屋に立入りを厳禁す」と命じている。兵站が慰安所を担当していたこと、この日までには慰安所が設置されていたことがわかる。

 第一一連隊の第二大隊第七中隊は、ネグリセンビラン州のクアラピラに駐屯していたが、この部隊の陣中日誌によると四月三日に次のような記述がある。

「一、中隊は九時三十分橋本少尉以下二十六名『トレンビ』方面の掃蕩後の再調査を実施せしむ 十三時五十分全員無事帰隊し不偵分子一名を刺殺す
 二、本日より慰安所開設せるを以て午後一般に休養せしむ」

 大規模な虐殺は三月末にほぼ終わっているが、粛清で一人刺殺してから、休みをとって兵士を慰安所に行かせるという状況が記載されている。四月二五日に定められた第七中隊の「クアラピラ・バハウ駐留規定」の「休務日」の項目の中に次のような記述がある。
 「公用外出者並一般休務日に於ける外出者は当分間町内に於ける飲酒食を厳禁す 但し慰安所内に設置しある飲食店内の飲食は此の限りにあらず」
 慰安所の使用をめぐってのトラブルもあったようで、第一一連隊は四月二四日「一、慰安所に於て切符を購入することなく慰安する者あり 必ず事前に切符を購入するを要す 各隊巡察将校も亦此の点に著意して巡察すると共に違反者あらば速に報告せられ度」と通達している。慰安所での違反者の取締りを日本軍の将校がおこなっていることがわかる。

 他に慰安婦の人数がわかる史料がある。マレー半島とスマトラを管轄していた第二五軍(富集団)司令部が一九四二年八月二五日付で作成した「第二十五軍情報記録(第六十八号)自七月十一日 至七月末日」である。この中に、憲兵隊による調査「最近に於ける在留邦人状況の概要」(七月二〇日現在) がある。この在留邦人には朝鮮人と台湾人も含まれている。
 この史料によると軍人軍属を除く在留邦人は七三七名( 男三九六名、女三四一名) 、地域別ではシンガポール二八三名、ジョホール州一二七名、最小がネグリセンビラン州二名、渡来府県別では、朝鮮一九六名、長崎県五九名、台湾四九名など、となっている。そして職業別では、慰安婦一九四名が最も多い。
 この時期、邦人の民間の娼婦はいないと見られるので、この慰安婦は従軍慰安婦のことと考えられる。一九四名の渡来府県別がわからないので朝鮮人慰安婦がどれだけいたのかはわからないが、このうちのかなりがそうではないかと推測される。
 なお政府が公表した史料の中にジョホール州ムアに慰安所が開設されていたことを裏付ける史料がある(「独立自動車第四二大隊第一中隊陣中日誌」一九四二年八月二四日)。

 その後の政府調査により明らかにされた史料、馬来軍政監部「慰安施設及旅館営業取締規程」(馬来監達第二八号、一九四三年一一月一一日)によると、「慰安施設」とは「娯楽施設」「飲食施設」「特殊慰安施設(慰安所)」のことを指し、「軍専用」「軍利用」「其の他」の区分をおこなうこと、地方長官が営業の許可・禁止、稼業婦の就業・廃業の許可などをおこなうこと、地方長官は稼業婦に対して毎週一回検黴(梅毒の検査)をおこなうこと、慰安施設の経営者は邦人に限定するを本則とし、従業員は「為し得る限り現地人を活用」することなどが定められている。この規程とともに「慰安施設及旅館営業遵守規則」「芸妓、酌婦雇傭契約規則」も定められている。(この史料は吉見義明氏にご教示いただいた)。この規程を見ると軍政監部が慰安所の経営の細部にまで深く関与し、統制していたことがわかる。

 このように日本軍はマレー半島占領後、非常に早い時期に、しかも華僑粛清という大規模な作戦をおこなっている最中、あるいはその終了直後に慰安所を開設していった。こうした敏速な措置をおこなった背景には中国での経験への反省があると見られる(『世界』一九九二年三月号吉見義明論文参照)。さらにいつの時点からかははっきりわからないが、慰安所の管理が兵站から軍政監部に移されたと見られる。

二 元日本兵の証言にみる慰安所

 マレー半島では、慰安所の開設・管理、慰安婦の募集を担当したのは兵站であった。兵站は軍需物資の供給など後方の業務を担当する部隊であり、慰安所もその仕事の一つだった。この第二五軍兵站に勤務して、マレー半島での慰安所の開設・管理にあたった元兵士B氏の話を聞くことができた。その話を整理して紹介したい。

 一九四二年一月二日マレー半島の上陸地点シンゴラにいた兵站の将校以下三名にバンコク出張が命ぜられた。その任務の一つが慰安婦集めだった。翌三日バンコクに向かった。ただバンコクではつてがなかったので、日本の企業の駐在員に頼んでタイの各地から二三人の娼婦を集めてもらった。しかし性病検査をすると合格したのは三人だけで、このタイ人三人を連れて帰り、二月はじめ頃、ハジャイとシンゴラ( いずれもタイ領) に慰安所を開設した。これがマレー半島で最も早い慰安所のひとつではないかと見られる。 
 兵站本部とともに行動したB氏は三月三一日ペラ州のタイピンに入った。すでに先行していた兵站支部が将校用と兵士用の慰安所を一件ずつ開設していた。将校用は、現在レストハウスのある丘の上の邸宅を使い、兵士用は丘のふもとにあった。B氏はタイピン中央病院に性病検査を依頼し、そこのインド人の病院長に検査をおこなってもらった。将校用の慰安婦は全員中国人、兵士用はほとんどが中国人で、白人とアジア人の混血のユーラシアンらしき女性もいた。

 その後、五月二三日B氏らはクアラルンプールに入った。B氏はクアラルンプールの慰安所の開設を担当した。まずクアラルンプールに残っていた日本人女性を集めた。マレー半島にはかなり以前から多くの日本人が移民してきており、女性は娼婦が多かった。だが第一次世界大戦後、日本政府は日本人が外国で娼婦をしていることは好ましくないと指導したこともあって、ほとんどの女性は娼婦をやめた。マレー人や中国人と結婚した女性も多かった。
 軍はそうした女性を集めた。ちょうど一四人が集まった。娼婦の経験者が一二人、そうではない人二人だった。娼婦経験者には慰安婦集めと慰安所の管理を任せ、非経験者には兵隊用の食堂の経営を任せた。慰安所の建物は日本軍が接収あるいは借りて提供した。

 クアラルンプールの慰安所は次の七つの地域に設けられた。
@「六軒屋」(華僑の邸宅六軒を接収して使用)と「つたのや」の七軒。慰安婦はほとんどが中国人だが、はじめに集めたタイ人三人やインド人二人、ジャワ系の人三人がここにいた。「つたのや」は最初にできた慰安所であり、四二年四月ころの開設と見られる。
A中国人慰安婦ばかりの二軒
B「興南会館」という高級将校用の料亭兼遊廓があり、そのそばに将校用慰安所一軒。前者には日本人女性十数人が仲居として働いており、将校が口説いていたという。
Cイギリス人の邸宅を使った慰安所三軒
D中心街に将校用慰安所一軒
Eホテルを接収して使った「月野屋」。クアラルンプールでは最大の慰安所であり、中国人慰安婦が三〇人くらいいた。後に将校用の料亭になった。
F最後に開設された慰安所。市内の丘の上にニッパ葺きの屋根のL字型の大きな家を建てた。そこに四二年八月ごろシンガポールから朝鮮人慰安婦約二〇人余りが列車で送られてきた。B氏は駅まで迎えにいって彼女らをこの慰安所に運んだ。B氏が見たところでは、その女性たちは慰安婦になってからかなり期間がたっているように見えたという。

 以上の七か所に計一六軒の慰安所が開設された(興南会館は除く)。四二年四月ころに最初の慰安所「つたのや」が開設され、朝鮮人慰安婦が送り込まれてきた八月ごろまでに一通り慰安所の開設は終わった。この時点で慰安婦の人数は一五〇人を越えていただろうという。一番多かったのが中国人、次に約二〇人の朝鮮人、あとはタイ人三人とジャワ系三人、インド人二人であった。またマレー人と中国人の混血、ジャワ人とマレー人の混血もいたという。ただしマレー人はイスラム教徒なので慰安婦にはしなかったという。
 慰安所に使った建物は多くが中国人やイギリス人の邸宅であった。他の町で私が確認した元慰安所の建物も同様だった。

三 クアラピラ慰安所

 マレー半島の慰安所は兵站が担当したが、かならずしもそれだけではなかった。その一つがクアラピラの慰安所である。ネグリセンビラン州の中央部にあるこの町には、歩兵第一一連隊第七中隊が駐屯していた。第七中隊は四二年二月二八日クアラピラに到着、この年の末まで駐屯した。この間、三月三日から二五日まで、連隊の一員として州内各地の華僑粛清にあたり、第七中隊の公式記録である「陣中日誌」の記述によると五八四名を刺殺し、二八〇名を検挙して憲兵隊に引き渡している。私が調べたかぎりでは、刺殺した相手は抗日ゲリラはほとんど含まれず、多くが女性や子どもだった。また同年八月にはスンガイルイ村を襲い、村民を全員集めて虐殺、三六八名を殺害している(華僑粛清については、拙著『華僑虐殺』すずさわ書店、参照)。

 このクアラピラに慰安所が二軒あったことは、さきに紹介したB氏の証言と地元の人の証言の両方で確認した。しかし、その開設の経緯はクアラルンプールなどとはちがっていた。クアラピラの慰安婦集めを日本軍に任された地元の李玉旋さんの証言を紹介したい。(正確には「旋」に王偏が付く)
 ある時、李さんは、二人の歩哨兵が一人の女性を追いけけるのを見かけた。地元の女性がよく兵士に触られた。ただ強姦事件はなかったという。
 クアラピラ治安維持会の会長代理だった李さんは中隊長のところへ行き、歩哨が女性を追いかけないように頼んだ。すると中隊長のそばにいた第二小隊長から、女性を探すように言われた。その話を治安維持会にもちかえったところ、王という仲介業をしていた人が、ゴム園で働いていたが戦争が始まって失業した三〇歳代の女性四〜五人を集め、李さんの紹介状をもって日本軍に連れていった。ところが王は第一小隊長からいきなり殴られてしまった。そのことを聞いた李さんはすぐに中隊長に会いに行き、どうして殴ったのか、尋ねた。すると第二小隊長が「あの女たちは年を取り過ぎている。自分の親と同じ年齢だ。あの女たちはいらないから、もっときれいな女を探せ。今度はおまえに任せるから、おまえの責任で探してこい。」と指示した。李さんはもし女性を連れてこなかったら自分が首を斬られるかもしれないと心配し、「ここにはきれいな女性はいないから、クアラルンプールに行かなければならない」と言って、一週間待ってほしいと頼んだ。

 李さんは友人二人と一緒にクアラルンプールに出かけた。クアラルンプールの歓楽街でタバコなどのセールスをやっている女性を知っていたのでその人に頼んだ。その女性に一七歳から二四歳までの中国人女性一三人を「招待所」で働くということで集めてもらった。中国語の招待所という言葉は、ゲストハウスという意味で、李さんは軍隊の慰安所とはわからなかったという。
 クアラルンプールの華僑団体に頼んで、憲兵隊から一三人の通行章をもらって帰って来た。帰る途中、セレンバンの友人に集めてもらった女性五人も一緒に連れてきた。この五人は二〇歳代前半の女性で、いずれも娼婦ではなく、元二号さんだが今は捨てられた女性だということだった。あわせて一八人、すべて中国人である。

 まず町の端の建物を使った「招待所」に一八人を収容した。まもなくきれいな五人だけを残して他の一三人は中隊の宿舎のそばにあった州のサルタンの一族の邸宅を利用した「慰安所」に移した。招待所が将校や憲兵用で、慰安所が一般兵士用だった。

 李さんは招待所の五人とはよく話をした。彼女らは外出を禁じられていたので、買物を頼まれた。「早く帰りたい」と泣きながら訴えられたことも何度かあったという。
 慰安所の管理は、クアラピラのある男が任せられていた。女性たちには、治安維持会がお金を集めて一人一か月三〇〇ドルずつ軍票で支払った。戦争が終わってから、日本軍が帰ってよいと行ったので女性たちは自分で帰っていった。その後、何も連絡はない。

 なお第七中隊長と二人の小隊長は、戦後、住民虐殺の罪で戦犯裁判にかけられ、三人とも死刑になっている。
 すでに紹介したようにクアラピラには「陣中日誌」によると四月三日に慰安所が開設されている。その一週間前まで虐殺をくりかえしており、そうした虐殺をおこないながら、慰安婦を集めさせていたことになる。中国人を一方では虐殺し、他方では慰安婦にしていったということは、中国人を同じ人間とは見ていなかったことの表れである。
 なおクアラピラに駐屯していたのは、第七中隊が九〇〜一一〇名程度、ほかに機関銃小隊の一部や憲兵隊若干名などであり、多くても一五〇名をこえない規模と見られる。だから慰安婦一八人というのは他に比べて多い。

 ネグリセンビラン州では、連隊司令部のあったセレンバン、第三中隊のいたゲマス、第六中隊のいたポートディクソンに慰安所が設けられていたことが確認できた。先に紹介した憲兵隊の邦人調査では、四二年七月二〇日現在、ネグリセンビラン州には邦人が二人しかいなかったということなので、この時点では州内に朝鮮人慰安婦はいなかったと見られる。慰安婦は中国人が多かったようだが、どのようにして集められたのかは、クアラピラ以外はまだわかっていない。

 マレー半島で、文献や証言によって慰安所があったとされている町は、これまで挙げた以外には、北から見ると、ケダ州アロースター、バーリン、ペナン島、ペラ州タイピン、イポー、ケランタン州コタバル、パハン州クアラリピス、クアンタン、セランゴール州クアラルンプール、ジョホール州セガマット、クルアン、ムア、バトパハ、シンガポールである(図参照)。ただしこれはまだ調査途中の中間報告にすぎない。私の限られた調査では、大隊以上の駐屯地には慰安所は設置されており、中隊の駐屯地には慰安所がなかった町とあった町と両方ある。中隊規模以上の駐屯地を徹底して調査すればもっとたくさん出てくるであろう。    

 マレー半島では部隊の移動が激しく、ある部隊が一か所に駐屯している期間は長くない。そのため駐屯している兵員数が確定しにくく、どの程度の人数比で慰安所・慰安婦がおかれたのか、わからない。ただ、現在のところトレンガヌ州を除いて、各州の主な都市には日本軍が駐留し、慰安所も設けられたことはほぼ確認できる。また慰安婦はシンガポールを除いて、マレー半島では中国人(華僑)の慰安婦が圧倒的に多いと見られる。

おわりに

 マレーシアではこの問題についてあまり関心がもたれていなかったが、昨年八月の『朝日新聞』の記事がマレーシアでも大きく取り上げられた。ところが日本大使館員が、マレー半島の慰安所には朝鮮台湾と日本女性がいただけで、華人やマレー人、インド人などはいなかったと語ったという。そうした大使館員の言動に反発した地元新聞では、華人などの地元の女性が慰安婦にさせられていたという証言を紹介し、慰安所の建物の写真を掲載するなどこの問題への関心が強まっている(『新明日報』一九九二年八月二八日など)。

 マレー半島の慰安所・慰安婦についてわかっていることはまだほんの一部分にしかすぎない。またマレー半島は連合軍が上陸せず戦場にならなかったので、戦場になったほかの東南アジアや太平洋の島々とはかなり状況が違っていると思われるが、そうした地域についてもまだあまりわかっていない。そうした従軍慰安婦の全体像の解明に本稿が少しでも役に立てば幸いである。また史料や情報があればご教示いただければ幸いである。