戦後五〇年をどうとらえるか
―戦争責任の視点から
『教育』1995年2月号
林 博史
これは教育科学研究会が編集している雑誌に掲載したものです(出版社は国土社)。 1999.4.1
はじめに
一、世界史の中の第二次世界大戦
二、日米合作としての東京裁判
三、国民の意識と戦後革新
四、一九六〇年代後半の社会運動
五、「大国化」と戦争責任の問い直し
六、戦後補償の今日的意義
はじめに
日本の敗戦から五〇年めの今日、近代日本の侵略戦争の歴史をどう総括するのかということと同時に、戦後五〇年の歴史をどう総括するのかという二つの課題が私たちの前に課せられている。現在、日本の戦争責任や戦後補償が国内外で大きな問題になっているのは、両者の課題が不可分であることの表れである。なぜ今日、戦後補償が問題になるのか、そして一方ではその問題に取り組む人々に対して「東京裁判史観」というイデオロギー的な攻撃がなされるのか、そうしたことを理解するかぎは戦後の日本政治の構造の中にあると考える。ここでは戦後日本政治のあり方を戦争責任の視点から考えてみたい。なお紙数の制約もあり基本的なスケッチにとどまることをご了承いただきたい。一、世界史の中の第二次世界大戦
日本では第二次世界大戦が近代と現代を分ける大きな分水嶺と考えられているが、世界史的には、特にヨーロッパでは第二次大戦ではなく第一次大戦の意味が大きかった。二〇世紀の初めまで戦争は国際法のうえで違法とはされていなかった。しかし第一次大戦が民間人にも多大な犠牲を出したことから、戦争への深刻な反省が生まれた。一九一九年のベルサイユ条約ではじめてドイツの戦争責任が問われた。さらに一九二八年の不戦条約(戦争放棄に関する条約)、国際連盟による不承認決議(違法な戦争による条約・領土状態を承認しない)など、戦争に訴えることを違法として否定する戦争違法観が形成されてきた。
第一次大戦後は植民地主義が正統性を失った時代でもある。たとえばそれまでは日本は台湾や朝鮮を領土として併合してきたが、第一次大戦でドイツから奪った南洋諸島の場合、併合ではなく国際連盟からの委任統治領となる。満州の場合も建前としては「独立国」にせざるをえなくなった。戦争で奪った土地を併合することが国際的に許されなくなっていた。さらに中国に対しては、ヨーロッパ諸国はそれまでは分割し利権を奪うというやり方をとってきたが、一九二〇年代以降は中華民国を承認し、その下で中国が統一されることを認める政策に変わった。アメリカの植民地だったフィリピンでは一九三五年に自治政府が発足しアメリカは一〇年後に独立を与える約束をした。ビルマでは、イギリスが一九三七年に一定を内政自治権を与え、ビルマ人の政府を作った。
帝国主義・植民地主義の時代は明らかに変化しつつあった。戦争という手段に訴えることは国際法上違法とみなされるようになっていった。そうした中でドイツ・イタリア・日本は世界の流れに逆行して侵略戦争をおこなったのである。
二、日米合作としての東京裁判
こうした世界史の流れの中で日本の戦争責任・戦争犯罪が問われたのは当然であった。日本の戦争指導者たちの戦争責任が問われたのが東京裁判だった。この間の研究の進展により東京裁判が「勝者の裁き」として一面化できない構造を持っていることが明らかにされている。
占領軍が上陸するまでに時間のあった日本政府や軍は公文書を徹底して焼却した。このことは戦争犯罪を裁こうとしていた占領軍に大きな障害となり、事実の認定や被告の選定のために関係者からの尋問に大きなウェイトが置かれることになった。そこで日本の関係者は積極的に協力することによって裁判を特定の方向に誘導する方法をとった。特に天皇の側近たちや重臣(宮中グループ)、海軍、外務官僚たちがそうだった。近衛文麿や木戸幸一に連なるグループは国際検察局に積極的に情報を提供し具体的な戦犯リストなども提供している。後の首相吉田茂もこの人脈の一員であることに注意していただきたい。彼らは、天皇を擁護して、責任を東条英機など特定の陸軍軍人などに押しつけるという点で共通していた。木戸が提出した日記が被告の選定に大きな影響を与えたことはよく知られている。
田中隆吉(元陸軍省兵務局長)は東条ら陸軍を厳しく内部告発した人物として知られているが、彼は宮内省宗秩寮総裁の松平康昌と密接に連絡をとっていた。松平は「昭和天皇独白録」の作成にあたった宮中の有力者である。こうした支配者たちの連携プレーがあった。
これらの動きは天皇を政治的に利用しようとしていたGHQの利害と一致し、特にGHQのG2のウィロビーらと結びついていく。
たとえば東条が東京裁判の法廷で「陛下の御意思に反」することはしていない旨の証言をしたことがある。この証言をそのまま理解すれば、太平洋戦争の開戦をはじめ東条がおこなったことはすべて天皇の意思だったことになる重大発言だった。これに気付いたキーナン首席検察官(米人)は、田中隆吉 松平康昌 木戸幸一のルートで東条を説得し、次の法廷でその発言を撤回させた。天皇を免責するために日米双方の共同の工作が行われていたのだ。
満州事変〜日中戦争〜アジア太平洋戦争の一連の侵略戦争において、陸軍が強硬派だったことはまちがいないが、総力戦は陸軍だけで行えるものではない。要所要所で重要な決断を下した天皇をはじめ天皇を支える宮中グループ、 海軍、官僚、財閥なども戦争を推進した。アメリカとの開戦については躊躇したグループも少なくとも中国に対しては、日本の利益を確保するために軍事力を行使することは当然と考えていた。しかしながら、東京裁判では、これらのグループはアメリカと一緒になって、天皇をはじめ自分たちは本当は対米戦争には反対だったが陸軍に押し切られたのだ、すべての責任は陸軍にあるという虚偽の「歴史像」を創作し、陸軍を切り捨てることによって自らの生き残りを図った。
冷戦が始まり、アメリカは非軍事化・民主化政策から反共のために日本を活用する政策に転換していく(占領政策の転換)が、その中でアメリカはそうしたグループを政治的受皿として利用しようとしていく。一九四八年一〇月に成立した第二次吉田茂内閣はまさにその表れだった。外務官僚出身、元内大臣牧野伸顕の娘婿、近衛グループの一員だった吉田がアメリカに忠実な保守政治の創始者になったのである。
東京裁判では天皇を免責し、七三一部隊に代表される毒ガス細菌戦を免罪した。また植民地支配にともなう非人道的行為(「従軍慰安婦」や強制連行など)を取り上げなかった。ニュールンベルグ裁判とは異なって、人道に対する罪は有罪の要因とはならなかった。アジアは軽視された。これは裁判をアメリカが主導し、対米戦争における陸軍を主に裁くものだったことによる。アジアの被害をいくらかは考慮せざるをえなかったが、アジアの犠牲者たちの声を抑えた上に東京裁判がおこなわれた。中国朝鮮などアジアへの加害を正面から取り上げれば、当然、陸軍だけでなく支配層全体を問題にせざるをえなかっただろう。アメリカにとって、政治的受皿を作ることとアジアの声を抑えることは表裏一体だった。
こうした中で天皇をはじめ旧支配層の多くが生き延びた。そしてその中から保守政治の担い手が生まれていった。
日本が一九五二年に独立する時、もはや天皇が裁かれる心配がなくなった時、たとえば木戸幸一のように宮中グループの中からも天皇は敗戦の責任をとって退位するべきであるという声がでてきた。しかし吉田首相の反対もあり実現しなかった。
吉田茂はその後、池田勇人、佐藤栄作と受け継がれる保守本流の出発点になる人物である。彼らの下で日本の戦後政治が作られていき、一九八〇年代のはじめまで保守本流の時代は続いた。
保守本流が、アジアへの侵略・植民地支配への反省のないまま、軍部に責任を押しつけ、冷戦の下でアメリカに忠実に協力することによってアメリカのパートナーとして認められた。だから自らの戦争責任に対する反省がないだけでなく、アメリカがおこなった都市への無差別爆撃や原爆投下という戦争犯罪を批判することもしなかった。日本政府が今なお原爆投下を国際法違反と認めないことはその表れである。
また吉田は朝鮮や東南アジアの人々を見下す意識を持っていた。日本と独立を回復するにあたって、日本に在住している者も含めて旧植民地出身者の日本国籍を一方的に剥奪した。また軍人恩給や援護の対象からこれらの人々を排除した。こうした差別の背景に吉田の認識がある。吉田は一九四九年にマッカーサーに送った手紙の中で、朝鮮人は日本の経済復興にまったく貢献していない、犯罪分子が大きな割合を占め、多くが共産主義者で最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強いなどの理由をあげ、すべての朝鮮人を半島に帰還させることを承認してほしいと具申している。また吉田は、アジアやアフリカは民度が低く未開発であり、アメリカの資金と日本の技術で東南アジアを開発し「自由主義」を植えつけていくという認識を述べている。アジアの人々を見下す意識は戦前から変わっていないのである。
一部の軍人が、天皇やその他の平和的な人々の反対を押し切って対米戦争を始めたという虚像が、アメリカと日本の支配層との合作によって作られ、それが東京裁判で描かれた歴史像となった。その虚像の上に戦後保守政治が生み出されるのである。
その後、講和条約の締結、東南アジア諸国との賠償交渉にあたっても、日本の戦争責任を厳しく問い多額の賠償を求めるフィリピンなどの要求をアメリカが抑えた。日本政府はそれに便乗して、賠償を軽くすませ、それどころか賠償を経済進出の手段として考えて利用していった。
もちろん東京裁判はニュールンベルグ裁判とともに、戦争違法化の世界史的な流れの中で「平和に対する罪」をはじめ重要な原則を生み出していった。その積極的な側面は、ジェノサイド条約(集団殺害の防止・処罰)、戦争犯罪・人道に対する罪の時効不適用条約、あるいは民間でのベトナム戦争犯罪国際法廷(ラッセル法廷)などとして展開している。また日本軍がアジア各地でおこなった残虐行為や謀略(たとえば柳条湖事件で関東軍が鉄道を爆破した謀略)が国民の前にはじめて明らかにされていった。そうした積極的な側面があることも見ておく必要がある。
三、国民の意識と戦後革新
旧支配層に対して、国民はどうだったのだろうか。日本軍の残虐行為は主に海外でおこなわれたため、一般の国民にはわからないことが多かった。そしてもっぱら空襲や物不足により被害意識を膨らませていった。そして東京裁判などで実態がわかってくると「だまされた」という意識が広まった。そして軍部に責任を押しつけ、東京裁判で彼らが裁かれたことによって、自らの責任を問うことは一部の知識人を除いてなかった。
植民地支配について言えば、日本は敗戦によって自動的に植民地を失った。たとえばインドネシアの独立戦争を抑えようとしながら敗北したオランダやインドシナ・アルジェリアに対するフランスのように、植民地を失う過程で、 本国で深刻な葛藤が起き、それが植民地支配を見つめ直す契機となったのに比べ、日本の場合、そうした機会のないまま脱植民地化がおこなわれた。そのため朝鮮人を見下す意識はそのまま葛藤もなく温存された。それは民衆だけでなく支配層も同様だった。朝鮮だけでなくアジアの民衆を見下げる意識も同様だった。
一九五〇年代全面講和・再軍備反対・安保反対をかかげて保守に対抗して革新勢力が台頭してきた。米軍基地反対運動、原水爆禁止運動、護憲運動などの平和運動が成長し、総評と左派社会党に主導された革新勢力は選挙のたびに勢力を拡大して議会の三分の一以上を確保し、改憲を阻んだ。そのことは、自衛隊の海外派兵を含めた戦争体制の構築を阻んだし、軍需産業中心の経済復興路線を挫折させた。そのことは軍事費の負担を比較的に少なくし、優秀な人材を民需産業に集中させ、高度経済成長の一つの条件を作り出した。戦後において、武器の輸出をすることなく、日本の軍隊が戦争に参加して人を殺すこともなかったというのは、戦後日本の大きな成果であろう。この間、発展途上国の武器輸入額の約九割が国連の五大国(米英仏中ロ)からであり、主な工業国が軒並み「死の商人」であることを考える時、武器を輸出しないということは日本が世界に誇るべき平和への貢献であろう。
こうした革新の平和運動は、戦争への一定の反省のうえに人々の支持を得たものだった。しかし基本的には被害者にはなりたくないという意識をベースにしたものだった。
たとえば、一九五六年日本とフィリピンの間で賠償協定が締結された。アメリカはフィリピンに圧力をかけて要求を抑えさせる一方で、日本の財界は「賠償から商売へ」とこれからの経済進出のてこにする意図を公然と触れ回っていた。その時社会党は、フィリピンとの国交正常化に反対するわけではないとしながらも「賠償の額は日本の支払い能力を越えている。今後二〇年間日本の納税者はその負担をおわなければならない」と「不満」を述べている。日本の民衆に負担が負わされるという観点であり、フィリピンに多大な被害を与えたことへの反省に欠けていた。
保守と革新は、対立する政治勢力ではあるが、その対抗と妥協を通じて日本の政治の枠組みを作っていった。特に一九六〇年に登場した池田内閣(吉田の直系)以来、革新が主張していた平和主義的な内容を保守の側も採り入れ(たとえば改憲の断念、非核三原則や武器輸出三原則など)、欧米諸国に比べて軽武装の下で経済成長を進めていった。そうした意味で保守と革新の合作(対立と妥協を含めて)が戦後政治、とりわけ保守本流政治であった。
これまで見てきたように保守革新ともに日本の戦争責任を政治の課題として取り組む認識はなかった。あっても政治的プロパガンダの性格が強く、国民や自らのあり方を主体的に問い直すことに欠けていた。冷戦の下でアジア諸国では強権的な政権が多く、反共のためにアメリカや日本の援助を得ようとして、日本の侵略の被害者個人の声は封じられていた。そうした状況の上に日本の高度成長と「繁栄」が謳歌されたのである。
四、一九六〇年代後半の社会運動
そうした状況を克服する契機になる可能性があったのが、一九六〇年代後半からの様々な社会運動だった。公害反対から革新自治体建設へと進んでいった住民運動、ベトナム反戦運動、沖縄返還運動、学生運動など新しい運動が次々とおこってきた。特にベトナム戦争では、日本の米軍基地がベトナム攻撃の兵站基地出撃基地となり、日本が加害者になっていることが明白であった。ベトナム反戦運動はそれまで「被害者意識」中心の平和運動とは異なる新しい契機を含んでいた。しかしこれらの運動の中から日本の戦争責任について正面から取り上げることはされなかった。
一九七二年日本は長年の中国敵視政策を改め中国と国交を回復する。この国交正常化の動きの中で、日本の中国に対する加害責任を正面から取り上げたのが本多勝一氏のルポ『中国への旅』だった。このとき一部から南京虐殺はなかったという乱暴な、今日ではすでに破綻した非難がなされたが、本多氏の提起は国民レベルで深められなかった。
国交回復の二年前におこなわれた毎日新聞社の世論調査では、八六%が国交正常化を是認しているが、その理由(複数回答)は、「大きな市場をのがす」四七%、「世界の大勢に遅れる」三一%などであり、「戦争のケリがつかない」はわずか一五%でしかない。中国はソ連と対抗するために日米との関係を強化しようとし、そのために日本の戦争責任の問題をあいまいにしたまま国交回復を行った。日本は、米中日対ソ連という冷戦の枠組みの修正に便乗し、戦争責任への反省なしに日中国交回復を行ったのである。
ところで六〇年代後半は欧米諸国でも学生運動など社会運動の高揚した時期である。西ドイツではその中で育った六八年世代と呼ばれる新しい世代が各分野で戦争責任問題を正面から取上げていった。そして政治の分野では、六九年にブラント社会民主党政権を生み出した。ブラントは、東方政策をかかげてソ連東欧諸国との関係改善・緊張緩和に努めた。その中でワルシャワのユダヤ人ゲットーの犠牲者の記念碑の前でひざまづいて謝罪をし大きな反響を呼んだ。戦争責任の問題に取り組むことは、冷戦を緩和させる取り組みと一体のものだったのである。
戦争責任についての日独の違いがよりはっきりする分岐点がこの時期だと指摘されている。日本でなぜそうしたことができなかったのか、分析されなければならない課題である。
五、「大国化」と戦争責任の問い直し
戦前からのアジアへの優越感がそのまま温存されただけでなく、経済大国化と七〇年代の二度の石油ショックを乗り切ったことでジャパン・アズ・ナンバーワンと言われるような状況が出てきたことが結びついて、日本の中に大国意識が育ってきた。 そうした状況に対して大きな衝撃を与えたのが一九八二年の「教科書問題」だった。文部省はそれ以前から日本がおこなった戦争を「侵略」と認めない検定をおこなってきた。この国際問題化した時にも世界史の教科書で「東南アジア侵略」が「東南アジア進出」に書き換えさせられていたケースがある。こうした検定に対して、中国や韓国、東南アジア各地から厳しい批判を受けた。日本の侵略戦争が過去のものでないこと、そして日本が戦争の中で一体何をおこなったのかという事実が予想外にわかっていないことが、深刻な反省を促した。と同時にその年の秋に登場した中曾根内閣が、改憲を打ち出し、日本列島を不沈空母にする、四海峡封鎖、シーレーン防衛など日本の領域外も含めて米ソ戦争に日本が積極的に参戦する政策を打ち出した。このことは、米軍基地を提供して間接的にアジアへの加害者になるにとどまらず、日本みずからが加害者になっていくことを意味した。こうした中でようやく人々の中から日本の戦争責任について正面から取り組もうとする動きが生まれてきた。日本の加害の事実の掘り起こしが各地で進んだ。たとえばマレー半島で日本軍が女性やこどもも含めて華僑を虐殺していったことを裏付ける日本軍の史料が発見され、マレー半島の住民虐殺が国内で知られるようになったのは一九八七年のことである。
一方、八〇年代後半になると冷戦が終わり東欧ついでソ連の社会主義国が解体していった。反共のためにという名目はもはや通用しなくなった。そして同時に韓国やフィリピンなどで民主化が進展していった。冷戦の終結と民主化の進展によって、被害者がようやく声をあげることができるようになった。たとえば韓国で「従軍慰安婦」問題に取り組んでいる人々の主張を見ると、日本政府への批判とともにこの問題を抑えていた韓国政府と社会に対する厳しい批判がなされている。民主化と戦後補償要求とは分かちがたいものなのである。冷戦の下で氷詰めしたはずの日本の戦争責任の問題が、雪解けとともに、何も解決されないままその傷痕を剥き出しにして現れてきた。それが戦後補償問題である。このことは冷戦の下で形成された戦後保守に対すると同時に戦後革新に対する根本的な問い直しとなっている。
六、戦後補償の今日的意義
八〇年代から日本の侵略の事実を究明し戦争責任に取り組んでいる人々に対して「東京裁判史観」だというような攻撃がされはじめた。この攻撃は中曾根内閣の「戦後政治の総決算」と並行してなされてきた。それは一面では戦後保守本流の政治への攻撃であった。つまり保守と革新が対抗と妥協の中で作ってきた戦後日本の平和主義(海外派兵をしない、武器輸出をしない等々)への攻撃である。東京裁判の歴史観は日米支配層の合作であることはすでに述べたが、それさえも今日邪魔になってきた。この間、叫ばれてきた政治改革もこの流れの上にあると言えるだろう。
東京裁判を相対化し、その功罪を歴史の中で把握しようとする研究は、日本の戦争責任を明確にし戦後補償を実現しようとする人々によっておこなわれてきたといって過言ではない。それは、第一次世界大戦後の戦争違法化への歴史の流れの中で東京裁判の積極的な側面を生かしながら、日本の戦争責任を明確にしたうえで、東京裁判をおこなった米英ソなどの戦争犯罪(戦中だけでなく、ベトナム戦争をはじめ戦後の多くの犯罪も含めて)を批判し、平和を実現していこうとする努力と言ってよい。
それらの努力を「東京裁判史観」と呼ぶのは、その論者が無知であるか、政治的プロパガンダに利用しているかのどちらかでしかないだろう。
戦後補償の根幹は、日本が被害者個人の人権を侵害したことを認め、国家としての加害責任を明確にし、個人補償をおこなうことである。賠償協定によって国家間で賠償が決着済だとしても、それによっては解決されていないことが認識されねばならない。そのことは国家を人権の上におくのではなく、人間の尊厳を土台にして国家を超えた人間としての連帯を創り出すことである。その連帯こそが戦争をなくし平和を実現するうえで不可欠である。戦後補償は、単に過去を精算することにとどまらず、むしろそれ以上にこれからの日本と日本人がアジアの人々とどのような人間関係を作るのか、その土台となるだろう。だからこそ五〇年前の水準ではなく、今日の、いや将来のあるべき人権の水準にふさわしい解決策でなければならない。それを担うにふさわしい政治主体(個人・政治組織を含めて)はどうあるべきか、戦後政治の積極面を継承しながらそれを超えるものをどのように作っていくことができるのか、戦後五〇年の今日、そのことが私たちの前に問われているのではないだろうか。
〔主な参考文献/刊行年順〕
大沼保昭『東京裁判から戦後責任の思想へ』有信堂、1985年
粟屋憲太郎『東京裁判論』大月書店、1989年
内海愛子・田辺寿夫編著『語られなかったアジアの戦後』梨の木舎、1991年
田中宏『在日外国人』岩波新書、1991年
吉田裕『昭和天皇の終戦史』岩波新書、1992年
粟屋憲太郎『未決の戦争責任』柏書房、1994年
粟屋憲太郎ほか『戦争責任・戦後責任 日本とドイツはどう違うか』朝日新聞社、1994年
渡辺治『政治改革と憲法改正 中曾根康弘から小沢一郎へ』青木書店、1994年
『世界』1994年2月号、<白書・日本の戦争責任>