解説 中国人元「慰安婦」の証言

『季刊戦争責任研究』第15号、1997年3月

林 博史


『季刊戦争責任研究』に日本で裁判をおこしている中国人の元慰安婦の方たち四人の証言を紹介しました。そこに付けた解説です。証言自体については、雑誌を直接ご覧ください。
中国のこのケースを慰安婦全体の中でどのように位置付けるのか、考えてみました。同時に沖縄戦における日本軍の行動とつながっていることもこのケースの特徴だと思います。  1999.4.1


 ここに紹介するのは、日本軍によって「慰安婦」にされた中国人女性四人の証言である。それぞれ一九九五年から九六年にかけて山西省太原市内で訴訟弁護団が聞き取りしたものである。四人とも九五年八月に謝罪と賠償を求めて提訴した原告(第一次)である。ただしここではスペースの関係で一部省略したことをお断りしておきたい(裁判については本誌の大森論文を参照)。

 四人とも山西省での経験だが、彼女たちの経験についてここでは二つの点を指摘しておきたい。

 第一に日本軍「慰安婦」の全体のなかでの位置についてである。この四人を含めて提訴された山西省での被害者の事例は、日本軍によって暴力的に拉致され、監禁され輪姦を繰り返されたという点に特徴がある。

 こうした特徴はフィリピンの元「慰安婦」たちのケースや本誌で紹介したビルマでの事例と共通している(フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団編『フィリピンの日本軍「慰安婦」─性的暴力の被害者たち』明石書店、一九九五年、林博史「英軍による日本軍性暴力の追及」『戦争責任研究』一四号、参照)。またマレーシアやインドネシアでも同じようなケースがいくつか紹介されている。

 中国や東南アジアなど占領地における「慰安婦」の徴集の方法については、第一に日本軍が自らあるいはブローカーを通じて女性を募集したケース、第二に地元の村幹部などに「慰安婦」集めを強要したケース、第三に日本軍が自ら拉致してきたケースなどいくつかのケースがある(詳しくは吉見義明・林博史編著『共同研究 日本軍慰安婦』大月書店、一九九五年、参照)。この四人は第三のケースにあたる。

 笠原十九司氏は、日本軍が「敵性地区」とみなした地域でこうした事例が生じていることを指摘している(「中国戦線における日本軍の性犯罪」『戦争責任研究』一三号)。

 フィリピンなど他の地域のケースもあわせて見ると、抗日勢力の強い地域、あるいは日本軍が「抗日的」であると見なした地域において、日本軍の作戦行動(粛清の名のもとでの住民虐殺を含めて)のなかで女性を拉致するような出来事が起きており、日本軍の暴力性がむき出しになっているという共通性が見られる。

議論になりうるのはこうした性的被害者を「慰安婦」としてみるのかどうかという点についてである。軍の兵站によってあるいは軍レベル以上で設置され管理されていた慰安所の場合、管理規則や利用規則が作られ「慰安婦」が登録されるなど管理売春に似た、整備された体裁を取っており、ここにいた女性が軍「慰安婦」であることは明確である。

ではここで紹介したようなケースはどうなのか。各地でわかっている事例から見ても連隊や大隊、中隊レベルの駐屯地では部隊が独自に女性を集め慰安所を開設していることが多い。この場合、上級司令部の承認を得ているかどうかわからない。地元の幹部あるいは組織に女性集めを命じたり(表向きは「依頼」であっても占領軍の威圧を背景にしていることを考えると実質的に命令と変わらない)、「討伐」や「粛清」作戦あるいは食糧などの調達に出た際に女性も調達してくるという方法はこうしたレベルに多く見られる。そして女性の監禁・輪姦が継続するとそれが慰安所・「慰安婦」の役割を果たすことになる。

こうした上級レベルと末端レベルとをあわせて総体として日本軍の「慰安婦」制度と理解することが妥当ではないだろうか。そのように理解するならば、この四人の事例は日本軍「慰安婦」の一つのタイプであると言える。

ところで笠原氏が指摘しているように、日本軍の支配が一応確立していた「治安地区」では「日本軍当局によって婦女陵辱行為は厳しく禁止され」ており、女性を軍が拉致するようなケースはほとんどなかったのではないかと見られる。

要するに抗日勢力が強いなどの理由で日本軍の支配が安定せず、「抗日分子」の粛清=住民虐殺をおこなっていた地域における「慰安婦」の徴集の方法の典型的な事例がここで紹介する四人であると言えよう。そういう意味では四人の体験は中国山西省だけの特異なものではなく、日本軍が侵略し住民からの反発を受けた、中国や東南アジアなどの各地に見られたケースであると言えるだろう。

第二に指摘しておきたいことは沖縄戦との関係である。四人の体験に関わっている部隊は独立混成第四旅団の独立歩兵第一四大隊と見られる。この独立混成第四旅団は一九四三年六月に編成替えがなされて第六二師団(石部隊)の歩兵第六三旅団となり、引き続き山西省に駐留した。さらに北支の河南(京漢)作戦に参加した後、一九四四年八月沖縄に移動し、第三二軍のもとで沖縄防衛の任務についた。旅団は首里北方の浦添、西原、宜野湾などに配備され、上陸してきた米軍と四五年四〜五月にかけて激戦を重ね大打撃を受けた。そして旅団司令部や各独立歩兵大隊本部は六月二〇日前後に沖縄本島南部で最後の斬り込みを敢行しほぼ全滅した。

この第六二師団の会報『石兵団会報』(防衛研究所図書館所蔵)には日本軍将兵による沖縄住民に対する性的非行などの記事がたくさん掲載されている。そのいくつかを紹介しよう。

「姦奪ハ軍人ノ威信ヲ失墜シ民心離反若クハ反軍思想誘発ノ有力ナル素因トナルハ過去ノ苦キ経験ノ示ス所ナリ(中略)掠奪乃至強姦ノ域ニ達セズト雖モ之ニ近似セル所為ノミニテ軍ニ対スル反感ヲ醸成スルニ至ルベシ 且一部地域ニハ貞操観念弛緩シアル所アリ 之ガ誘惑ニ乗ゼラレ不知不識ノ間、猥褻姦通略取誘拐住居侵入等ノ犯罪ヲ犯スコトナカラシムルコト」「本島ニ於テモ強姦罪多クナリアリ 厳罰ニ処スルヲ以テ一兵ニ至迄指導教育ノコト」(第四九号、一九四四年九月七日)

「空襲後那覇宿営部隊ハ各々空家ニ宿営シアルモ無断借用シ或ハ釘付セル戸ヲ引脱シ使用シアリ 又家中ノ物品ヲ勝手ニ持出シ使用シアル部隊アリ 民間ニオイテハ『占領地ニ非ズ無断立入リヲ禁ズ』等ノ立札ヲ掲ゲアリ 注意ヲ要ス」「性的非行ノ発生ニ鑑ミ各隊此種犯行ハ厳ニ取締ラレ度」(第七九号、同年一〇月二六日)

こうした非行は第六二師団によるものだけではないが、沖縄に駐留していた日本兵による強姦や略奪などが頻発し、軍上層はくりかえし警告を発せざるをえなかった様子が伺われる。もちろん沖縄では女性を拉致するなどの行為はおこなわれなかったが、沖縄での日本軍のそうした乱暴な行為の背景に中国戦線での経験があったことは否定できないだろう。

沖縄に派遣された日本軍が中国で何をしてきたのか、その一つの事例がこれらの証言に示されている。

 

   4人の証言は、『季刊戦争責任研究』第15号、1997年3月刊、をご覧ください。