沖縄戦における軍隊と民衆―防衛隊にみる沖縄戦    
            藤原彰編著『沖縄戦と天皇制』(立風書房、1987年)所収
           林 博史

 この本は、1986年に首都圏在住の研究者を中心に作った研究会「沖縄戦を考える会(東京)」のメンバーによる
論文集です。私が防衛隊について調べてみようと考えるきっかけとなったのは、嶋津与志(大城将保)さんの
『沖縄戦を考える』(ひるぎ社、1983年)でした。この本のおかげで、ひめゆりなどの学徒を中心に沖縄戦を
とらえることの限界と問題を理解することができ、防衛隊を手がかりに沖縄戦像を考え直そうとしてきました。
その中間報告がこの論文です。このHPに掲載している「集団自決の再検討」なども同じ問題意識で書いたも
のです。日本軍は約2万人の沖縄住民を防衛隊として召集しましたが、その人々は戦場で次々と脱走していき
ます。死ぬことを拒否した多くの人々の存在は、一般に理解されている沖縄戦のイメージとはかなり違うもの
があると思います。皇民化教育にからめとられていた人々とそうでなかった人々、この論文は後者の人々に焦
点をあてたものです。   1999.7.8

[構成]
一、日本軍の住民動員
二、防衛召集の実施
三、戦争下の防衛隊
四、防衛隊員の意識と行動
〈参考文献〉
                   
一、日本軍の住民動員
 沖縄戦の準備過程において、また沖縄戦の中で、日本軍は軍のために徹底して沖縄県民を利用
し動員した。軍は県民の指導にあたって「真に六十万県民の総蹶起を促し以て総力戦態勢への移
行を急速に堆進し軍官民共生共死の一体化を具現化し如何なる難局に遭遇するも毅然として必勝
道に邁進するに至らしむ」ることを方針として臨んだ(「報道宜伝防諜等二閑スル県民指導要綱」
一九四四年十一月十八日、『秘密戦二関スル書類』所収)。六〇万県民は軍と生死を共にして軍
に協力することが求められたのである。沖縄の人も物も「一木一草」にいたるまでことごとく
「戦力化」することがはかられ、実行された(牛島満軍司令官訓示、一九四四年八月三十一日、
『沖縄方面陸軍作戦』八五頁)。
 ところで一方、老人や児童などの本土や台湾への疎開もおこなわれ、約八万人が沖縄を離れた。
だがこの疎開についての考え方をみると「戦場に不要の人間が居てはいかぬ、先づ速かに老幼者
は作戦の邪魔にならぬ安全な所へ移り住」め,というものであった(長勇軍参謀長談、『沖縄新
報』一九四五年一月二十七日)。つまり戦力にならず、かえって「軍の足手纏ひ」となる老人や
児童を放り出そうとするものであり、住民の安全や保護という観点は欠如していた(同紙、一九
四五年二月十五日)。また軍参謀長は、「一般県民が飽死するから糧食を呉れろなどと言ったつ
て軍はこれに応ずる訳にはいかぬ、我々は戦争に勝つ重大任務遂行こそ使命であれ、県民の生活
を救ふがために負けることは許されるべきものでない」(同紙、一九四五年一月二十七日)と戦
争のためには住民を犠牲にしても当然であるとさえ公言していた(大田昌秀『沖縄−戦争と平和』
七七〜七九頁参照)。

 軍の戦争のために住民を動員し、住民に犠牲を泣いることを当然と考え、戦争の邪魔になる者
は「疎開」の名で放り出したのである。こうした疎開観は軍の体質的なものであり、沖縄戦の最
中において、日本兵が住民に対し「あなたがたさえいなければ、戦争は勝てたのに、どうして疎
開しなかったか」「お前たちは戦争の部魔ものだ」と住民を壕に入れようとしなかったことにも
示されている(『沖縄県史』9、一八ニ、一八六頁)。
 こうした日本軍によって沖縄住民は、正規の兵士として召集された以外にも防衝隊、学徒隊、
義勇隊、勤労奉仕隊、女子救護班など様々な形で、小学生にいたるまで動員された。そして飛行
場建設や陣地構築、物資の運搬などの苦投にかりたてられるとともに沖縄戦が始まると実際の戦
闘要員としても投入された。

 軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全
県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十
殺」という言葉を「沖縄県民の決戦合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四
五年一月二十七日)。米軍の上陸が追ってくると、米軍が上陸した時の県民の任務として「弾丸
運び、糧秣の確保、連絡、その何れも大切であるが直接戦闘の任務につき敵兵を殺すことが最も
大事である。県民の戦闘はナタでも鍬でも竹槍でも身近なもので軍隊の言葉で言ふ遊撃戦をやる
のだ、県民は地勢に通じて居り、夜間の斬込、伏兵攻撃即ちゲリラ戦を以つて向ふのである」と
戦闘に直接参加することを求めるようになった(同紙、一九四五年二月十五日)。なたや竹槍で
米軍にいどめ、というのは決して笑い事ではすまなかった。実際にそうした例があるのである。
米軍上陸地点である読谷村のチビリガマという壕で、車内にいた男や若い女性たちが、竹槍や包
丁をもって壕外にいる米軍に攻撃をしかけ、かんたんに撃退されたということがあった。彼らは
竹槍で米軍に勝てると本当に信じこまされていた(下嶋哲郎『南風の吹く日』九八〜九九頁)。
 伊江島では、警防団員や青年学校の男女生徒、そのほかの住民までもが戦車に対する挺身攻撃
の訓練をさせられ、実際の戦闘でも女性を含めて斬り込みに加わり約一五〇〇人の島民が戦死し
ている(玉木真哲「沖縄戦史研究序説」)。沖縄本島でも女性が軍服を着て、斬り込みに参加し
ていた(上原正稔訳編『沖縄戦 アメリカ軍戦時記録』三八、二三一頁)。
 
  こうしてみると「全県民が兵隊になる」ということはけっしてたんなる心構えだけではなかっ
たことがわかる。だが日本軍は沖縄県民を徹底して利用し動員しようとしていながら、その県民
を信頼していなかった。これは、「皇室に関する観念、徹底しからず」などと沖縄県民の「短所」
をあげつった沖縄連隊区司令部「沖縄県の歴史的関係及人情風俗」(一九二二年、『浦添市史』
5)や愛国心の乏しさを嘆いた沖縄連隊区司令官石井虎堆大佐「沖縄防備対策」(旧陸海軍関係
文書、R一〇五、T六七一、一九三四年)などの文書にみられるように沖縄戦のはるか前より続
いている日本軍の沖縄県民観であった(大田昌秀『総史沖縄戦一八〇〜一八一頁、藤廉彰編著
『沖縄戦・国土が戦場になったとき』四四頁)。

 このような「皇民意識の徹底せざる」沖縄県民を戦力化しようとする時、「防諜」が重要な課
題とされた(「輜重兵第二四連隊第五中隊陣中日誌」一九四四年十二月三十日の項)。沖縄に着
任した牛島満軍司令官の訓示の一つが「防諜に厳に注意すへし」であったことはそれを示してい
る。伊江島の飛行場建設にあたった第五〇飛行場大隊長田村真三郎大尉は、飛行場の起工式にあ
たって「諜者は常に身辺に在り内地に皈りたりとて寸時も油断すへからず絶えず北満に在りたる
心構に在るべし」と防諜に注意するよう訓示した(「第五〇飛行場大隊 陣中日記」一九四四年
五月七日の頃)。つまり占領地の中国人に対したと同じ心構えで沖縄県民に対せよ、いうのであ
る。これは、軍司令部が「爾今軍人軍属を問はず標準語以外の使用を禁す 沖縄語を以て談話し
ある者は間諜として処分す」と指示したことと同様、沖縄県民を敵国人なみに扱っていたことの
あらわれであった。              一
 このように日本軍は沖縄県民を差別し、あたかも敵国人であるかのように扱い、防諜に警戒し
ながら、動員したのである。沖縄戦の中で、日本兵が住民を「スパイ」視して殺害したり、住民
が投降することを許さず自決を促したりしたことは、その帰結ともいえよう。

 さてこうした日本軍による住民動員の中できわめて大きな位置を占めるのが、防衛隊である。
一般に沖縄戦というとすぐに“ひめゆり”女子学徒隊が連想され、“ひめゆり”が沖縄戦を象徴
している上うに受けとめられている。だが“ひめゆり”をはじめとする女子学徒隊の悲劇は、あ
まりに作られた「伝説」化されてしまっていることも事実である。

 女子学徒隊や鉄血勤皇隊とよばれた男子学徒隊の場合は、中学校や師範学校に進学できた少数
のトップグループとして、徹底した皇民化教育をうけ、日本の侵略戦争を「聖戦」と信じこまさ
れ、天皇と祖国のために命を捧げることに何の疑問も抱かないように育てられ、そして沖縄戦の
中で命を失っていった。そのことが、十代の若い乙女や青年たちがけなげにも祖国のために献身
し命を失った「殉国美談」として語られ、それが沖縄戦の本質であるかのように宣伝され、利用
されているのである。
  学徒隊は、近代以来の沖縄に対する皇民化政策などによって真実を見る日をくもらされ、沖縄
を犠牲にして天皇のために命を捨てさせられた、いわば沖縄の悲劇を代表するものであって、沖
縄戦を考える際に欠かせない重要な要素であるが、それは、沖縄県民の沖縄戦へのかかわり方を
代表するものではけっしてない。

 男子学徒隊は、参加一七八〇人中八九〇人が戦死、女子学徒隊は五八一人中三三四人が戦死し
ており(大田正秀『鉄血勤皇隊』)、参加者の約半数が命を失っていることは軽視できない重み
をもっている。だが防衛隊の場合は,二万数千人が防衛召集により集められ、約一万三〇〇〇人
が戦死したとされている。参加者数も戦死者数も学徒隊とはケタがちがう多さである。にもかか
わらず防衛隊は、ほとんどとりあげられることもなく、記念碑も慰霊塔もなく、本土ではほとん
どの人が知らない状況にある。それは,防衛隊の有り様が学徒隊とはおよそ異なるものであり、
沖縄戦を「殉国美談」の物語として美化しようとする人々には、都合の悪いものとして切り捨て
られてきたからである(大城将保『沖縄戦』二〇二〜二〇四頁)。
 ここで防衛隊について取り上げようとするのは、そのことにより、沖縄の人々からはいくつか
言及されてはいるが、これまで十分には扱われてこなかった沖縄戦の重要な側面を明らかにし、
さらには民衆にとって日本軍が何であったのかを考えてみたいと思うからである。
二、防衛召集の実施
 一九四二(昭和十七)年九月二十六日陸軍省令第五三号として制定された陸軍防衛召集規則は、
「防衛召集とは戦時又は事変に際し防衛上必要ある場合に於て在郷軍人(待命、予備役の将校及
准士官、予備役の下士官兵、帰休兵、補充兵を謂ふ以下同じ)及国民兵役の下士官兵(徴兵終決
処分を経ざる者を除く以下同じ)を召集するを謂ふ」(第二条)と定めている(『官報』)。こ
の防薇召集制度は、一九四二年四月に米軍機が東京など日本本土を初めて空襲したことから、「空
装および小部隊による攪乱を目的とした敵の上陸にそなえるため」に設けられたものである(大
江志乃夫『徴兵制』一六二頁)。この防衛召集によって召集された隊員は、通称として、防衛隊
・防衛隊員と呼ばれた。

 陸軍防衛召集規則は、一九四四(昭和十九)年十月に改正され、性格がかなり変化している。
沖縄における防衛召集は、大きくいって三つの時期・内容にわけられる。
 第一の時期は、改正前の旧規則によるものである。一九四三年六月、正規軍が配置されていな
い地域の防衛の強化と空襲による都市の混乱の防止・警備のため、本土全域、朝鮮、台湾に防衛
召集による特設警備大(中)隊の編成が命ぜられた。これにより沖縄では、同年八月に宮古島に
特設警備中隊二個、翌四四年一月に石垣島に同中隊二個が編成された。沖縄の第三二軍下には、
特設警備中隊は二個配属されており(宮古,石垣以外に本島三、徳之島三、大東島一)、四四年
三月に第三二軍が発足した時点で、これらはすでに縮入されていた。これらはいずれも四三年後
半から四四年にかけて編成されたものと思われる。                 −
 石垣島の場合でみると一個中隊は二一六人で構成され、これには主に予備役の若い人たちが召
集されて警備にあたった(石垣正二『みのかさ部隊戦記』ニ○頁)。
 発足した当初の第三二軍には、地上野戦部隊はまだ配属されておらず、防衛召集による特設警
備中隊が中心になって、さしあたり沖縄の警備備にあたったのである。ここでの召集者数は、中
隊の規模から考えて千数百人程度と推定される。                   

 ところで、この頃、同じく防衛隊と呼ばれているのではあるが、防衛召集とは関係のないもの
があった。それが在郷軍人会防衛隊である。              
 在郷軍人会令(一九三六年九月二十四日制定)の第六条に「陸軍大臣及海軍大臣は帝国在郷軍
人会に対し徴募、召集、徴発、防衛に関し協力を求めることを得」という規則があり、これに基
づき、軍中央は帝国在郷軍人会に対し、防衛隊の編成を要請した。全国的には一九四四年九月に
各地で在郷軍人会防衛隊が誕生したが、沖縄では一足早く、七月十日頃に発足した。一個あたり
百数十〜三〇〇人程度の防衛中隊が、中頭地区だけで少なくとも九個は編成され、装備訓練で各
地区の軍の指導援助をぅけ、作戦にあたっては軍の指揮下に入ることとなった。在郷軍人会防衛
隊は、陣地の構築などの土木作業や戦闘訓練をおこなった(玉木前掲論文、および『本土決戦準
備』(2)、一〇二、一五八頁)。

 本土では在郷軍人会防衛隊は、後に国民義勇隊が発足するにあたって、その中に解消吸収され
ていったが、沖縄ではこの防衛隊のその後の動向ははっきりしない。ただこれから述べるように
防衛召集が、在郷軍人会防衛隊を構成している成年男子を根こそぎ召集したことを考えると在郷
軍人会防衛隊は、防衛召集による防衛隊にとってかわられていったのではないかと推定される。

 さて、陸軍防衛召集規則は、兵役法などの改正をふまえ、一九四四年十月十九日に改正された。
主な改正点は、「船舶国籍証書を有する船舶の船員及年齢十七年末満にして志願に依り第二国民
兵役に編入せられたる者を除」いて、「徴兵終決処分を経ざる者」をも防衛召集することができ
るようにした点である。これにより徴兵適齢前の十七、十八歳から四十五歳までの男子を根こそ
ぎ防衛召集することが可能になった。                       
 この新しい規則により同年十月から十二月にかけておこなわれた防衛召集が第二の時期にあた
る(ただ新規則の施行は十一月一日からであり、十月中の分が新旧いずれの規則によるものか、
不明である)。ここで召集された者は、ほとんどが特設警備工兵隊(本島三、宮古・石垣・徳之
島各一、計六)と秘密戦の部隊である第三・第四遊撃隊に配属されている。

 この時に防衛召集がなされた理由は、航空作戦に重点をおく大本営が、飛行場建設を急ぐよう
第三二軍に命じたため、九月以降、軍は戦闘部隊をも投入して本格的に飛行場建設に取り組むこ
とになったことにある。この頃までには、沖縄に配備されるべき主な陸軍部隊は到着しており、
地上兵力は充実したのに比べ、飛行場建設がなおざりにされていたため、大本営が直接指導に乗
りだしたのである。
 防衛召集者は、特設警備工兵隊(一隊あたり八〇〇〜九〇〇人程度)に配属され、北飛行場(
読谷)、中飛行場(嘉手納)、伊江島、石垣島、宮古島などに配備され、飛行場建設に投入され
た。

 石垣島の陸軍白保飛行場の建設にあたった第五〇六特設警備工兵隊では、一九四四年九月に隊
が発足し十一月から防衛召集者が入隊したが、軍服は支給されず、衣類、帽子、靴や日用品はす
べて自前であった。靴のない者はわらじや、あしなか草履でまにあわせた。もちろん銃は与えら
れず、四五年六月に甲号戦備令(戦闘配備につく準備)が出されてようやく小隊に五丁六丁の小
銃が配られた。外套も支給されないので雨の日には「みのかさ」をつけて作業をしたところから
「みのかさ部隊」と呼ばれた。「みのかさ部隊」は連日、飛行場建設にあけくれ、飛行場が完成
し沖縄戦が始まってからは、空襲で穴だらけにされた滑走路の穴うめ作業に追われた(石垣前掲
書)。

 一方、遊撃隊についてみると、遊撃隊の編成の基準では,遊撃隊一個あたり約四〇〇人、うち
防衛召集による者は約三五〇人となっている。遊撃隊の防衛召集は、翌年にかけて幾度かおこな
われた(第三遊撃隊では三次まで)。沖縄戦開始時点での第三・第四遊撃隊の総員は約九〇〇人
といわれており、防衛召集者は七〇〇〜八〇〇人程度かと推定される。遊撃隊は、大隊長、中隊
長らは陸軍中野学絞出身の将校がつき、小隊長,分隊長は青年学校の指導員などをしている在郷
軍人を臨時召集で集め、一般の隊員を防衛召集で集める構成をとっており、防衛召集者は十七、
十八歳の青年だけを取った。また県立第三中学校の鉄血勤皇隊の一部紛約一五〇人も第三遊撃隊
に加わった(『護郷隊』一一〜一八頁,前掲『沖縄方面陸軍作戦』一一四〜一一五、三四七頁)。
 なお特設警備工兵隊でも、大隊本部員などの幹部は、在郷軍人の将校・下士官を臨時召集で集
め、その他の隊員は防衛召集で集めるといぅ形がとられており、この点については遊撃隊とも共
通している。

 第三の時期は、一九四五年二月〜三月の時期である。
 一九四四年十一月に第三二軍の精鋭師団である第九師団が台湾に転用されることになり、四五
年一月上旬までに台湾への輸送が完成した。これは第三二軍の作戦計画を根本からゆるがすこと
になった。さらに四五年一月二十二日には、第九師団の穴うめとして第八四師団の沖縄派遣が大
本営から内報されたものの、同日のうちに派遣中止となり、もはやこれ以後、造園を期待できな
くなった。
 そこで軍は、戦力増強策として、航空、船舶、兵站部隊や海上挺身基地大隊などを地上戦闘に
転用できるよう編成がえをするとともに、大規模な防衛召集をおこなった。この戦力増強策とし
ておこなわれた防衛召集が第三の時期にあたる。

 二月中旬から三月上旬に集中して、本島の全市町村にわたって防衛召集がおこなわれ、琉球政
府社会局援護課調査係がまとめた「防衛召集概況一覧表」(防衛庁所蔵)によれば、三月六日付
の召集者だけで一万四〇〇〇人前後にのぼっている。この資料によると本島と渡嘉敷島・座間味
島の四四年十月以降の防衛召集者は合計で二万二二二二人であることからみて、防衛召集の圧倒
的多くがこの時期に集中していることがわかる(ただこの資料の数値の信憑性には疑問があり、
その点については、大城将保「沖縄戦における防衛召集について」参照)。
 第三二軍残務整理課が戦後まとめた「第三二軍史実資料(一)」(一九四七年、防衛所蔵)によ
ると、この時期に海上挺身戦隊の作業要因として約三〇〇〇人、兵站地区隊の作業要員として約
二〇〇〇人、一般戦列部隊の戦力や各後方部隊の作業カを増強するため約一万五〇〇〇人、計約
二万人を防衛召集したとされている。
 このようにこの時の防衛召集者は、特設警備中隊や特設警備工兵隊に限られず、各部隊に広く
配属されている。

 一九四三年の夏以来、三つの時期にわたる防衛召集により、二万数千人にのばる沖縄の男子が
召集された。防衛召集者数は、約二万二〇〇〇人とも約二万五〇〇〇人ともいわれているが、断
定できる資料は残念ながらない。ただ二万二〇〇〇人という数字は、宮古・八重山や旧規則によ
るもの、海軍のものなどを含めて考えると少ないのではないかと思われる(海軍も陸軍とは別に
かなりの「防衛召集」をおこなっており、その実例は、福地曠昭『防衛隊』にいくつか紹介され
ている。しかしその数はわからないし、そもそも海軍のものを防衛召集といってよいのかどうか、
どのような法令に基づく召集なのか、不明な点が多い。ただ実態としては、陸軍の防衛隊と共通
しているようである)。                         

 防衛召集の対象は、十七歳から四十五歳までの男子であるが、実際には軍から要求された人数
をそろえるために十三歳ぐらいから六十歳ぐらいまで召集され、病人も例外ではなかった。肩の
骨を折っていながら召集され、竹槍訓練もやらされた例すらあった(同書、九〇頁)。すでに十
九歳以上の青年は現役兵として召集されていたので、十八歳以下の青年と三十代・四十代の家族
もちばかりであった。その職業も議員、教師、公務員、新聞記者、酒屋や食堂などの店主や店員、
大工、農民、漁夫など様々な職業が集まっており、銃を持ったことがないだけでなく、軍事訓練
を受けたことがない者も多かった。
 そもそも「防衛召集」という言葉を聞いたことがない者も多かった。しかも召集令状は通常使
われる赤紙でなく、青であったため兵隊にとられたという自覚もなく、そのうち家へ帰れるだろ
うと考えている者もあった。彼らは召集後、正式に陸軍二等兵に任命されて、ようやく兵隊にと
られたと自覚した(池宮城秀意『沖縄に生きて』一八〜二〇頁)。

 防衛隊員の装備についてみると、先にみた石垣島の特設警備工兵隊の例と同じように宮古島で
も銃や軍服が与えられなかった。沖縄本島では、四五年二月末に召集され、那覇の兵站本部に配
属された隊員は、略衣、戦闘帽、軍靴などは支給され、三月未には全員に銃剣が渡されたが、小
銃は四月になってからようやく三人に一丁が支給されただけであった(同書、三四、四八頁)。
伊江島では手榴弾と竹槍は全員に支給され、小銃は三人〜一五人に一丁程度が支給されただけで
あった(福地前掲書、一八,五七、六八頁)。海軍では、小銃はまったく支給されなかったよう
である(同書、九九、一四八頁)。ただ米軍上陸正面の地域に配備された隊員、たとえば独立歩
兵第一二大隊では,全員に弾と小銃が支給ぜれている(同書、六八、一九〇頁)。
 防衛隊員たちは、主に戦闘部隊を支援する作業員として期待されていたことが、装備にもあら
われているとはいえようが,軍隊としての体をなしていない、「群隊」ともいえる集団であった
(池宮城前掲書、一八頁)。

 一つ追け加えておくと、沖縄戦が始まった四月以降も各部隊は正式な手続きをふまず召集令状
もなく、口頭の命令で避難民の中から使えそぅな者を勝手に召集しており、男子の場合、これら
防衛隊と呼ばれている場合がある。
 こうして、疎開の対象にされていた小学生以下の子供たちや六十歳以上の老人は除いて、沖縄
の中で役立ちそうな男子はことごとく防衛隊に召集されたのである。その防衛隊が実際にどのよ
うに使われたのかを次に見てみよう。
三、戦争下の防衛隊             
 防衛隊に与えられた任務の多くは、戦闘部隊の支援、あるいは作業要員としてのものであった。
 沖縄戦に入るまでは、まさに苦力部隊であった。石垣島の「みのかさ部隊」に典型的にみられ
るように武器は与えられず、連日、土木作業に従事した。中でも飛行場建役は最も重要視された。
沖縄本島に陸軍北・中・南・東飛行場、海軍が小禄飛行場、伊江島に陸軍東・中飛行場、石垣島
に海軍平得飛行場、陸軍白保飛行場、宮古島に陸軍中・西飛行場、海軍飛行場、徳之島、南大東
島の各飛行場など狭い南西諸島に多くの飛行場が建設された。これらには一般住民が労務者とし
て動員されるとともに防衛隊も飛行場建設にあたった。
 飛行場建設を専門とする飛行場設定隊でもスコップ、シャベル、ハソマ−、もっこなどの道具
しかなかったのに、防衛隊などには、それすらもない場合があり、人海戦術で作業にあたった。
 飛行場ができあがると今度は,空襲によって穴をあけられた滑走路の穴ぅめ作業があり、夜間、
あるいは昼間に空襲の合い間をぬっての穴うめ作業をおこなったが、空襲にあって命を失った者
も多かった。こうして多くの労力で作られた飛行場は日本軍によってはほとんど使もれることな
く、伊江島の飛行場や本島の北・中飛行場のように米軍上陸前に自らの手で破壊したものもある
ほどで、無意味な努力に終わった。
 飛行場建設以外にも陣地の構築(壕掘り)や兵舎、慰安所などの建設、木材の伐採・製材、各
種物資の運搬などにもあたった。軍事訓練もおこなわれたが、竹槍訓練や爆雷を抱いての対戦車
攻撃の訓練などであった。

 沖縄戦が始まると、防衛隊の活動範囲は一挙に広がった。前線への弾薬や物資の運搬、食塩の
徴発、炊事と食糧の前線への運搬,水汲み、負傷兵の後送や死体の処理、さらには地雷埋めや砲
弾つめ、伝令など様々な仕事が与えられた。地元出身の防衛隊員は地の利に明るいということで
日本軍の夜間の斬り込みの案内役にもさせられた。
 海軍に配属された防衛隊では、壕から海岸ヘレールを敷いて、夜になるとそこから特珠潜航艇
を海に引っ張りだして出撃させ、艇が帰ってくると急いで壕に上げる、という仕事を与えられた。
 戦闘要員でなくてもこれらの任務はきわめて危険なもので、しばしば米軍の砲爆撃の犠牲にな
つた。たとえば、炊事や水汲み、食塩の運搬といっても砲火の中でおこなわなければならず、壕
内に隠れている日本兵のために自らの身を危険にさらす作業であった。
 さらに防衛隊員は、戦闘要員としてもかりだされた。すでに戦闘が始まる前から「敵が上陸す
れば地の利に明るい防衛隊が前線に立つべきだ」(福地前掲書、三一九頁)といわれていた者も
いた。

 日本軍が主抵抗陣地を築いた浦添地域では、浦添出身の防衛隊員や女子義勇隊員にまで「同じ
重さくらいの石を急造爆雷に見立てて、戦車下に投げ込み、自分は穴にころげ込んで助かるとい
った訓練」がおこなわれていた(前掲『浦添市史』5、七八頁)。 浦添の北隣の宜野湾では、竹
で戦車の模型をつくり、一尺四方ぐらいの箱を背中に背負って、その戦車に突っこみ、ひっくり
返すという体当り攻撃の訓練をおこなっていた(前掲『沖縄県史』9、六八四頁)。
 そして実戦においても夜間の斬り込み、対戦車肉攻を命ぜられたのである。こうしたことが防
衛隊に限られないことは、第一節でも見たとおりである。

 さらに防衛隊の役割を見る場合、軍の主力部隊温存のための捨て石にされたということを指摘
しなければならない。
 第三二軍は、伊江島の飛行場と本島の北(読谷)・中(嘉手納)飛行場を戦略的に放棄し、軍
の主力は、首理北方五キロより南に配備させていた。北・中飛行場正面の渡具知海岸は、米軍の
上陸が有力視される地点であったが、この地域の防衛を初めから放棄していた。この戦略的に放
棄していた地域に配備されたのが、急造の特設第一連隊と賀谷支隊であった。軍は「これらの部
隊に大きな抵抗は望んでおらず,警戒と前進遅滞を期待した程度で、北、中飛行場付近の戦闘に
増援はもとより砲兵による支援も計画していなかった」(前掲『沖縄方面陸軍作戦』二六九頁)。
上陸した米軍は「烏合の衆に等しい特設第一連隊を一蹴」(八原博通『沖縄決戦』二四九頁)す
るだろうと想定されていた。
 特設第一連隊と賀谷支隊の編成は次のようになっていた(伊江島を除く。前掲『沖縄方面陸軍
作戦』二六九、ニ七七頁)。

 特設第一連隊
  連隊本部(第一九航空地区司令部) 約四五名
  第四四飛行場大隊        約三九〇名
  第五六飛行場大隊        約三七〇名
  第五〇三特設警備工兵隊     約八〇〇名
  第五〇四特設警備工兵隊     約八〇〇名
  要塞建築勤務第六中隊      約三〇〇名
  誠第一整備隊          (?)
  学生隊(県立農林学校生徒)    一七〇名
 賀谷支隊
  独立歩兵第一二大隊    (定数一二三三名)
  特設警備第二二四中隊       (?)
  海軍第一一砲台         約三〇名

 これらの部隊の配置を見ると、特設第一連隊の各部隊は、北飛行場の後方、賀谷支隊では、特
設警備第二二四中隊が中飛行場正面、海軍第一一砲台は中飛行場南側の海岸付近であり、独立歩
兵第一二大隊は、中飛行場南東六キロの喜捨場に大隊本部をおき、主に北谷周辺に配備されてい
た。これらの部隊の中で唯一、本来の地上戦闘部隊である第一二大隊は、最も南に位置し、米軍
に抵抗しながら南の第六二師団の主陣地に後退することとなっていたが、それ以外の部隊は、最
前線にとり残される形で配備されていた。
 特設警備工兵隊と特設警備中隊は、幹部を除いてほとんどが防衛召集者によって構成される部
隊であることからみて、特設第一連隊の隊員の過半数が、あるいは第一二大隊を除いて最前線に
残された部隊の隊員の過半数が防衛隊員であったといって間違いはなかろう。

(注)前掲「防衛召集概況一覧表」から計算すると、各部隊の防衛召集者数は、第四四飛行場大
 隊三○人、第五〇三特設警備工兵隊一一一〇人、第五〇四特設警備工兵隊六八〇人、独立歩兵
 第一二大隊四六〇人、特設警備第二二四中隊一〇〇人、計二三八〇人にのぽっている。この数
 値をこのまま使うことはできない、第一二大隊を含めても全体の半数かそれ以上が防衛隊員で
 あったということも可能かもしれない。

 また防衛隊ということだけでなく、飛行場大隊も要塞建案勤務中隊も本来の戦闘部隊ではない
ことから見て、もはや用のなくなった、また戦闘能力のない部隊ばかりを最前線に配備したといっ
てよかろう。
 米軍上陸直前の三月二十三日以降編成された急造の特設第一連隊は、装備については「各部隊
は更に軍より一部の兵器、弾薬等を交付すへきも其の数量僅少なるへきに鑑み各部隊は所在の資
材を活用しその装備の強化を計るものとす」とほとんど装備の補強をうけることができず、教育
訓練においては、装備の不十分さを補うために「其の実情に鑑み特に精神教育を重視し決死敢闘
楠公精神の堅持昂揚に勉め術科教育に於いては特に左記諸件に重点を置くを要す」として「一、
対戦車肉政 二、夜間挺身の斬込 三、急速なる蛸壺陣地の構築(予め堅固なる築城を実施し得
さる部隊)」の三点が指示された。装備の不十分さを特攻精神で補えとされたのである(「第十
九航空地区司令部命令」前掲『沖縄方面陸軍作戦』二七〇〜二七二頁)。
 四月一日に米軍が上陸してくると、圧倒的に優勢な米軍の前に、夜になると斬り込み隊が組織
され投入されたが、はとんど成果なく、四月二〜三日には特設第一連隊の主力は撃破され、残り
は遊撃戦に移るとの名目で敗残兵同様に国頭地区へ後退していった。一方第一二大隊は、四月五
日には第六二師団の主陣地に後退した。
 このようにこれらの部隊は、当初より軍からはまったく期待されず、支援をうけることもなく、
そして米軍の前に短期間で撃破され,ほとんど意味のない犠牲となった。飛行場大隊や防衛召集
者がほとんどの特設警備工兵隊などの非戦闘部隊が、軍主力温存のための捨て石にされたのであ
る。

 これらの部隊が米軍上陸正面に配備された経緯をみると、第九師団の台湾転用にともない、第
三二軍は北・中飛行場を主陣地外におき、この地区にあった第四四旅団を知念半島に移動させた。
それに対し、軍中央や台湾の第一〇方面軍などからは、両飛行場の確保制扼を強く主張してきた
ため、第三二軍は、それへの対応から,第三二軍の作戦計画に支障がない範囲で、特設第一連隊
と賀谷支隊を配備したのである。しかも賀谷支隊主力の第一二大隊は、いくらかの抵抗をこころ
みた後で主陣地に引きあげるということになっており、結局、ほとんど戦闘能力として期待でき
ない部隊を捨て石にして軍中央との関係をとりつくろったのである。防衛隊の部隊である特設警
備工兵隊などは、ちょうど手頃な捨て石であったのである。
 捨て石にされたこれらの部隊の内部でも「米軍上陸前だというのに、防衛隊は松の下に泥かぷ
りの寝泊りをさせておいて兵隊だけは壕の中に住んでいた」(福地前掲書、六九頁)という防衛
隊一員に対する差別があったことも見のがせない。
 このように防衛隊は、作業要員あるいは戦闘部隊の支援要員として使われる一方、斬り込みな
どの実戦にも投入され、さらには軍主力温存のための捨て石にもされたのである。

 (注) このように現地召集の、実戦にたえない部隊が儀牲にされたのは沖縄だけではなかっ
   た。たとえばフィリビソのマニラ防衛軍がそうである。
   ルソン島の日本軍がマニラを放棄したあとに残されたのは、現地召集された在留邦人(商
  社員が多い)からなる約一五〇〇人の部隊であった。このマニラ防衛軍は、圧倒的な米軍に
  よってたちまち撃破されてしまったが、そのことについて、当時マニラにいた従軍紀者は次
  のように述べている。「いったいなぜ、在留邦人部隊は全滅しなければならなかったのか。
  いったいなぜ、マニラの防衛という重大任務が、銃の射ちかたさえろくに知らない在留邦人
  部隊にあたえられたのだろうか。……そして本職の部隊は、山の拠点に逃げこんでしまった。
  いったいなぜだ。
   在留邦人部隊は、ルソソ島に上陸した米軍をマニラにひきよせるための餌にさせられたの
  ではないか。方面軍の作戦としては米軍の進撃を前に、できるだ味方の兵力を温存しながら、
  態勢をととのえるための時をかせぐ必要があった。……それどころか、米軍を一日でも長く
  マニラ攻撃に拘束しなけれぱならなかった。そのためには、在留邦人はもっでこいの存在だ
  ったのではないか。......こうして在留邦人部隊は、おとりとなり、餌となり、盾となった。
  本職の部隊は、かれらを盾に、安全な場所で生きのぴていたのである。」(小林勇「マニラ
  最後の日」二〇一 ― 二〇二頁)
   正規兵ではない一般の日本人を盾にして自己保全をはかろうとする日本軍の体質はフィリ
  ピンでも沖縄でも共通にみられるのである。
四、防衛隊員の意識と行動
 防衛隊員の中には、爆雷を抱いて、あるいは手榴弾をもって米軍戦車に挺身攻撃したり、夜間
の斬り込みに加わり戦死した者も多い。もちろん、弾薬・食塩などの運搬や水汲み、伝令などの
際に砲爆撃の犠牲になった者も数知れない。日本軍の一員として戦闘に参加し、天皇と祖国のた
めに命を捨てることに疑問を抱かないようにされていた防衛隊員もいたが、一方で、そうとはい
えない者も多かった。ここでは、防衛隊員の意識と行動の特徽を、特に学徒隊とはちがった特徴
をとりあげてみたい。

 防衛隊員で生き残った人たちの証言記録を見て日をひくのは、いわゆる戦線離脱(軍からの脱
走)がきわめて多く、また上官の命令の拒否や本土出身の正規兵への反抗などもみられることで
ある。また自らすすんで米軍に投降することもあった。
 もちろん上官の斬り込み命令を拒否し戦線を離脱したから生き残ることができ、後に証言をす
ることができた、という資料上の理由もあろうが、学徒隊の生存者の場合にはこうした事例がほ
とんど見られないことをみても、学徒隊とはちがう防衛隊の特徴といってよい。

 まず戦線離脱の例を見てみよう。
@「どうせ勝つ見込みはないから、自分の墓に行った方がよい、とかまだ戦争を行っていない島
尻へ逃げた方がよいという意見もあって、結局分散して逃げることにし」、二〇人くらいが四〜
五人ずつのグループにわかれて逃走した。その中の一人は逃走した理由として、「(部隊長が)
日頃、沖縄人蔑視、差別の言動が目立ち、防衛隊員には、こういうひととは一緒に死ぬわけには
いかない」という感情があったことと「防衛隊員は妻帯者が多く、家族のことが気になって、家
族の下へ走った」ことをあげている(於浦添。『浦添市史』5、七〇〜七一頁)。

A 米軍が陣地に火炎放射機で攻撃するまで追ってきたので、四人で相談して死体の処理とか便
つぼの処理という理由で壕を出て逃走した(於滞添。同書、八四頁)。

B 元商業学校教師と元貴族院議員の二人は、「君たちは、この隊では目立つ存在である。ひと
つ天皇陛下のために、敵の戦車を、身を挺して粉砕してもらいたい。ひいては沖縄住民の戦意の
昂場に大いに役立つ」と言われ、弾を抱いて戦車に体当りすることを命ぜられた。そこで「われ
われは考えた。つまり『肉弾三勇士』になれ、ということである。そんな馬鹿なおとがやれる
か、軍隊教育もろくに受けていないわれわれに対して、何と無茶なことをいう。ちゃんと教育
を受けた兵隊が大勢いるというのに、何でわれわれが・・・・・、よしこうなったら逃亡する以外に
はない、とわれわれは決めた」。そして、もう一人加わって、三人で夜になってから水をくみ
といつわって逃走した。(於首里。『那覇市史』3巻7、三七二頁)。

C斬り込みに行く途中で「家族の近くまでせっかく来てここで死ぬことはない」と思いなおし
、「山道で『便所に行ってくる』といって銃を隊員にあずけ、そのまま雲がくれした」(於国頭。
福地前掲書、一四三頁)。

D「防衛隊は武器を持っていないので、米軍と戦うことはできない。・・・・・・だからいざとなれ
ば逃げるしかない」と考えており、米軍が名護に上陸したという情報をきくと、四〜五人で日
暮れとともに逃走した(於国頭。同書、一四八頁)。

E金武に米軍が上陸するのが見えたので、夜中に仲間と逃走した(於国頭。同書、一五八頁)。

F部隊が夜間の斬り込みをくりかえしているうちに中隊はバラバラになり、「日本はたしかに
負けるんだと考え」妻子のところへ逃走した(於西原。前掲『沖縄県史』9、648頁)。

G南部の具志頭で「日本軍の兵隊は壕から一歩も出ず、防衛隊員のみが水汲み、食糧捜し等に
こき使われた。・・・・・・そのため三〇人余の防衛隊員がわずか八人に減っていた。」「このまま彼ら
(日本軍)についていくと生きるすべがないと思われたので、六月十八日頃、防衛隊員四、五人
が一緒になり、水汲みを理由に逃亡した」(『宜野湾市史』3、二二八〜一三九頁)。
 さらに一般の隊員だけでなく、防衛隊の小隊長や分隊長、班長クラスの幹部も自ら戦線離脱を
おこなったり、部下が逃げるのを認めたりしている。

H 防衛隊の分隊長が、斬り込み隊について爆雷を運搬し、やっとのことで姿に帰ってきたとこ
ろ、部隊長らが「別れの盃」をしており「これはもうみんな死ぬつもりだ」と思い、仲間五人と
一緒にさとうきぴを取ってくるからと言って、逃走した(於浦添。前掲『沖縄県史』9、三九八
〜三九九頁)。

I馬車持ちばかりが馬車ごと召集され、物資の運搬にあたった防衛隊行李班(二〇人)の班長は、
食塩の運搬の途中に部下から戦死者が出たため、これ以上続けると全滅してしまうと考えた。そ
こで部下に「私が本部には、良いように報告するから、皆次々死んでいくのだから、あんたがた
はもう逃げなさい、さがりなさい。妻子が島尻に行っているんだったら、探して一緒になりなさ
い」と言って部下を南部に逃がした。その後その班長は本部壕へさがり、そこがあぶなくなると、
五〇人ほどいた防衛隊員に逃げることをすすめ、食糧を取りにいくといって次々と本部から逃走
した(途中で兵隊に逃亡と疑われ、全員は脱出できなかったようであるが)。そして最後には南
部で住民とともに米軍に投降した(於浦添。前掲『浦添市史』5、五三、六一〜六二、一九〇〜
一九三頁)。

J金武の海軍部隊に配属された防衛隊で、防衛隊には武器は与えられないのに部隊からは戦術に
加わるように命ぜられた。そこで防衛隊は小銃を支給するよう部隊に求めたが、武器はないとい
って支給されなかった。すると小隊長代理は「リカ、シマンカイ(さあ、村へ帰ろう)」と言っ
て部下に「さあ早く毛布をかつげ」と指示して、部隊を離れた(福地前掲書、九九頁)。

K馬車ごと召集された輸送班の部隊長が部隊に食糧の支給を求めたが拒否され、班長は「メシさ
えくれないぐらいなら分かれたはうがよい」といって部隊から離れた(於浦添。同書、二九四頁)。
 一つつけ加えておくと,防衛召集そのものを拒否して逃亡した例もある

L那覇で大工をしていた母一人子一人の二十八歳の青年は、召集地へ行く途中、「歩いているう
ちに、母のことや自分のことが頭にうかび、“このまま兵隊にとられたら生命はない。死ぬだけ
だ。よし、これから逃げよう”」と考え、同行の二人の反対を押しきって、郷里の母のもとへ逃
走した(同書、一五一〜一五二頁)。

 これらの事例をみるとわかるように、斬り込みのように命を捨てることを要求されるとそれを
拒否して逃げたり、米軍が近づいてきたり上陸したということだけで部隊から逃走している。こ
れらは一般の防衛隊員だけでなく、防衛隊の幹部(下士官としての従軍経験者が多い)にもみら
れる事態であった。
 上官の命令を拒否した事例も多く、BCJもその例にあたるといえようが、それ以外にも、い
ざという時は手榴弾をやるから兵隊と共に最後までたたかえといわれたのに拒否した例(同書、
二八頁)、爆雷を抱いての斬り込みは防衛隊の仕事ではないと拒否した例(Hの分隊長)などが
あげられる。

 また本土出身の正規兵に暴行した例もある。
 Iの防衛隊班長(現役時代は軍曹)がかかわった事件であるが、本部壕で防衛隊員が食事の運
搬役をしていた時のことである。「炊事班長(上等兵)が、『おにぎりが不足している! 防衛
隊員は乞食だ、盗っ人だ!』と私たち防衛隊員がいる所にやってきて、声を荒げて防衛隊員が食
ったというようなことをわめき散らしたんです。私はこれまで、腹のたつことばっかり起きてい
たので、もうがまんできず、『きさま何を言うか!』とこの班長の顔をぷん殴ったんです。する
と、残りの防衛隊員が、いっせいにローソクを消して、真っ暗にして、『クルセー、クルセー(
やっつけろの意)!』して飛びかかっ」たということがあった。この上等兵は暗闇の中で逃げだ
し通報をうけた将校が、防衛隊員全員を殴打することでこの件は終わったのだが、防衛隊員が、
日頃よりの不満を爆発させて暴行をはたらいた事件であった(前掲『浦添市史』5、六一頁)。

 さて、このように多くの防衛隊員が、命を捨てることを拒み、戦線を離脱していったのはどう
してであろうか。これまでにあげたいくつかの例やそのほかの例からみて、次の点が指摘できよ
う。
 第一に日本軍による沖縄県民(防衛隊員や沖縄出身兵、一般住民など)への差別や横暴に対す
る反発である。
 @Gの例や本土出身兵への暴行の例などは、日本兵による防衛隊員の差別扱いに対する反発の
あらわれである。ほかの例でも差別の問題がかかわっているとみられるが、同時にそれは防衛隊
員に対するだけでなく、自分たちの家族や区民・村民に対する差別・横暴を日頃より見聞きして
おり、それらへの反発が積もっていたからであると考えられる。
 くりかえし戦線離脱をはかり、防衛隊員や住民に投降を勧めたIの班長は、沖縄戦が始まる以
前に、軍が区長にあまりに無理な供出を強要するのに抗議して、「なんで区長に無理難題を吹っ
かけるのか、おまえたちは、沖縄住民を支那人と考えているのか! 支那と間違うな! 私は支
那で戦闘してきたが、平定後は、支那でもそんなことはしなかった。……いざ戦闘となると、あ
んたがたは今のように住民を支那人のような扱い方をしているとどうなると思ぅか」と怒鳴りつ
けたことがあったという(前掲『浦添市史』5、三五頁)。彼は日本軍の横暴に日頃から憤慨し
ていたのである。
 また戦線離脱したある防衛隊員は、自分たちが掘った壕に非難していた家族が日本兵に銃をつ
きつけられて追い出され、隣のおばあさんも日本兵に髪をつかまえられ、壕から引きずり出され
た様を体験していた(前掲『沖縄県史』9、八七四〜八七五頁)。

 沖縄戦が始まる以前から、日本兵の横暴は目に余るものがあった。たとえば、空家に入って物
品を勝手に持ち出したり、釘付けした戸をひきはがして使ったり、鶏や豚を無断でつかまえて食
べ、あるいは農作物を荒らしたり、さとうきびをとる、竹や茅を勝手に切りとり、農具を持ち出
して返さず、借りた家屋の家賃を払わない、などの行為があいついだ。日本兵の「性的犯行」も
あった。これらの横暴な行為に日本軍としても各部隊に注意をうながすはどであった。住民の中
には「占領地に非ず無断立入り禁ず」という立札を立てるものまででてきたほどであった(「第
六二師団会報綴(独立速射砲第二二大隊受領)」一九四四年十月〜十二月の各号、一部は前掲『
浦添市史』5に所収)。

 こうした横暴は末端の兵隊だけのものではなかった。
 将校の中には「中国大陸や南方の占領地とでも錯覚したのか、軍政をしくなどと、とんでもな
い放言をする」者もいた(浦崎純『消えた沖縄県』四五頁)。また将校たちが那覇の「辻遊郭で
日夜飲み騒ぐのを見せつけられた住民は……この郷土沖縄がまるで外地同様植民地であって、あ
たかも外国軍隊が駐留しているのではないかとの錯覚さえ感じ」た者もいた(『沖縄作戦におけ
る沖縄島民の行動に関する史実資料』24頁)。また日本軍の将校は、監督した地域の有力者に
対して、女学生などの若い女性を自分の愛人にするために差し出すよう要求し、実際に多くの女
性が将校専属の慰安婦にされた(藤原編著前掲書、二二頁、川名紀美『女も戦争を担った』二一
三頁)。

 同じ軍人の間でも沖縄出身兵は差別されていた。たとえば危険な壕出入口の警備には沖縄出身
初年兵があてられた。ある女子義勇隊員は、「(日本兵から)『お前たちの国じゃないか、お前
たちの島じやないか、だからしっかり見張れよ! 僕たちには関係ない』と言われているのです。
沖縄人初年兵は、、ただ『ハイ!ハイ!』しているもんだから、私はそれを見ていて『アッセ、
何かいえばいいのに』と悔しい思いをしました」と語っている(前掲『浦添市史』5、一二八頁)。
 沖縄出身初年兵の逃亡もかなりあったようで、一九四四年十二月に第六二師団は「初年兵の離
隊跡を絶たざるに付各隊は指導を厳にし、かかる事故の絶無を期せられ度」と指示している。軍
は「原因はあるも、他府県の兵と言語の相違と,能力低きに原因する」(前掲「第六二師団会報)
と見ているようであるが、何々かの形で沖縄人差別がからんでいると考えてもよかろう(沖縄戦
下の初年兵の脱走の例としては前掲『沖縄県史』9、八三二頁)。

 こうした日本軍の沖縄県民に対する様々な差別,横暴は、第一節でみたような軍の指導者たち
の体質が将校や兵士にも浸透していたことのあらわれであったといってよい。そしてそれは、沖
縄を天皇制を守るための捨て石にした日本の指導者たち、さらには近代以来の沖縄に対する中央
政府の姿勢に共通する性格の問題である。
 こうした日本軍の沖縄県民に対する差別・横暴を幾度となく体験し、さらに自らが防衛召集さ
れ、そこで本土兵から差別される中で、日本軍が沖縄(県民)を守るための存在でないことを彼
らは感じとっていたのである。だからそんな日本軍のために命を捨てることはないと考えたので
ある。

 (注)「遥かに祖国の安泰と繁栄を願いつつ沖縄をはじめ南方諸地域においてその任に倒れそ
  の職に殉じた静岡県出身の将兵文民の不滅の偉勲をたたえて」と碑文に刻んだ静岡の塔の建
  立者(一九六六年建立)には、沖縄は「祖国」には含まれていないと考えているようである。
  沖縄を「日本本土」とは切りはなしてみる発想は根強く残っている。
   この原稿を書いている現在(一九八七年六月)でも、沖縄では、米軍の横暴が次々と起こ
  っている。飲料水用ダム上流でのへり・パット建設による水汚染、催涙ガス訓練に上る住民
  への被害、酔払い米兵の民家乱入、陸地の上での戦闘機の曲芸飛行、登園する幼稚園児に米
  兵が銃ロを向け脅す事件、などが連日、「沖縄タイムス』『琉球新報』紙上でとりあげられ、
  一面トップで扱われる場合も多い。ところが本土の全国紙は、ほとんどこうした問題をとり
  あげていない。ヘリ・パット建設現場に取材にいった新聞記者らが米軍に拘束されたことが
  少し取りあげられたにすぎない。これがもし本土で、特に東京や神奈川で起こったならば大
  問題になると思われることが、本土のマスコミによって黙視あるいは著しく軽視されている。
  日米安保の矛盾を沖縄に集中させながら、沖縄は日本ではないかのようにそれを知らな
  いふりをする本土のあり方は、沖縄戦における本土あるいは日本軍の体質とどれはどの違い
  があるのだろうか。

 防衛隊員たちが戦線を離脱した第二の理由は、家族(妻子)への心配である。これは防衛隊員
の多くが三十代・四十代の妻子を持っている者であり、@の例をはじめとして逃走した防衛隊員
のほとんどが、家族の避難先に向かっていることからもわかる。こうした世代の男子を急遽、大
量に召集したことがこうした事態を生んだのであるが、より板木的には、日本軍の一員としで戦
うことと家族を守ることとが結びつかない、それどころか家族を含めて沖縄県民を犠牲にしよう
とした沖縄戦がかかえる矛盾のあらわれであった。

 第三に戦争の行方についての冷静な認識、米軍(兵士)に対する理解、があげられる。
 この戦争は負ける、あるいは少なくとも沖縄でのたたかいは負けると冷静に判断していた防衛
隊員は多く、負けるとわかっている戦争では死ねないと考えた。
 沖縄戦は負けると判断した防衛隊員の、その基礎にある経験は二つにわけられる。一つは、兵
士としての中国戦線の経験である。「中国での戦争と比べて、日米両軍の弾の撃ち具合から全く
相手にできない戦闘だと判断」(前掲『浦添市史』5,四九頁)した例など中国での戦闘経験か
ら負けいくさであることを理解したものたちがいた(福地前掲書、七六、一一七頁、参照)。
もう一つは、移民体質である。ハワイ移民の経験のある防衛隊員は、防衛隊長の少尉からの質問に
答えて、「(アメリカは)物が豊富にあって日本では到底及びもつかない。むこうは金属も多く
あって、古い自動車はエソジンかけて海に捨てる位ものがあるし、むこうは手ごわいです」「自
分の考えでは描虜になったら助かる。決して殺さないと思う。でも戦争だからどうとも言えない
けど。日本の連合艦隊が来てアメリカはひとたまりもないといわれているが、自分はそうではな
いと思う。むこうは物資は豊富にあるし、日本の艦隊が来ても二重三重も取り巻くでしょう」と
悪った(前掲『浦添市史』5、六七頁)。ハワイでの経験から、日米の経済力・戦力の差を冷静に
判断し、また米軍は捕虜を殺さないという認識も持っていた。
 またある防衛隊員は、ハワイ移民帰りの人から「アメリカという国は何もかも豊富な国だから
あそこと戦争したら大変よ! あんたたちが行って、早く戦争をやめさせねばならないよ」と口
ぐせのように言われており、米軍が上陸してきてみると、その言葉のとおりだと思ったという(
同書、七九〜八〇頁)。                 ・

 沖縄は移民のきわめて多い県であり、一九四〇年現在の海外在留者は、沖縄県現住人口五九万
人余のほぼ一〇パーセントにあたる五万七二八三人にのぼり、二位の熊本県以下を断然引きはな
す高い比率を示していた(前掲『沖縄県史』7、二二頁)。移民は、フィリピン、南洋諸島から
ハワイ、米大陸にまで広がっていたが、彼らはそこで英語やスべイン語を理解するようになり、
アメリカ合州国という国や人をも知る機会を得た。その体験は移民から帰ってきた人々によって
沖縄にもたらされていった。
 沖縄では、サイパンやその他の地域と同様に、アメリカ兵は赤鬼だ、やぎの目なので夜は見え
ない、とか、捕らえた女性はみな強姦し、男も女も戦車で轢き殺してしまう、という話が軍によ
って宣伝されていた。たとえば島尻にいた部隊は、米軍が上陸すると、壕内に避難している住民
に読んで聞かせるために次のような「ふ告」を出している。

 親愛なる諸君
 鬼畜の米獣は今中頭で何をやつて居るか
 洞穴内の同胞を毒を使つて追出し出て来る人等を片端から男女老幼の別なく虐殺してゐる事実
 を!平和安住の宣伝ビラの裏に待つものは敵の弾と銃剣である。「サイパン」でも「テニヤン」
 でも又其他の島々の同胞が怨を呑んだ其の血!!其の血を塗つた銃剣が再び我々の前に来たの
 である。(以下略)              (「独立第八九連隊第五中隊陣中日誌」)

 こうした日本軍の宣伝を信じこんでいた住民も多く、それが集団自決を招いたり、自決にいた
らなくても米軍の投降勧告を拒否して逃げまどい、砲火の犠牲になるなど無意味な犠牲を出す大
きな要因になった。だが、移民体験者は、そうした宣伝が捏造されたものであると見抜くことが
でき、描虜になれば命が助かるという判断もできた。
 移民によって、外国の文化や人間などを知ることができ、そういう国際的な体験、見聞が、戦
争の中で自らの生命を守りとおすうえで重要な役割を果たしたのである。

 (注)中国戦線での経験については、プラスマイナスのどちらに作用するか、一概には言えな
   い。たとえば中国で日本軍が中国人に対しておこなったことから類推して、今度は自分た
   ちが米軍によって残虐な行為をされると考え、集団自決を先導した者もいた(下嶋前掲書、
   一一〇、一一六頁)。こうした傾向の方が強いように思われるが、検討課題である。

 第四に、防衛隊員の中には、自分たちは軍人ではない、あるいは戦闘要員ではない、という意
識があったことである(福地前掲書、九八頁)。すでに見たように「防衛召集」という言葉を知
らない者もいる急造の部隊であり、軍人意識は稀薄であった。軍人精神をたたきこむ教育訓練を
受けていなかったし、その時間的余裕もなく沖縄戦に突入した。それゆえ、上官の命令を天皇の
命令と心得て絶対服従することもなく、「命令一下欣然として死地に投じ」(「戦陣訓」)るこ
とを当然と考える観念も乏しかった。天皇の軍隊=皇軍の論理は、防衛隊員には貫徹していなか
ったのであり、その論理に染められていた学徒隊とはまったく異なっていた。

 このように防衛隊員の中の少なからぬ者たちは、日本軍による沖縄(県民)に対する差別・横
暴への反発、家族を心配する一般市民の常識的感覚、移民体験のような国際的な体験に基づく状
況の把握、皇民化・軍人教育の不徹底などの要因があわさって、沖縄戦がけっして沖縄(県民)
を守るためのたたかいでないことを、意識的にか無意識のうちにかは問わず、理解し、天皇制と
その軍隊を相対化することができ、日米両軍のはざまで、自分たちの生命を守ろうと努力したの
である。
           *                     *

 日本軍が沖縄県民を守るどころか、かえって県民に犠牲を強いようとする中で、防衛隊員の多
くは、無意味な死を拒否し、自分で自分と家族の生命を守ろうとぎりぎりの努力をおこなった。
しかしながら、軍によって根こそぎ動員され、酷使され、捨て石にされ、約一万三〇〇〇人とい
われる犠牲者を出した。防衛隊員の約半数あるいはそれ以上が沖縄戦の中で命を失ったのである。
 防衛隊の経験は、日本軍は軍のために沖縄県民を利用しても、けっして沖縄県民を守るもので
はなかったということを示している。そして防衛隊の実態をみるならば、沖縄戦を「殉国美談」
ととらえる見方は、作られた虚像であることがはっきりと示されている。

 天皇制イデオロギーによる天皇制国家としての日本本土への一体化、すなわち皇民化、大和化
は、沖縄(県民)を犠牲にするものでしかないこと、皇民化を拒否し国際的な視野や市民として
の常識、沖縄に固有の「命どぅ宝」(玉砕に対して、玉と砕けるよりも瓦となって全うしたいと
する瓦全の思想。大城前掲書、二三〇頁)という市民的常識を大切にすべきことを防衛隊の経験
は語っているのではなかろうか。               
〈参考文献〉(順不同)
玉木真哲「防衛隊員に関する資料学的研究」(「地域と文化』15・16合併号、21号、一九八三年)
玉木真哲「沖縄戦史研究序説」(『沖縄史料編集所紀要」9号、一九八四年)
大城将保「沖縄戦における防衛召集について」(「地域と文化」21号、一九八三年)
大城将保「防衛隊とは何か」(福地曠昭後掲書所収)
大城将保『沖縄戦』高文研、一九八五年
福地曠明『防衛隊』沖縄時事出版、一九八五年
池宮城秀意『沖縄に生きて』サイマル出版会、一九七〇年
石垣正二『みのかさ部隊戦記−郷土防衛隊・白保飛行場』ひるぎ社、一九七七年
『沖縄県史』7「移民」、一九七四年
『沖縄県史』9「沖縄戦記録1」、一九七一年
「沖縄県史」10「沖縄戦記録2」、一九七四年
「那覇市史」「資料篇第2巻中の2」、一九六九年(『沖縄新報』の記事は本書と『宜野湾市史』
                        第6巻から引用した)
「那覇市史」「資料第2巻中の6 戦時記鐘」、一九七四年
「那覇市史」「資料篇第3巻7 市民の戦時戦後体験記T」、一九八一年
「浦添市史」第5巻「資料編4 戦争体験記録」、一九八四年
『宜野湾市史』第3巻「資料編2 市民の戦争体験記録」、一九八二年
『宜野湾市史』第6巻「資料編5 新聞集成U、一九八七年
防衛庁防衛研究所所蔵 陣中日誌等の史料
国立公文書館所蔵「秘密戦に関する書類」(『本部町史』「資料編1」、一九七九年、に全文収録)
防衛庁防衛研修所戦史室『沖縄方面陸軍作戦』朝雲新聞社、一九六八年
防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備』「(1)関東の防衛」、朝雲新聞社、一九七一年
防衛庁防衛研修所戦史室『本土決戦準備』「(2)九州の防衛」、朝雲新聞社、一九七二年
沖縄戦を考える会『沖縄戦をみつめて』沖縄戦を考える会、一九七八年
大田昌秀『総史沖縄戦』岩波書店、一九八二年
大田昌秀『沖縄―戦争と平和』日本社会党、一九八二年
大田昌秀『鉄血勤皇隊」ひるぎ社、一九七七年
八原博通『沖縄決戦−高級参謀の手記=読売新聞社、一九七二年
上原正稔訳『沖縄戦アメリカ軍戦時記録 第10軍G2 秘レポートより』三一書房、一九八六年
下嶋哲郎『南風の吹く日―沖縄読谷村集団自決』童心社、一九八四年
陸上自衛隊幹部学校『沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料』一九六〇年
浦崎純『消えた沖縄県』沖縄時事出版社、一九六五年
藤原彰編著『沖縄戦・国土が戦場になったとき』青木書店、一九八七年
護郷隊編纂委員会「護郷隊」一九六八年
「平和への検証―いまなぜ沖縄戦なのか 第一部」(『沖縄タイムス一九八二年八月十四〜九月二十二日)
大江志乃夫『徽兵制』岩波新書、一九八一年
川名紀美『女も戦争を担った』冬樹社、一九八二年
小林勇「マニラ最後の日」(「ジヤ−ナリストの証言 昭和の戦争4 ミッドウェ−海戦』
              講談社、一九八五年)