アジアの現在―華僑

            「自由旅マガジン ASIA」第5号(19988月)
               特集マレーシア

                   林 博史


 これは旅行雑誌に書いたものです。日本での華僑についての報道が歪んでいるといつも思っていたので、ちょうどいい機会でした。これが出たころにシンガポール出身の元ジャーナリストであり、今は日本の大学で教えている卓南生さんが、私の考えと同じようなことを新聞に書いていて(『沖縄タイムス』だったと記憶しています)、ここに書いたことはまちがっていないとあらためて確信した次第です。 1999.4.1


 さる5月にインドネシアのスハルト独裁政権が倒れた時に、華僑の財閥が政権と癒着していたことや暴動の際に華僑の商店が焼き討ちされたことなどが報道されたことは記憶に新しい。華僑は町で商売をしており、金持ちで、中国本国と結びつきながら東南アジアなどの経済を牛耳っているというようなイメージで語られることが多い。でも本当にそうだろうか。また日本では「華僑」と呼ぶが、彼ら自身はいまでは「華人」と呼ぶことが多い。華僑と華人とは何がちがうのだろうか。

 「僑」には仮の住まいという意味があり、東南アジアなどいま住んでいるところは仮の地で祖国はあくまで中国であり、いつか一旗あげて帰ろうという意識を持つ人々が華僑だった。しかし太平洋戦争がおこり、ついで戦後、中国に共産党政権が生まれたために中国との行き来がほとんど途絶えてしまった。そのために現地に定着する華僑が増え、さらに現地で生まれ育ち、中国を知らない新しい世代が育ってきた。また東南アジア各地が独立したので居住地の国籍を取るようになってきた。中国はもはや祖父母や親の出身地でしかなく、居住国が故郷であり祖国となっている。そうした彼らはもはや華僑ではなく華人と自らを呼ぶようになっているのだ。たとえばマレーシアの華僑と華人を英語で表すと、Malaysian ChineseChinese Malaysianになる。前者では中国人であることが本体だが、後者ではChineseは形容詞でしかない。だからマレーシアで前者のような言い方をすると、マレーシア人ではないと否定的なニュアンスで受け取られる危険性がある。

 中国人が海外に広がっていく歴史は古いが、大量に出て行くのは19世紀の後半から20世紀のはじめにかけての時期である。清朝末期で中国社会が疲弊していたことと同時に東南アジア各地が欧米列強の植民地にされ、開発が始まったことが理由としてあげられる。マレー人の土地だったマレー半島はイギリスの植民地にされた。マレー半島はスズの産地であり、また南米から密かに持ち出したゴムの木の栽培に適していたことを発見したイギリスは、ゴムとスズの開発に乗り出した。しかしマレー人は主に米作で暮らしており人口も少なかった。そこでスズ鉱山の労働者として中国南部の広東や福建などから中国人を、ゴム園の労働者としてインド南部のタミール人を連れてきた。スズは缶詰の開発普及によって、ゴムは自動車などの開発によって急速に需要が拡大し、それらは主にアメリカに輸出されたのでイギリスのドル箱になった。

 中国人たちはスズ鉱山だけでなく、ジャングルを切り開いて農業をしたり、商業やゴム園にも進出していった。そしてマレー半島の経済に強い影響力を持つようになり、太平洋戦争が始まる直前には中国人の人口は238万人とマレー人の228万人を追い越すまでになった。

 1931年から日本による中国侵略が始まるが、中国を祖国と考えていた華僑は祖国を支援するために募金や日本製品のボイコットなどの運動をおこなった。まもなく日本は石油などの東南アジアの資源を獲得するために太平洋戦争をおこし、マレー半島も占領した。日本軍は華僑を反日的だと見なして、最初から強硬な手段を採った。シンガポールでは占領直後の19422月、18歳から50歳までの成年男子を集めて、1〜2の質問だけで抗日的かどうかを判断し、抗日的だと見なした者はトラックで郊外に運び、機関銃で撃ち殺し、海に流した。その犠牲者は数万人と言われている。

 その直後の42年3月、マレー半島各地でも「華僑粛清」がおこなわれた。日本軍は華僑のゲリラがあちこちに潜んでいると思い込み、各地の村を襲って村民を女性や子供も含めて皆殺しにした。そのとき日本軍は、華僑とは町に住んで商売をしているものと思い込んでいた。だからジャングルを切り開いて農業をしていたり、ゴム園で働いていた華僑を大量に虐殺した。ゴム園の労働者は人里はなれたゴム園の中の長屋に数十人から数百人で住んでいたから、そんなところに住んでいるのは怪しいやつらだと考えたのだ。ある日本軍の将校は子どもまで殺さなくても、と訴えたが、両親を殺された子どもは大きくなると日本軍に歯向かうようになるから子どもも殺すのだと上官から命令されたと語っている。

 今でもマレーシアの華人に話を聞くと、親戚の誰かが日本軍に殺されたか、拷問されたという経験を持っている。日本人の観光客にはそんなことは言わないが、親しくなってくわしく聞いてみるとそういう話をしてくれることが多い。マレーシアの中国語の新聞は戦争中の日本軍の残虐行為についてくりかえし取り上げるので、戦争中のことは若い世代にも伝えられている。私の経験では、日本の侵略と残虐行為について知っていて反省している日本人には彼らはやさしいが、それを否定しようとするような日本人には厳しい態度に出ることが多い。彼らと付き合うときには、少なくともその事実だけは知っておくべきだろう。

 現在、世界には華僑・華人は2500万人くらいいると推定されている。このうち中国籍を持っている、いわゆる華僑は約400万人くらいでそれ以外は居住国の国籍を取っている華人である。インドネシアに620万、マレーシアとタイにそれぞれ450万、シンガポールに200万、フィリピンに100万人など東南アジアが多い(1983年現在)。タイのように名前も現地風に変えている場合とマレーシアやシンガポールのように中国名のままである場合と両方あるが、いずれも現地で生まれ育ち、そこを故郷とする華人になっている。だから華人を中国の手先であるかのように見るのは間違いだし無責任な議論だろう。

 経済的には一部の華人財閥が政権と結びつき、スキャンダルを生んでいるケースもあるが、華人すべてが金持ちであるというわけではない。大金持ちがいる一方で、家族だけの自営業や農民のような庶民が多く、華人内部での貧富の差は大きい。最初に紹介したような華人の商店を焼き討ちしたりするのは、独裁政権や特権階層への不満を、関係のない庶民の華人に向けさせようとする謀略に乗せられた行為だと言ってよいだろう。

 華僑・華人は中国という国家の保護をあてにできず、移民した先でも繰り返し差別や迫害を受けてきた。だから同郷出身者同士の結びつきを大事にし、金融や商売、人手の世話など助け合ってきた。広東、福建、潮州、客家(ハッカ)、海南など幇(パン)という地縁的な結びつきが有名で、そのネットワークは中国本国と東南アジア各地や欧米など世界的に広がっている。

 海外に行くと日本人は国家の保護の下にかんたんに逃げ込んでしまうが、彼らは違う。その自立心とたくましさはうらやましいぐらいだ。臆することなく、まったく知らない土地で生活をはじめ、現地の人々と付き合う華人は―もちろんさまざまな摩擦や対立を生むこともあるが―国境を超える時代にふさわしいものを持っているように思える。

 マレーシアは、マレー語を話し豚肉を食べないイスラム教徒のマレー人、中国語(幇ごとの言葉と共通語)を話し仏教や道教の華人、タミール語を話し牛肉を食べないヒンズー教徒のインド人などのさまざまな民族がともに暮らしている国であり、日常生活そのものが国際化されていると言ってもよい。日本人に一番欠けているものがそこにはある。