元日本兵の証言に見る日本軍慰安婦(未発表)

         林 博史


 これはある雑誌に依頼されて1ページないし2ページのコラム用に書いたものです。いくつかコラムが作られる予定だったのですが、他の執筆者が書かなかった(?)ためにコラム全体が、企画からはずれてしまい、この原稿も宙に浮いてしまいました。内容はすでに『戦争責任研究』のなかで紹介されているものばかりで目新しいものはありませんが、コンパクトにまとまったコラムとしては意味があるのではないかと思います。
 なおこうした日本軍将兵たちの記した慰安所・慰安婦についてくわしくは、拙著「資料構成 戦争体験記・部隊史にみる“従軍慰安婦”」(『戦争責任研究』第5号、1994年9月)などをご参照ください。  1999.4.1


 日本軍を弁護する人たちはしばしば元日本兵の証言を出し元慰安婦の証言を否定しようとする。しかし元日本兵のなかには逆のことを率直に語ってることも多い。ここではそうした証言をいくつか紹介したい。
元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。
「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)

慰安所を担当した主計将校に慰安婦の選別の基準まで軍で教育していたことがわかる。
中国にいたある主計将校は師団の参謀から「至急民家を改装して兵隊用の慰安所を作れ。ついでに洛陽で女も集めて来い」と命令され「塩を二、三俵トラックに積んで、洛陽市内に女狩りに赴」き十数人を集めたことを語っている(宮谷重雄「わが戦記恥さらし」)。

アンボン島にいた海軍の主計将校の証言によると、参謀が四つの慰安所を設置し百名の慰安婦を「現地調達」する案を示した。それは「日本将兵とよい仲になっているもの」を「密告」などによって探し出し「その中から美人で病気のないもの」を選ぶという計画だった。この主計将校はこのことを「慰安婦狩り」と呼び「クラブで泣き叫ぶインドネシアの若い女性の声を私も何度か聞いて暗い気持ちになったものだ」と回想している(坂部康正「アンボンは今」)。

シンガポールで慰安所が開設された時、部下の衛生兵がしょんぼりとして帰ってきたので問いただしてみると、「四、五人すますと『もうだめです。体が続かない』と前を押えしゃがみこんでしまった」慰安婦を係りの兵がその「手足を寝台に縛りつけ、『さあどうぞ』と戸を開けた」。それを見たその衛生兵は逃げ帰ったという話をある将校が記している(総山孝雄『南海のあけぼの』)。

スマトラで憲兵として慰安所に巡回で出入りしていた元憲兵は親しくなった朝鮮人慰安婦から「私達は好き好んで、こんな商売に入ったのではないのです」と打ち明けられたことを記している。「従軍看護婦」などの名目で騙されたこと、当初は「毎日泣きながら過した」こと、さらに「汚れたこの体はどう見たって昔の私には戻らない。親や兄妹に会せる顔もないでしょう」「どうせ帰れないんだから、友達とお金を貯めて、どこかこっちで何か商売でもしようと相談しているの」「皆な大声で笑ったり、噪いだりしているけれど、心では泣いているんです。死のうと思ったことも何度もあるんです。この気持ち解ってもらえるかしら」と涙ぐみながら聞かされたと語っている。彼は憲兵として彼女らの徴集のされ方を知っていたのである。

一見快活に見える彼女らの哀しみを理解できる兵士もいた。元兵士たちの回想を丹念に読んでいくと、日本軍が実質的に慰安所を管理し、時には自ら「慰安婦狩り」を行い、慰安婦に性暴力を強いていたことが浮かび上がってくる。そのことは「募集や契約にさいし(略)日本軍(国)は、その実態を知る立場になく」(秦郁彦)などという弁解がサンケイグループのトップの証言を含めて都合の悪い元日本兵の証言には頬かむりした虚像でしかないことを示している。