東南アジアで日本は何をしたのか 

           林 博史       


この原稿は、高校日本史教科書の出版社でもあった自由書房が高校教員や高校生向けに出していた月刊誌『時事教養』に2年間20回で連載を頼まれて書いたものです。ところが最初の1年間10回の連載が終わった時点で、『時事教養』が休刊(廃刊)になってしまったために、残りの10回分が宙に浮いてしまいました。ここに20回分全部を掲載します。毎回、短いコラムだったので参考文献も何も書いていません。ただこれがあったので『キーワード 日本の戦争犯罪』を書くときに役に立ちました。(10回分の掲載は、『時事教養』第692号、1994年4月〜第701号、1995年2月)   1999.4.1


  

1 東南アジア侵攻から始まったアジア太平洋戦争
2 近代の日本と東南アジア
3 マレーシア・シンガポール(上)
4 マレーシア・シンガポール(下)
5 インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)
6 タイ
7 ビルマ(ミャンマー)
8 泰緬鉄道
9 オーストラリア
10 資源の収奪と経済生活の破壊
11 インドネシア(上)
12 インドネシア(下)
13 フィリピン(上)
14 フィリピン(下)
15 「従軍慰安婦」
16 太平洋諸島
17 インド
18 日本の敗戦と各国の独立
19 賠償―解決されていない戦争責任
20 今日の日本と東南アジア


1 東南アジア侵攻から始まったアジア太平洋戦争

 

 日本の海軍機動部隊がハワイの真珠湾を攻撃したのは、一九四一年一

二月八日の朝三時二〇分(日本時間)だった。普通は、真珠湾攻撃によ

って太平洋戦争が始まったと言われている。しかし、本当にそうだろう

か。実は陸軍の精鋭部隊はマレー半島の東北部のコタバル沖に到着し、

この日の一時三五分に舟艇に乗って発進し、イギリス軍との戦闘の中を

二時一五分上陸を開始した。真珠湾攻撃に先立つこと一時間余り、この

マレー半島上陸作戦によってアジア太平洋戦争の口火が切られたという

のが、歴史の事実なのである。

 では、なぜ東南アジアのマレー半島なのか。日本は中国への侵略戦争

に行き詰まっていた。そして、中国から撤退せよというアメリカの要求

を拒み、石油や鉄の供給を止められてしまった。日本はあくまで戦争を

続けようとし、そのために必要な資源を確保するために東南アジアに目

を付けた。石油をはじめスズ、ニッケル、ボーキサイト、ゴムなど重要

な資源の宝庫だったからだ。ここを占領すれば、資源に困ることなく戦

争を続けられると日本の軍部や政府は考えた。

 ところが、フィリピンはアメリカ、マレー半島やビルマはイギリス、

インドネシアはオランダの植民地だった。これらの国々と戦わずに東南

アジアの資源を手に入れることはできない。ここに日本がアメリカやイ

ギリスを相手に戦争を始めた理由があった。つまり東南アジアを占領し

そこから資源を獲得することこそがアジア太平洋戦争の最大の目的だっ

た。

 東南アジアの軍事経済のかなめがシンガポールであり、まずここを占

領する必要があった。しかし、シンガポールには強力なイギリス軍がお

り、難攻不落の要塞といわれていたので、日本軍はマレー半島の背後か

ら攻撃することにした。そのためにマレー半島の東北部から上陸したの

だ。他方、真珠湾を攻撃したのは、米海軍に打撃を与え、アメリカが東

南アジア方面に出てこれなくするためだった。

 日本軍は半年のうちに東南アジア全域を占領した。一九四三年五月御

前会議は、現在のマレーシアとインドネシアの地域を「帝国領土」とし

「重要資源の供給源」とすることを決定した。もちろんこの決定は国内

外の人々には秘密だった。表向きは「アジアの解放」を唱えながら、実

際には日本の領土にするか、形ばかりの「独立」を与えて実質的に日本

が支配することを考えていた。

 日本が東南アジアで何をしたのか、ということは、アジア太平洋戦争

が一体何だったのかを理解するうえでもっとも重要な問題なのである。

この連載では、このことを歴史の事実に基づいて考えていきたい。

 なお最近では、中国や東南アジアへの侵略戦争であることを重視する

立場から、アジア太平洋戦争という呼び方が広まってきている。ここで

もそれを採用したい。

 

2 近代の日本と東南アジア

 

 東南アジアには各地に王国が繁栄していた時代があったが、一九世紀

後半にはタイを除くほとんどの地域がイギリス・フランス・オランダ・

アメリカの植民地にされた。明治の日本の指導者たちの目に映ったのは

、植民地にされた東南アジアの人々の姿だった。明治の初め、岩倉具視

を代表とし、伊藤博文、木戸孝允、大久保利通などその後の日本政府を

担う人物たちによる使節団が欧米諸国を回り、その途中、東南アジアに

も立ち寄った。その使節団の報告書には、欧米を日本のモデルとする考

えとともに、東南アジアは文明と無縁の怠惰な人々がいる所という見方

、日本の富強のために東南アジアの資源に着目する見方が示されていた

。言いかえると、東南アジアの資源を利用して日本の近代化(富国強兵

)を進め、怠惰な東南アジアの人々を蹴落として、欧米のような帝国主

義国にのしあがっていこうという考え方である。つまり「脱亜入欧」の

考え方である。

 一方、明治期は、貧しくて日本ではやっていけない庶民が行商人、雑

貨屋や「からゆきさん」と呼ばれる売春婦として、どんどん東南アジア

各地に出ていった時代だった。その人たちは、相手を見下すのではなく

、土地の人々と同じ庶民として付き合いながら生活を築いていった。

 ところが第一次世界大戦が始まってから、日本の工業製品、特に綿製

品や雑貨が東南アジアに輸出されるようになり、重要な輸出市場として

注目されるようになった。また東南アジアの石油や鉄鉱石などの資源も

日本へ輸入されるようになってきた。それにともない日本の商社員たち

が東南アジアに進出していった。新しく来た彼らは、前からいる庶民の

日本人を日本の恥のように扱い、同時に地元の人々を見下していった。

 アジア太平洋戦争の時に南方に向かう兵士たちに読ませるために陸軍

が作った『これだけ読めば戦は勝てる』というパンフレットがある。こ

の中には、「土人は懶けものが多く、……全く去勢された状態にあるか

ら之をすぐに物にしようとしても余り大きな期待はかけられぬ」と決め

つけている。「土人」という言い方は東南アジアの人々を見下したもの

だが、こうした見方が兵士たちに植えつけられていった。

 こうして明治の指導者たちが抱いた東南アジアへの見方は、日本の大

国化、軍国主義化につれて増幅されていった。日本の利益のためには、

勝手に占領し資源を奪い、そこに住む人々を酷使し虐待しても何とも感

じない、そういう感覚が日本人の中に広まっていった。東南アジアの人

々はそれぞれが独自の文化、宗教、芸術などを育てていたのだが、日本

人にはそうした豊かな文化を理解することができなかった。そういう意

味で、アジア太平洋戦争は、明治以来の日本の歩んだ道の行き着いた先

だったと言ってよいかもしれない。

 

3 マレーシア・シンガポール(上)

 

 一九四二年二月一五日シンガポールの英軍が降伏し、日本軍はマレー

半島全土を占領した。そしてすぐにシンガポールを昭南島と改名した。

マレー半島には、マレー人、中国人(いわゆる華僑)、インド人など多

くの民族が住んでいた。この中で華僑は祖国の中国が長年にわたり日本

に侵略されてきたことから、日本への反感が強かった。そこで日本軍は

華僑に対して最初から厳しい態度でのぞんだ。

 軍司令官の命令で、シンガポールの一八歳から五〇歳までの華僑の男

子が集められ、憲兵による検問がおこなわれた。二〇〜三〇万人はいた

と見られる人々をかんたんな質問や人相だけで「反日」的かどうかを判

断した。財産のある者や教師など学歴のある者はそれだけで「反日」的

と見なされた。「反日」と見なされた者はトラックに載せられ、海岸や

沼地に連れていかれて機関銃で射殺された。こうして虐殺された人は、

日本軍が戦後に弁明のために作った資料でも約五千人、シンガポールで

は約四〜五万人と言われている。

 このシンガポールの粛清に続いて、三月から四月にかけてマレー半島

全土でも華僑の粛清がおこなわれた。都市では、シンガポールと同じよ

うに成年男子が選ばれて殺された。しかし農村では、抗日ゲリラが潜ん

でいるとの理由で、村の人々が女性や子供も含めて皆殺しにされたケー

スが多い。たとえば、マレー半島の山の中の村イロンロンでは、三月一

八日に日本軍がやってきて村の人たちは学校に集められた。そこから二

〇〜三〇人ずつ連れ出され、銃剣で刺し殺された。当時八歳だった蕭招

□さん(女性)は、家族らと一緒に並ばせられたところを日本兵に銃剣

で刺された。おかあさんが彼女をかばって上にかぶさってくれたおかげ

で左足を刺されただけで生きのびることができた。しかし両親と弟妹三

人を殺され、家族では彼女一人しか残らなかった。このイロンロンでは

約一千人近い人が殺された。ゲリラは実際にはイロンロンの奥のジャン

グルの中にいたのだが、日本軍は村人みんなを反日的とみなして殺した

のである。

 マレー半島のいたるところでこうした粛清=虐殺がおこなわれ、その

犠牲者数は、数万人あるいは一〇万人以上になると推定されている。

 その後も日本軍と憲兵は、疑いをかけた人々を逮捕しては拷問を加え

、「ケンペイ」と聞いただけで人々はこわがった。また泥棒などの犯人

を裁判にもかけずに首を切り、街角にさらし首にしたことも人々に衝撃

を与えた。

 アジア太平洋戦争の開始直後におこなわれたこうした残虐行為は、華

僑を抗日運動に追いやっただけでなく、他の民族にも日本軍は残虐だと

いうイメージを植えつけてしまった。力で抑えつければ住民は従うだろ

うと考えていた日本軍は、初めから見通しを誤ったのである。

 

4 マレーシア・シンガポール(下)

 

 マレー半島の華僑の反発を招いたのは、残虐行為だけでなく、五千万

ドルの献金を強制したことにもある。現在のお金に換算すると数千億か

ら数兆円にもなるかもしれない多額のお金を各地の華僑団体に割り当て

た。献金を拒めば殺されるかもしれないという恐怖心を抱きながら、華

僑は財産を提供させられた。

 日本軍への反感をつのらせた華僑を中心にして、マラヤ共産党がマラ

ヤ人民抗日軍というゲリラを組織して、抗日活動をおこなった。家族や

友人を日本軍に殺された青年たちがこれに加わっていった。

 一方、マレー人に対してはどうだったのか。日本軍は初めは独立をめ

ざすマレー人の民族運動を支援した。しかし占領後しばらくするとそれ

を解散させてしまった。マレー半島を日本の領土にするつもりだった日

本軍にとっては、英軍と戦う時には民族運動を利用したが、終わると邪

魔になったからだ。その後、戦局が日本に不利になってくると、日本軍

はその民族運動の指導者たちを使って義勇軍を組織し、日本軍に協力さ

せようとした。しかし彼らは表向きは日本軍に協力しながらも、背後で

はマラヤ人民抗日軍や英軍と連絡を取り、連合軍がマレー半島に進攻し

てきた時には、それに応じて日本軍と戦う準備も進めていた。一度裏切

った日本軍をけっして信用しようとしなかったのである。

 また日本軍は華僑を抑えるためにマレー人を警察官などとして使った

。そして粛清の時の道案内をさせたり、実際に処刑までさせたりした。

中国人とマレー人の民族対立を利用しようとしたのである。しかしその

ことが悲劇を招くことになる。華僑は、マレー人が日本軍の手先となっ

て同胞の虐殺に手を貸していることに怒り、復讐のために華僑のゲリラ

がマレー人を襲った。そのことは逆にマレー人の反発をかい、マレー人

が華僑の村を襲う事件が起こるようになり、血で血を洗う流血事件が戦

後にかけて頻発した。両者の対立は尾をひき、現在のマレーシアにとっ

ても重大な問題になっている。日本軍が支配のために民族の違いを利用

しようとしたことが、何十年にもわたる負の遺産を残してしまった。

 もう一つ、マレー半島の重要な民族としてインド人がいる。彼らは主 

にゴム園の労働者としてインド南部から来た人が多かった。日本軍は、

インドをイギリスから解放すると言って、インド人にインド国民軍を組

織させ、日本軍のインド侵攻に利用しようとした。しかし実際には多く

のインド人は東南アジアや太平洋の島々に連れていかれ労務者として働

かされ、多くの犠牲を出した。

 アジアの指導者だとうぬぼれていた日本人には、それぞれの民族の気

持ちや願いを理解できなかった。一度、引き裂かれてしまった民族間の

関係の修復が難しいことは、世界の現状を見ればよくわかる。現在、シ

ンガポールもマレーシアも多様な民族が共存する国家を目指して努力し

ているが、私たち日本人はそれに無関心ではいられない。

 

5 インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)

 

 日本軍のインドシナ侵略はアジア太平洋戦争の前にさかのぼる。イン

ドシナ(フランス領インドシナを略して仏印)を支配していたフランス

が一九四〇年六月にドイツによって占領された。これを絶好の機会と考

えた日本は、九月に強引に軍隊を進駐させた(北部仏印進駐)。当時、

中国への援助物資の約半分が仏印ルートで来ていたので、これを絶つこ

と、また東南アジア侵攻の拠点を確保すること、この二つが目的だった

。さらに翌四一年七月には南部仏印進駐を強行し、インドシナ全土に日

本軍を駐留させ、東南アジア侵攻の足場を固めた。しかしこのことがア

メリカに日本への石油輸出禁止などの対抗措置を取らせ、アジア太平洋

戦争に突入する大きな原因となった。

 インドシナは日本軍と仏印当局の二重支配の下におかれた。仏印当局

は民族運動を厳しく弾圧してきたが、日本軍はその仏印当局を利用して

住民からの食糧や労働力の供出をやらせ、軍事費も負担させた。インド

シナの米は日本に送られ「臭い」と言われながらも日本人の胃袋に入っ

ていった。四五年三月に日本軍が仏印当局を攻撃し、単独支配にするま

で、二重支配は続いた。

 こうした中で一九四四年末から四五年にかけて、ベトナム北部で大飢

饉が発生した。農村でも都市でも人々は次々と餓死し、ハノイなどの都

市でも餓死者がころがっていたというほどだった。タイビン省だけの調

査でも人口百万人余りのうち約二八万人が犠牲になった。ベトナム全体

で一〇〇万〜二〇〇万人が餓死したと見られている。

 なぜこうした大飢饉がおきたのか。大型の台風や洪水などの自然災害

による不作があったがそれだけでは説明できない。第一の原因は米の強

制的な供出である。当時、仏印にいた数万人の日本軍は二年分の食糧を

蓄えていたと言われ、仏印当局も農民から強制的に供出させた大量の食

糧を持っていた。四五年三月以降はこれらの膨大な食糧を日本軍が独占

していたが、人々には提供されなかった。第二の原因として、水田など

を潰して軍事物資であるジュート(黄麻)を植えさせたことがある。第

三に戦況の悪化などによりベトナム南部からの米が入ってこなくなった

ことが指摘されている。こうした原因を見ると、戦争遂行を第一として

いた日本軍の責任が大きいことがわかる。

 こうした惨状の中で、ベトナム独立連盟(ベトミン)は「敵のモミの

倉庫を破壊して人民を救おう」と呼びかけ、日本軍の倉庫を襲い人々に

米を与えようとした。独立のための戦いが全土に広がっていった。これ

に対し日本軍は武力で鎮圧しようとしたが押しとどめることはできなか

った。日本の敗戦後、このベトミンの指導者ホーチミンによってベトナ

ム独立が宣言されるが、その後フランス、アメリカとの戦争を経て、ベ

トナムの完全独立を実現するのは、一九七五年を待たなければならなか

った。

 

6 タイ

 

 一七八二年に始まったラタナコーシン朝の下でタイは英仏の圧力を受

けながらも近代化をはかり、東南アジアでは唯一独立を維持した。そし

て一九三二年の立憲革命により絶対王政が終わり、立憲制に移行した。

 一九三九年に第二次世界大戦が始まりアジアでも戦争の気配が濃くな

る中でタイは中立を維持し、戦争に巻き込まれないように努めていた。

 すでにインドシナに進駐していた日本軍は、マレー半島やビルマに攻

め入るためにタイを通過する必要があった。タイは独立国なので事前に

タイ政府の承認が必要だが、そのための交渉を早くおこなうと開戦の意

図が連合国に漏れてしまい、奇襲でなくなってしまう。そこで日本は開

戦前夜の一二月七日夜にピブン首相らを招き、日本軍の通過を認めさせ

ようとしたが、ピブン首相は姿をくらませてしまった。そのため日本軍

はタイ政府の承認なしにタイに侵攻し、迎え撃ったタイ軍と激しい戦闘

をおこなった。しかしタイ政府はまもなく日本軍の要求を認めて停戦し

た。

 日本軍と戦っては勝ち目はないが、中立国として日本軍の要求をかん

たんに認めることはできないという意地がタイにこのような行動を取ら

せたと言えるだろう。戦後、日本軍と戦ったタイ兵士のために立派な記

念碑が建てられ、現在でも彼らの戦いは高く評価されている。

 こうしてタイは実質的に日本軍の支配下におかれ、日本軍はマレー半

島やビルマへの侵攻の基地として利用した。占領地のように振る舞う日

本兵は、敬虔な仏教徒であるタイ人が敬う僧侶を侮辱するなどして反発

をかい、怒ったタイ人たちが日本軍を襲うというバンボン事件までおこ

った。こうした中で、タイ政府は日本軍に表面的には協力する形をとっ

たが、一方政府や軍、警察関係者らは密かに「自由タイ」という抗日組

織を結成した。アメリカやイギリスにいた外交官や留学生が自由タイの

国外組織を作り、国内ではプリディ摂政やピブンの後を継いで首相にな

ったクウォンら政府首脳らもそのメンバーだった。抗日的として逮捕さ

れタイ警察に引き渡されたタイ人は、警察内の自由タイによって密かに

釈放されていった。自由タイは海外の組織とも連絡を取り、連合軍の援

助を受けてゲリラ部隊も組織して、いざという時には日本に対して蜂起

する準備も進めた。日本軍はこの自由タイの動きを察知していたが、う

かつに手を出すことができなかった。結局、自由タイが表面に出る前に

日本が降伏した。

 戦後、連合国は日本に協力したタイ政府を責めたが、タイは日本軍の

侵攻によってやむなく協力したこと、政府首脳を含む自由タイ運動によ

って連合国のために努力したことが認められて、敗戦国とは扱われず、

寛大な扱いを受けた。

 周辺諸国が次々に西欧の植民地にされていく中で独立を守り通した小

国の智恵が、最小限の被害でアジア太平洋戦争を切り抜けることにつな

がったと言えるかもしれない。

 

7 ビルマ(ミャンマー)

 

 現在、ビルマの軍事政権は、選挙で勝った野党に政権を譲ることを拒

否して、今なお強権政治を続けている。その実質的な指導者はネウィン

である。一方、民主化運動の指導者の一人が、自宅軟禁されているアウ

ンサン・スーチー女史である。ネウィンとスーチー女史の父親アウンサ

ンとは日本軍のビルマ占領と深い関係がある。

 イギリスの植民地だったビルマでは一九二〇年代から民族運動が高ま

り、その中でタキン党(主人を意味する)が台頭してきた。第二次世界

大戦が始まるとイギリスへの協力を拒否したタキン党は弾圧された。そ

の時、日本軍の謀略機関だった南機関がタキン党の青年三〇人を脱出さ

せ、海南島で軍事訓練をおこなった。そのリーダーがアウンサンであり

、ネウィンもメンバーの一人だった。

 アジア太平洋戦争が始まると、南機関はビルマを独立させると約束し

て三〇人を中心にしてビルマ独立義勇軍を結成させ、日本軍とともにビ

ルマに進攻させた。このビルマ独立義勇軍とともに入ってきた日本軍を

人々は歓迎したのである。ところがビルマを占領した日本軍は、独立を

与えずに日本軍自らが統治する軍政を開始し、二万人以上になっていた

独立義勇軍を解散させて三千人ほどのビルマ防衛軍に縮小改編させた。

独立を与えると約束していた南機関は解散させられた。タキン党を始め

とするビルマの人々が裏切られたと反発したのは当然だった。

 日本軍の下で、特にタイとビルマをつなぐ泰緬鉄道の建設のために多

くのビルマ人がロウムシャとして動員され多数の犠牲者を出した(次回

くわしく紹介)。これらの犠牲者を含めて、日本軍支配下の死亡者は約

一五万人、身体障害者になった者二〇万人とも言われている。

 一九四三年八月日本は形だけの独立をビルマとフィリピンに与えた。

バモーを首班とする政府が作られ、アウンサンは国防相としてビルマ国

軍を指揮したが、実権は日本軍が握ったままだった。アウンサンは地下

で抗日運動を続けるグループとも連絡をとり、ビルマ国軍、共産党、人

民革命党などとともに一九四四年八月ファシスト打倒連盟(後に反ファ

シスト人民自由連盟パサパラと改称)を組織した。翌四五年三月インド

からビルマに進撃してきた連合軍に呼応して、ビルマ国軍やパサパラに

参加した抗日グループがビルマ全土で蜂起して日本軍を攻撃し、日本軍

を次々に敗退させていった。こうして五月にはビルマ国軍の手で、日本

軍から首都ラングーンを取り戻した。

 このパサパラは、戦後イギリス植民地の復活を許さず一九四八年に独

立を勝ち取った。しかしアウンサンはその直前に暗殺された。内乱に悩

まされる中で軍を掌握したネウィンが台頭し一九六二年の軍事クーデタ

ー以来、政府の実権を握っている。日本政府はこの軍事政権に好意的で

ある。ネウィンの中には、青年期にたたき込まれた日本軍の精神がその

まま生きているのではないかと推測するのは考えすぎだろうか。

8 泰緬鉄道

 

 泰緬鉄道とは、タイのノンブラドックからビルマのタンビュザヤまで

の四一五キロ(ほぼ東京。大垣間)に及ぶ鉄道である。この建設計画は

一九四二年六月大本営によって決定され、ただちに着工、翌年一〇月完

成した。ビルマへの海上輸送路が連合軍の攻撃を受け不安定であったの

で、日本軍は陸上輸送路を必要と考えたからだ。

 人跡未踏のジャングルの山岳地帯であり、マラリアなど伝染病の多発

地帯に短期間でこれだけの鉄道を建設するために多くの連合軍捕虜やア

ジア人ロウムシャが動員された。このことが悲劇を生み出した。

 イギリス、オーストラリア、オランダなどマレー半島やインドネシア

などで捕まった捕虜約五万五千人(または六万二千人)がこの建設に投

入された。途中までは汽車で送られたが、工事現場が奥地の場合には数

百キロのジャングルの中の道なき道を歩かせられ、工事現場に着いた時

には多くが病気にかかっていた。乏しい食糧、時には一日百グラムの米

しか配給されない時も続いた。薬も乏しく、少しけがをすると熱帯性潰

瘍になって手足が腐っていく。マラリアやコレラも蔓延した。そうした

中で鉄道建設を至上命令とする日本軍によって工事に駆り立てられてい

った。そのため約一万二千〜三千人の捕虜が犠牲になった。特に奥地に

送られたFフォースでは七〇六二名中三〇九六名(四四%)が犠牲にな

った。

 この泰緬鉄道だけでなく、日本軍は連合軍捕虜に強制労働をさせ、極

端に劣悪な環境においた。そのため東京裁判の判決によると、日本軍の

捕虜になった連合軍兵士一三万人余りのうち三万五千人(二七%)が死

亡した(中国軍や植民地軍を除く)。ドイツ軍の捕虜になった英米将兵

の場合の死亡率が四%だったことに比べ、日本軍の捕虜の扱いが極めて

ひどかったことがわかる。捕虜になることを認めず必ず玉砕することを

強制する人命軽視の体質、捕虜を人道的に扱うことを定めた国際法の無

視などに原因がある。

 泰緬鉄道の建設には、捕虜以外にもビルマ、タイ、マレー半島、ジャ

ワなどからたくさんのロウムシャを連れてきた。その数は二〇万人以上

と言われている。ビルマをはじめ各地では地方ごとに人数が割り当てら

れて集められた。日本軍による強引なロウムシャ狩りもおこなわれた。

あるいは金になる仕事だとだまされて応募した人も多かった。鉄道の建

設現場でのひどさは捕虜と同じか、あるいはもっと劣悪だった。その犠

牲者は少なく見積もっても四万二千人、イギリスの史料では約七万四千

人と推定している。マレーシアにいる宋日開さんの場合、一緒に行った

七八〇人のうち戦後、一緒に帰ってこられたのは四九人だけだった。

 こうして枕木一本に一人と言われるぐらい犠牲を出した泰緬鉄道は「

死の鉄路」と呼ばれるようになった。現在、鉄道は平地の一部が使われ

ているだけで、多くはジャングルの中に飲み込まれてしまっている。

 

9 オーストラリア

 

 日本の侵略戦争を裁いた東京裁判にあたって、昭和天皇を被告として

訴追するように主張したのはオーストラリアだけだった。また東京裁判

の裁判長を務めたウェッブはオーストラリア人であり、天皇を免責した

ことを批判した意見書を出している。オーストラリアが天皇の戦争責任

を厳しく追求しようとした背景を考えてみよう。

 オーストラリアの北の町ダーウィンは一九四二年二月一九日日本軍機

の空襲を受け、二四三人の犠牲を出した。これはオーストラリア本土が

外国の軍隊によって攻撃された史上唯一の経験である。

 また実際にはおこなわれなかったが、日本軍の中央はシドニー、メル

ボルンなどをペスト菌で攻撃することを検討していた。

 日本との戦争でのオーストラリアの犠牲は、戦死・行方不明九四七〇

名、ほかに捕虜二万二三七六名中八〇三一名が死亡、計一万七五〇一名

である。ダーウィン空襲の犠牲者はこれには含まれていない。

 捕虜の犠牲者の約三分の一は泰緬鉄道でのものだが、もう一つ忘れて

はならないのが、サンダカン「死の行進」である。一九四三年九月ボル

ネオ島東北の町サンダカンにはオーストラリア兵千八百名と英兵七百名

、計二千五百名の捕虜が集められおり、日本軍の飛行場建設に使われた

。しかし途中から食糧の配給が大幅に減らされ、栄養失調と病気による

犠牲者が相次いだ。四五年に入り、米軍の上陸の可能性が高まると日本

軍は捕虜をボルネオ島の西海岸に移すことを決定した。しかし海も空も

米軍に握られていたため、道のないジャングルと湿地帯の地域約四百キ

ロを歩かせることにした。三つのグループに分けて移動させたが、日本

軍は歩けなくなった捕虜を次々に銃殺していった。特に第三グループは

病弱者ばかりだったので、ジャングルの中で全滅した。西海岸にたどり

ついた者もそこで強制労働によって次々に死に、一方サンダカンに残っ

た重病者たちは全員処刑された。こうして二千五百人のうち戦後まで生

き残ったのはわずか六人だけだった。

 実はこの行進で日本兵の中からも多くの犠牲を出している。「敵国」

の人間の命をないがしろにする日本軍は同時に自国の兵士の命をも軽視

していたことがはっきりと示されている。

 こうした戦争体験はオーストラリア人の中の対日観にある影響を与え

ており、最近の日本人によるオーストラリアの土地の買占めなどに対す

る反発とオーバーラップしてくることがある。

 ところでオーストラリアはかつて人種主義をとり、白人中心の国だっ

た。しかし最近はアジアの人々を受入れ、様々な民族が共存できる国を

めざしている。日本軍に虐待された捕虜たちは、住民から食糧を分けて

もらったり、脱走を助けられたり、様々な助けを受けた。そうしたアジ

アの人々の優しさへの感謝が、オーストラリアの変化の原点にあるので

はないかと指摘されている。

 

10 資源の収奪と経済生活の破壊

 

 東南アジアはイギリス、フランス、オランダなど植民地宗主国とアメ

リカとの間で世界的な貿易のネットワークを作っていた。たとえば英領

マレーでは、ゴムとスズをアメリカに輸出し、タイから米を、イギリス

から工業製品を輸入するという貿易構造だった。基本的に東南アジアか

ら原材料を輸出し、欧米から工業製品を輸入する構造だが、宗主国との

二国間ではなく多角的な構造になっていた。

 ところが日本の占領により、このネットワークが寸断された。日本は

東南アジアの原材料を受け入れるだけの工業力はなく、工業製品を提供

できる能力もなかった。英領マレーでは、ゴムとスズの生産は減少し、

一方米の輸入が途絶えて食糧不足になった。工業製品が入ってこなくな

り物不足が深刻化した。そうした中で日本軍は軍票(占領地で発行した

紙幣)を流通させた。普通、紙幣には番号が付けられ、経済状況にあわ

せて発行量が調整されるが、軍票には番号がない。そして必要な物資の

買い付けのために軍票を乱発したのですさまじいインフレが襲った。シ

ンガポールの物価指数は、開戦時の一九四一年一二月を一〇〇とすると

、翌年一二月には三五二、四四年一二月には一〇七六六、四五年八月に

は三五〇〇〇と三五〇倍になっている。特に米は開戦時、六〇キロが五

ドルだったのが、四五年六月には五千ドルと一千倍になっている。

 経済が破綻して職を失い、食糧が不足する中で、人々は庭や空き地を

耕してさつまいもやタピオカを作った。タピオカはキャッサバ(いも)

から作ったでんぷんであり、マレーシアの人々は、日本占領時代を「タ

ピオカ時代」と呼んでいる。

 さらに各地で日本軍によって、ロウムシャとして強制的にかり出され

働かされた。働き手である青壮年の男子が奪われたことも人々に大きな

打撃だった。

 一方、日本軍とともに日本の商社や企業も次々と東南アジアに進出し

、欧米の企業が持っていた鉱山や施設を自分たちのものにしていった。

日本はそこで得られた資源を獲得することが目的だったが、戦況の悪化

によって日本への船が沈められ、期待通りには行かなかった。しかし、

地元の住民が苦しんでいる中でも、日本兵や日本人は支配者としての生

活を謳歌していた。戦争末期のシンガポールでは「ビルマは地獄、昭南

天国」と言われ、将校や商社員たちが日本料亭に入りびたり、軍慰安所

には兵隊たちが行列をなしていた。

 日本軍による住民虐殺・虐待、憲兵による拷問などと経済生活の破綻

などがあいまって、「大東亜共栄圈」の実態が人々にはっきりとわかっ

てしまった。「大東亜共栄圈」は、一握りの日本人の刹那的な繁栄だけ

を意味する虚妄にすぎなかったのである。

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11 インドネシア(上)

 

 日本が東南アジアを占領した大きな目的が「重要国防資源」の獲得だ

ったことはすでに紹介したが、その中で最も重要視されていたのが石油

だった。その石油の最大の供給地がオランダ領インド(蘭印)、現在の

インドネシアだった。インドネシアにはほかにもボーキサイト、ニッケ

ル、マンガンなど資源がたくさんあった。

 インドネシアを占領した日本軍は、すべての政党を解散させ、民族旗

・民族歌を禁止し日の丸と君が代を強制した。さらに「アジアの光ニッ

ポン、アジアの守りニッポン、アジアの指導者ニッポン」という3A運

動を組織した。オランダが民族運動を徹底して弾圧していたので、初め

は日本軍を歓迎した人々も日本軍のやり方に失望させられた。その後、

日本は一九四三年五月の御前会議でジャワ、スマトラ、セレベスはマラ

イ、ボルネオとともに「帝国領土」にすることを決定した。もちろんこ

の決定は極秘だった。独立させる気などなかったのだ。

 インドネシアの中では、スマトラが石油の供給地とされ、人口が多く

食糧が豊富なジャワは米と労働力の供給地にされた。

 ロームシャという言葉はインドネシア語になっている。行政機関を通

じて強制的に徴用されたロームシャはジャワ島内だけでなくマレー半島

やビルマ、太平洋の島々にまで連れていかれた。泰緬鉄道をはじめ過酷

な労働や病気、飢えなどにより多くの犠牲を出した。約四〇〇万人がロ

ームシャにされたと言われている。

 インドネシアでよく知られている詩を紹介しておこう。

 ロームシャは何処へ

 ロームシャは何処へ行ってしまったのだろう

 多くの若者が狩り立てられていった

 網にかかった魚のように

 兵補になったものも、ロームシャになったものも、看護婦になったものも

 すべては皆同じ、何処かへ消えてしまった(以下略)

 (後藤乾一『近代日本とインドネシア』より)

 ここに看護婦とあるのは、その名目でだまして連れていかれ「従軍慰

安婦」にさせられた女性たちのことを指している。彼女たちはマレー半

島やボルネオに連れていかれた。特に戦争の末期になり、朝鮮から「慰

安婦」を連れてこられなくなるとジャワの女性が東南アジア各地に送り

込まれた。

 村々には青年団、警防団、婦人会などの組織を作らせ、日本軍に協力

させた。一〇〜二〇軒ごとに隣組が作られ、相互監視の下でロームシャ

や食糧の供出が強行された。こうして人も物もすべて日本軍の戦争遂行

のために動員されていった。

 

12 インドネシア(下)

 

 日本にとって戦況が悪化し、サイパンが米軍の手に落ち、次はフィリ

ピンという段階になるとインドネシアは完全に後方に取り残される形と

なった。日本本土との連絡も難しくなってきた。

 そうした中で日本軍は人員不足を補うために兵補の制度を作った。兵

補は一応軍人だが、実際にはロームシャと同じように使われた。その数

は四〜五万人と見られているが、敗戦とともに放り出され、賃金の三分

の一は強制貯金させられたまま返らなかった。またインドネシアの防衛

のためという名目で郷土防衛義勇軍(ペタ)を作り日本軍を補助させよ

うとした。

 インドネシアの人々の協力を得るために一九四四年九月になってよう

やく日本は近い将来インドネシアに独立を与えることを表明した。日本

軍はスカルノなどの民衆に人気のある民族運動の指導者を利用しようと

し、一方スカルノなどは表面的には日本軍に協力しながら、その影響を

広めようとした。

 その一方、連合軍の反撃の前にインドネシア住民が連合軍に通じてい

るのではないかと疑心暗疑になった日本軍は、ポンティアナ事件やババ

ル島事件のような住民虐殺を引き起こしていった。ボルネオ島西海岸の

ポンティアナでは、独立国家建設を計る抗日陰謀事件だとして、一九四

三年から翌年にかけて約一五〇〇名を検挙し、処刑した。チモール島の

東のババル島では、食糧やタバコの強制的な供出を強いられ、横暴な日

本軍に耐えかねた島民が蜂起し、山に立てこもった。日本軍の呼びかけ

に山を下りてきた島民を日本軍はまとめて射殺した。犠牲者は七〇〇人

とも四〇〇人とも言われている。

 日本軍の過酷な占領に対する激しい抵抗も次々に起きた。その代表的

な事件が、一九四五年二月に起きたブリタル(東部ジャワ)の郷土防衛

義勇軍による反乱である。日本軍による食糧やロームシャの厳しい徴発

、横暴な態度に怒ったブリタルの義勇軍が反乱を起こしたが、数日後に

日本軍に鎮圧された。日本軍に訓練されたこの義勇軍の反乱はインドネ

シアでは高く評価されている。反乱の指導者スプリヤディは行方不明に

なったが、その栄誉を讃えて独立したインドネシア共和国の初代国防大

臣に任命された。このように日本軍の支配の矛盾が各地で噴き出してい

った。

 日本軍の下で独立の準備を進めていたスカルノなどの指導者は日本の

敗戦後の八月一七日に独立宣言を発表し、オランダとの独立戦争に備え

ることになる。

 インドネシアのあるジャーナリストは次のように言っている。「日本

人の中には、いまだにインドネシアの独立は日本の援助によってなされ

たのだ、と公言してはばからぬ人がいる。違う!私達は自ら闘ったのだ

。あらゆる障害と闘って、独立を克ち得たのだ。」(ヘラワティ・ディ

ア)

 

13 フィリピン(上)

 

 一六世紀から始まるスペインによる植民地支配に対して、一八九六年

フィリピン革命が始まり九九年にはフィリピン共和国を樹立した。しか

しスペインにかわって介入してきたアメリカ軍によって鎮圧され、アメ

リカの植民地にされてしまった。しかし植民地を持つことについてアメ

リカ国内でも批判が強く、アメリカはフィリピンのアメリカ化を進める

一方、一九三五年フィリピン・コモンウェルス政府(独立準備政府)が

樹立され、一九四六年に独立することが約束された。

 そうしたところに日本軍が侵攻したのである。ケソン大統領はいち早く

脱出してアメリカに亡命政府を建てた。またフィリピンとアメリカの軍

隊の連合隊である米比軍(ユサッフェ)司令官マッカーサーも「私は必

ず帰るI shall return」という有名な言葉を残して脱出した。

 一九四二年四月バターン半島、五月コレヒドール島の陥落により主な

戦闘は終わった。この時日本軍は約七万六千人を捕虜にしたが、彼らに

ろくに食糧や水を与えないまま炎天下を歩かせ、収容所に着くまでに約

一万七千人が死亡した。これは「バターン死の行進」と呼ばれ、日本軍

の残虐さを表す象徴的な出来事とされている。

 しかしその後、各地でユサッフェ・ゲリラが組織されその数は三〇数

万人にのぼった。ほかにフィリピン共産党が組織したゲリラ組織フクバ

ラハップがあった。ルソン島中部を拠点として日本軍追放と農地解放を

掲げて住民を組織し、常備軍二万人、在郷軍三万人と言われる強力なゲ

リラ活動をおこなった。

 フィリピンを占領した日本軍は政党を禁止し代わりにカリパピ(新生

フィリピン奉仕団)を組織させ、地域の末端には隣組を作らせて、住民

相互に監視させた。憲兵による拷問・虐待はフィリピンでも恐れられた

。日本兵による強姦掠奪などの非行も頻繁におこった。このことは陸軍

中央の会議でも「比島方面においても強姦多かりし」と東南アジア方面

では最も日本軍による強姦事件が多いとくりかえし問題にされるほどだ

った。ただ「支那事変に比すれば少い」とされており、中国でのひどさ

が推測される。

 ところでフィリピンは重要な資源が少なく、日本軍にとっては東南ア

ジアへの中継地として軍の行動の自由が確保されればよかった。またす

でにアメリカによって独立が約束されており軍政を続けることは都合が

悪かった。そうしたことからフィリピンの独立を認め、一九四三年一〇

月にフィリピン共和国が成立した。しかし「帝国軍隊の為一切の便宜を

供与」させられ、日本軍による支配に変わりはなかった。フィリピン独

立準備委員会(PCPI)は、「どうぞフィリピンの独立を取り消して

くださいPlease Cancel Philippine Independence」と皮肉られるほどだった。

 

14 フィリピン(下)

 

 米軍の来襲に備えて、一九四四年夏より日本軍が増強された。それま

で警備用の部隊しかいなかったのに米軍に決戦を挑むために五〇万人を

超える大部隊が配備された。ところがこれらの部隊による強姦事件が頻

発し、さらにゲリラ討伐の名によって住民を虐殺する一方で若い女性を

拉致して強姦し「従軍慰安婦」にしていくことが相次いだ。

 米軍は四四年一〇月にレイテ島、翌四五年一月にルソン島に上陸し、

それに呼応して各地のゲリラも立ち上がった。フィリピンのゲリラは強

力であり、日本軍の被害も大きかった。そのため米軍とゲリラに挾撃さ

れた日本軍にとってはフィリピン人すべてが敵に見えたのだろう。ルソ

ン島南部のバタンガス州などでは、ゲリラの協力者も粛清せよとの命令

が出され、各地で村民を集め虐殺していった。リパでは、米軍に協力し

ている疑いのある村の男子を通行許可書を渡すという理由で集め、一〇

人ずつ銃剣で刺して崖の上から突き落とし、約八〇〇人を虐殺した。戦

後におこなわれた戦争裁判の史料によるとリパで虐殺された人は一万二

千人以上にのぼるとされている。

 四五年二月米軍が迫ってきたマニラでは、海軍部隊が住民を教会や大

学に集めてダイナマイトで爆破したり、機関銃で撃ち殺した。これらは

マニラの大虐殺として知られている。

 米軍の前に日本軍は敗退していった。しかし日本兵は敗北が決定的に

なりながらも降伏を許されず、補給も受けられなかったため、敗走しな

がら住民から食糧を奪ったり虐殺をおこなった。日本兵が山に逃げてき

た民間の日本人を襲うこともあった。パナイ島では、足手まといになる

と老人や女性子どもら数百人が、日本軍の手によって手榴弾や機関銃に

よって殺害されることさえあった。

 フィリピン民衆に対して残虐行為をおこなう一方、日本軍も約五〇万

人近い犠牲を出した。日本軍にとって東南アジア戦線で最大の犠牲だっ

た。フィリピン人の生命を軽んじた日本軍は、日本人の兵士や民間人の

生命をも軽んじた軍隊だった。

 フィリピン政府の調査によると、戦争による犠牲者は一一一万一九三

八人(戦前の人口約一六〇〇万人)、戦争被害の総額は一六一億五九二

四万八〇〇〇ペソ(一九五〇年価格で約八〇億八〇〇〇万ドル)にのぼ

っている。フィリピンは全土が日米両軍の戦場になったために被害が大

きいが、虐殺や強姦などによる犠牲者は東南アジアでは最も多いのでは

ないかと見られる。

 フィリピンの小学校の歴史教科書の中で「フィリピンの歴史における

暗い時代は私たちの国を日本国が占領した時です」と書いてある。スペ

イン、アメリカ、日本のフィリピンを支配した三国の中で日本時代は最

もひどい時代と記憶されている。

 

15 「従軍慰安婦」

 

 日本は一九三一年満州事変を起こすと翌年に上海にも戦線を拡大した

。この時、上海に日本軍慰安所が開設されたのが最初である。その後、

一九三七年に中国への全面的な侵略戦争を開始し、まもなく南京大虐殺

をひきおこした。この過程で日本軍はすさまじい強姦事件を続発させ、

軍内部でも問題にされた。そこで日本軍は部隊の移動に応じて中国の各

地に慰安所を開設し、将兵の性の処理をさせた。

 「従軍慰安婦」として日本人も連れていかれたが少なすぎることと日

本人女性を大量に慰安婦にすると社会問題になることを恐れて、朝鮮女

性を多く集めた。当時の朝鮮は長年の植民地支配の下で疲弊しており、

かんたんに貧しい家の少女を集められる状況だった。朝鮮総督府や警察

の協力の下に軍から依頼を受けた周旋業者がだましたり脅したりして少

女たちを集め、中国の慰安所に送っていった。中には強引な人狩りのよ

うな手段も用いられたと見られている。慰安所へ連れられる途中、ある

いは着いてから、少女たちはまず強姦されたうえで慰安婦にさせられた

。また中国の各地でも日本軍は地元の女性を慰安婦にしていった。そこ

では朝鮮以上に軍によって暴力的に女性が集められた。

 アジア太平洋戦争が始まり東南アジアを占領した日本軍は各地に慰安

所を設けた。陸軍省自らも開戦前から慰安所の設置を計画しており、占

領した地域にはすぐに慰安所が開設された。東南アジアの慰安所には、

日本や朝鮮、さらに中国・台湾の女性も連れてこられたが、地元の女性

も多数が慰安婦にさせられた。その女性の出身地は、フィリピン、マレ

ーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、ベトナム、ビルマ、イン

ド、太平洋の諸地域、インドネシアにいたオランダ人などほぼ日本軍の

占領地全域に及んでいる。

 その際に地元の有力者に慰安婦集めを強要したり、ウェイトレスや事

務員だと言ってだまして集め強姦して慰安婦にしたりしている。また特

にフィリピンをはじめ、日本軍が各家に押し入り、女性を暴力的に拉致

し輪姦してから慰安婦にするケースが多数報告されている。インドネシ

アでは日本軍に抑留されたオランダ人女性の中から二〜三百人が慰安婦

にさせられている。

 残されている断片的な史料や関係者の証言から、東南アジア地域での

「従軍慰安婦」は地元の女性が最も多かったと推定される。

 慰安婦たちは軍の管理の下で、時には一日に何十人もの相手をさせら

れ、いやがると暴行を受けた。慰安婦の状況は性奴隷といっても過言で

はなかった。慰安所制度とは、軍による組織的な強姦輪姦の制度だった

。元「従軍慰安婦」だったことがわかると白眼視される社会のもとで、

東南アジアの元慰安婦の人たちの実態はあまりわかっていない。もちろ

んその犠牲に対して何ら償われていないままである。

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16 太平洋諸島

 

 ミクロネシアの島々は戦前は南洋諸島と呼ばれ、日本の統治下におか

れていた。これらの島々にも日本軍が配置されていた。島民はロームシ

ャとして駆り立てられ、食糧を供出させられた。特に日本の戦況が悪化

すると外部との連絡が途絶え、多くの日本兵が駐屯していたため食糧難

に陥った。また米軍に通じているとして疑いをかけられ、殺された人も

多い。これらの島々はかつてのスペイン統治の影響でカトリック教徒が

多く、グアムやロタでは白人の神父がスパイ容疑で処刑されている。

 グアム島はアメリカ領だったので、地元のチャモロ人は日本に反感が

強かった。一九四四年七月米軍が上陸する直前にメリーソン村で、米軍

に通報したという理由で一六人が捕らえられ、手榴弾で殺された。さら

に三〇人も同じようにして殺された。その一方、村にいた日本兵と在留

邦人たちが村の男たちを監禁したうえで若い女性を一人ずつ連れ込み泊

まらせた。その直後にメリーソン村の日本人は、地元民に荷物を担がせ

て避難を始めたが、その途中、地元民に襲われ一一人が殺される事件が

おきた。

 マーシャル諸島のミリ環礁のルクノール島では、島民が逃げ出して米

軍に情報を漏らすことをおそれて厳しく監視されていたが、その中で一

人が逃亡した。そのため同じ防空壕に住んでいた家族など約二〇人が処

刑された。チェルボン島では食糧の強制的な供出に抗議した首長が日本

軍に殺されたため、島民は朝鮮人軍属と一緒に反乱を起こしたが、鎮圧

され朝鮮人約六〇人と島民三〇〜四〇人が殺されるという事件が起きた

。ミリ環礁全体では五つの島で虐殺があり二〇〇人近くの犠牲者が確認

されている。

 日本軍が占領していたニューギニア島北側のティブンケ村では、住民

がオーストラリア軍に通じているとみなした日本軍が住民を集め、その

中の男たちを銃剣や軍刀でさらに機関銃で殺していった。現在九九人の

犠牲者の名前が確認されている。さらに日本軍は、親日派の他の村の男

たちにティブンケ村の女性たち約六〇人を集団で強姦させた。何人かの

少年は初めは男たちと一緒に紐でつながれたが幸い釈放され、彼らが虐

殺の目撃者となった。

 日本軍が駐留していた各地の島々で、敵に通じているという疑いや食

糧を盗んだという理由で住民が拷問・処刑され、時には集団虐殺される

事件がたくさん起こっていたと推測される。さらに米軍が上陸してきた

場合には、激しい爆撃や艦砲射撃、地上戦により住民にも多くの犠牲が

出た。サイパンやテニアンなどでは、降伏を許されず、追い詰められた

在留邦人が絶壁から身を投げたり手榴弾で「自決」したことは有名だが

、こうした太平洋の島々の人々に日本軍が与えた被害については、ほと

んど忘れられたままである。

 

17 インド

 

 インドはイギリスにとって最も重要な植民地だった。一九三九年に第

二次世界大戦が始まるとインドもイギリスの下で戦争に加わり、イギリ

ス軍のために膨大な兵士を提供した。また北アフリカから西アジアのイ

ギリス植民地に食糧を供給する役割をはたした。その一方でビルマが日

本軍に占領されたためビルマからの米の輸入が止まり、食糧難になりイ

ンフレが進行した。

 日本との戦争が始まると、インド領であるベンガル湾のアンダマン・

ニコバル諸島が一九四二年三月日本軍に占領された。最前線のこの島々

は連合軍の工作の対象となり、そのため住民がスパイを働いているとい

う疑いをもった日本軍による住民への拷問、虐殺がおこなわれた。

 さらに日本軍はセイロンのコロンボ、南インドのヴィサータパトム、

コークーナーダー、マドラス、東インドのカルカッタ、チッタゴン、マ

ニプールなどの都市に対して無差別爆撃をおこない、住民に多数の犠牲

者を出した。こうした爆撃に対して、インドの人々から厳しい批判がお

こなわれた。

 一九四三年から四四年にかけて、日本軍占領によりビルマからの米輸

入が途絶えたこと、イギリス軍が日本軍の侵攻に備えて牛車や小舟など

の輸送手段を徴発する一方で食糧輸送の手立てを行わなかったことなど

からベンガル地方で大飢饉が起きた。これにより一五〇万人(一説には

三五〇万人)とも言われる人々が餓死した。日本がおこなった戦争とイ

ギリスの植民地支配が増幅して被害を生み出した飢饉だった。

 日本軍はマレー戦線などで捕虜にしたインド人兵士を再組織してイン

ド国民軍を編成した。さらにドイツに亡命していた元会議派の指導者ス

バス・チャンドラ・ボースを潜水艦でマレー半島に呼び寄せ、彼を首班

とするインド仮政府を作り、イギリスの植民地当局をゆさぶった。そし

て一九四四年のインパール作戦にインド国民軍も参加させたが、インド

の人々はこの動きに呼応することなく、日本軍は敗退していった。

 一方、インド国内ではガンジーやネールなどを指導者とする国民会議

派などのによる強力な民族運動が展開されていた。会議派は一九四二年

八月、反ファシズムの戦争に勝利するためにもイギリスはインド植民地

支配を終わらせるべきだというインド退去要求決議をおこない、日本の

侵略に反対する姿勢とともに即時独立を要求した。会議派は、日本によ

る侵略に苦しめられてきた中国と友好関係を深めており、反帝国主義反

ファシズムの立場をとっていた。ただその姿勢はイギリスに対しても向

けられたためイギリス当局の弾圧を受けた。しかし戦争中を通しての独

立運動を続け、戦後、イギリスはインドの独立を認めざるをえなくなっ

たのである。

 

18 日本の敗戦と各国の独立

 

 八月一五日の日本の敗戦をむかえて、日本人のあいだでは虚脱感が広

がっていた。戦争に批判的だった一部の知識人の中には日本の敗北を予

想し、それを歓迎していた人々もいたが、それは一部にすぎなかった。

 中国の重慶に日本の敗戦が伝えられると群衆が街にあふれ、爆竹が鳴

り響き、抗日戦争勝利の歓声が続いた。中国でも朝鮮・韓国でも八月一

五日は「光復」の日、つまり暗黒の世界から解放され光が戻ってきた日

とされている。

 シンガポールでは日本の降伏が人々に知らされたのは一七日のことだ

った。人々はカタカナを消して店の看板を書き直し、日の丸を投げ捨て

た。中国、アメリカ、イギリス、など連合国の旗が町になびき、歓喜に

わいた。イギリス軍がシンガポールに上陸した九月五日には港からイギ

リス軍司令部が入るキャセイビルまで五キロにわたって歓迎の人々であ

ふれ、「祖国万歳」「連合国万歳」などと書いた旗やのぼりを持ってパ

レードをくりひろげた。

 日本軍に支配されていた人々にとって八月一五日は解放の日だった。

もちろんそれはすぐに独立を意味していない。インドネシアでは、八月

一七日に独立宣言を出して、その後四年にわたるオランダとの独立戦争

をへて一九四九年に独立をかちとった。

 ビルマでは、ビルマ国軍が日本軍に反旗を翻して連合軍とともにビル

マを解放していた。イギリスは植民地復活をあきらめ一九四八年にビル

マは独立した。

 ベトナムでは八月一三日ベトミンが全国総決起をよびかけ、自力で全

土を解放し、九月二日ベトナム民主共和国の独立を宣言した。そして独

立戦争をへて一九五四年ついにフランスを敗北させたが、今度はアメリ

カが介入してきたため、完全独立はベトナム戦争でアメリカを破った一

九七五年になった。

 インドネシア、ビルマ、ベトナムでは日本軍の占領下で、表面的に日

本軍に協力したり、あるいは明確に抵抗した民族運動が力をつけ、日本

軍と戦い、さらに植民地復活をねらう宗主国と戦って独立をかちとって

いった。これらの地域では宗主国の復帰は歓迎されなかった。

 一方、マレー半島とフィリピンではイギリス軍やアメリカ軍は歓迎さ

れた。ここでは宗主国が話し合いで独立を認めたので独立戦争を経るこ

となく独立をかちとった。

 日本の侵略戦争に対し、時にはそれを利用し、最後には正面から戦っ

て独立を導いた民族運動こそが独立の主体だった。

 シンガポールの小学校の教科書は次の言葉で日本支配時代の章を閉じ

ている。「占領はすべての人にとって大きな苦難であった。しかし、そ

れはある貴重な教訓をもたらしてもくれた。(中略)これによって日本

の支配より西洋の支配の方がまだましだが、自主独立の方がもっとすば

らしいであろうということを、彼らは悟ったのである。」

 

19 賠償―解決されていない戦争責任

 

 日本を占領した連合国は、日本を徹底的に非軍事化民主化しようとし

た。ところが冷戦が始まるとアメリカは日本の戦争責任をあいまいにし

、反共のために日本の経済力を利用する政策に転換した。その結果、サ

ンフランシスコ平和条約では、連合国は原則として賠償を放棄し、ただ

例外的に日本軍に占領され損害を受けた国が希望する時は、日本は「役

務」の提供という形で賠償を支払うことが決められた。

 この条項に従って、日本は一九五四年ビルマ、五六年フィリピン、五

八年インドネシア、五九年南ベトナム、とそれぞれ賠償協定を結んだ。

カンボジア、ラオスは賠償請求権を放棄し、その代わりに無償援助を受

けた。タイ、マレーシア、シンガポール、韓国、ミクロネシアへは賠償

に準ずる無償援助や経済協力がおこなわれた。台湾、中国、ソ連、イン

ドなどは賠償を放棄した。北朝鮮とはまだ国交がなく賠償問題も解決し

ていない。

 これらの賠償・準賠償については多くの問題が含まれていた。日本側

には侵略戦争への反省がまったくなかった。特に東南アジアの人々に深

刻な被害を与えたという認識はほとんどなかった。財界では賠償を日本

製品の輸出、日本企業の経済進出の機会に利用しようとした。「賠償か

ら商売へ」という言葉が流行るほどだった。

 賠償の内容を見ると、たとえばビルマに対しては、水力発電所の建設

と四大プロジェクトつまり大型自動車、小型自動車、農機具、家庭電器

の工場の建設運営に使われた。日本企業は国内の工場からこれらの工場

に部品を提供し、それらの製品の市場が開拓されていった。

 さらに賠償が政治的に利用された。たとえばベトナムは当時南北に分

断されており、アメリカは南の反共政権を後押ししていた。日本軍によ

る被害は北に集中していたが賠償は南に対してのみなされた。しかも賠

償のほとんどが水力発電所の建設に使われた。この計画は実は日本のコ

ンサルタント会社が計画を作り、南ベトナム政府を通じて、日本政府に

要求したものだった。日本企業が自らの利益のために事業計画を作り、

相手政府を通じて日本政府に資金の供与を求めるという方法がとられた

。この方法はその後の政府開発援助(ODA)に引き継がれている。

 また賠償の一部が日本と受入れ国の政府要人にリベートとして流れて

いる疑惑がある。

 賠償は実際の戦争犠牲者にはまったく渡らなかった。少なくとも侵略

戦争を償う賠償としてはふさわしくなかった。

 賠償を受けたアジア諸国は独立後まもなく、それぞれ困難な状況にあ

り、人々の自由は制約されていた。そのため被害者たちの声は賠償交渉

に反映されなかった。日本は冷戦を利用して真の賠償を避け、日本の経

済成長のために「賠償」を利用してきた。そのことが冷戦が終わった今

日、あらためて問題にされているのである。

 

20 今日の日本と東南アジア

 

 いよいよこの連載も最終回を迎えた。日本の東南アジア侵略の負の面

ばかりを見てきたという印象があるかもしれない。しかし侵略戦争とは

まさにそうしたものでしかないことをまず理解する必要がある。もちろ

ん歴史はダイナミックなもので意図と結果が異なることはいくらでもあ

る。東南アジアを日本の支配下に置こうと意図して始めた戦争が、結果

として西欧の宗主国の力を弱め、さらに日本も敗北したことにより、独

立に有利な条件を生み出したと言える。しかしそれは結果論にすぎない

。比喩的に言えば、力の弱い人が、二人の強盗(宗主国と日本)のけん

かを利用して両者の力を弱め、自らの力を蓄え、ついに二人の強盗を追

い出して独立したということだろう。もちろん強盗のうち日本の方が残

虐だったことも忘れてはならない。東南アジアの人々の主体的な努力こ

そが独立をかちとる原動力だった。日本が独立を与えたという議論は、

東南アジアの人々は自力で立ち上がれない劣った人々だという、ごうま

んな意識の表れではないだろうか。東南アジアの人々を見下した意識は

、侵略戦争への反省がないまま克服されずに残ってしまっている。

 日本企業の進出、観光旅行など日本人が東南アジアへ出かける機会は

急速に増えているし、東南アジアの人々も日本にたくさんくるようにな

った。こうした中で二つの傾向があるように思う。

 一つは日本の経済大国化をバックに優越感とごうまんさが増長される

傾向である。東南アジア諸国の一部の経済発展が注目されているが一方

で貧困、内戦など汚い暗いイメージも強くある。カンボジアの内戦をめ

ぐって日本では「国際貢献」が議論されるようになったが、そこでは大

国の力を借りなければ自立できない人々というイメージがふりまかれ、

平和で豊かな日本がかわいそうな人々のために何かしてあげなければ、

という議論が主流だった。相手を見下しているのではないか。

 こうした傾向とは別の流れも育ってきている。バングラデシュで活動

をしているシャプラニール=市民による海外協力の会の次の言葉は印象

的だ。「(バングラデシュの)農民と接していく中で、若者たちは、彼

らが本当に欲しているものは同情や哀れみや、それを起点とする“援助

”ではないことに気づく。“援助をする”というのは豊かな国に住む者

の奢りでしかない、との反省にたどりつくまでに、そう多くの時間を必

要としなかった。」(『NGO最前線』)

 一九八〇年代から広がってきたNGOの活動、戦争責任・戦後補償や

日本のODA、熱帯雨林問題などアジアと日本にかかわる様々な問題に

取り組む人々が増えてきた。それらの人々には、国家の威信をバックに

するのではなく、相手を見下すのでもなく、同じ人間として理解しあい

共感と信頼を育て、共に生きていこうとする姿勢が見られる。近代以来

の東南アジアへの歪んだ関わり方を克服し、平和と人権をベースにした

人間関係を築いていこうとする人々の努力に期待したい。

 

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