林 博史『華僑虐殺ー日本軍支配下のマレー半島』
                  すずさわ書店、1992年

 

序章 虐殺の証人たちのヒロシマへの旅


 戦争に関する、私の最初の本の序章を掲載します。もう17年もたちますが、私の戦争研究の出発点となった本です。マレーシアのネグリセンビラン州を、体験者を探して歩き回り話を聞いて回ったことはいい経験でした。ここでの調査研究の経験はその後の自分自身にとって貴重な糧になっています。本書はすでに絶版で、手元にも保存用しか残っていませんので、この序章だけでもここに掲載します。 2009.4.1記


虐殺の証人たちのヒロシマへの旅  

 一九八八年八月一七日、五人のマレーシア人( 華人)が広島を訪れた。その五人はいずれも戦争中、日本軍によって家族を殺され、当時まだ一○歳前後のこどもであった彼ら自身も殺されかけた体験の持ち主だ。五人のうち四人は体に銃剣で刺された跡がいまだに残っている。いずれもマレーシアのネグリセンビラン州の人で、一千人あまりの村が日本軍によって抹殺され、同州で最大の犠牲者を出したイロンロン村出身の蕭嬌さん(六○歳)、六七五人が殺されイロンロンについで多くの犠牲者を出したカンウェイ(パリッティンギ)村から蕭文虎さん(五三歳)、楊振華さん(五五歳)、呉旺さん(五八歳)、ゴム園の住人が皆殺しにされたダンギから張友さん(五八歳)の五人だ。

 五人はこの日、まず広島城の堀の東側に建っている歩兵第一一連隊跡の碑に立ち寄った。ネグリセンビラン州で彼らの家族や同胞を虐殺したのが、ここに本部があった第一一連隊だったからだ。そこにはかつての連隊の入口正門の石柱が「原爆被災の中で残存し得た唯一の遺跡」として建てられ、その側に戦友会である歩十一会の名で「歩兵第十一連隊略歴」が刻まれた碑が建っている。この碑文のなかでは「昭和十六年十二月八日大東亜戦争勃発、マレー作戦に参加し、のち南太平洋諸島に転戦中、昭和二十年八月十五日終戦となる」とさらりとふれてあるにすぎないが、碑文の最後には「この間、昭和十二年日支事変以降、歩兵第十一連隊、槍部隊、開部隊、望部隊、西部第二部隊等を創設、各々勇戦奮闘、克く郷土部隊の名声を高揚した」と武勲を讃える内容となっている。はじめは何だろうかという感じで見ていた五人が、碑の説明を聞くとこわばった顔になり、にらむように碑を見据えていた。

原爆は日本が招いた  

 次に平和公園にむかった。そこで原爆慰霊碑に「マレーシア虐殺村受難者一同」と書かれた花輪を捧げ、さらに韓国人原爆犠牲者慰霊碑と原爆供養塔に拝礼してから、原爆資料館を参観した。資料館では、原爆投下直後の状況を再現したパノラマや原爆被害を示す展示物の前で、顔をこわばらせながら熱心に見入っていた。参観をしたあとで被爆者の方たちと交流の場をもった。そこで原爆についての絵を見て、「殺されたのは戦争にいっていない女性と子どもばかりで非常にかわいそうに思う」「平和の大切さを心から感じます」と話していたが、話の途中で五人のなかの一人が「原爆が投下されたことをどう思いますか」という質問を被爆者の人にぶつけた。それに対して「アメリカはどうして原爆をおとさなければならなかったのかと思う」とアメリカを批判する答えをした。その答えが通訳されると彼らはせきを切ったように次々と鋭い調子で「マレーシアの人々がなぜ虐殺されなければならなかったのか」「南京、マニラ、シンガポール、マレーなどで虐殺をおこなわなければ、原爆は落とされなかったはずだ」「原爆がなければマレーやアジアの犠牲者がもっとたくさんでていたと思う 」「原爆がなければ自分は殺されていて、こうして日本へくることもできなかっただろう」など厳しい反論を加えた。それ以上になにか言っていたようだが、同時にしゃべるので通訳されなかった部分も多かったようだ。このきっかけとなった質問が漠然としていてどう答えていいのかわかりずらかったこともあり、批判された被爆者の方には気の毒な感じがしたが、それにしても日本の「加害」、つまり原爆投下を招いた日本の責任について語らず、原爆投下のみを批判することに対して、彼らの見せた厳しい態度が強く印象に残った出来事だった。

 この五人は「アジア太平洋地域の戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む会」実行委員会(松井義子実行委員長)の招きで来日したもので、八月一二日から一五日まで東京・大阪など五か所で証言をおこなった(戦争犠牲者に心を刻む会編『アジアの声 第3集』参照)。広島を訪れる二日前の一五日、大阪での集会が終わったあとでかんたんな夕食会があった。その席で「ヒロシマを語る会」の一員で被爆体験を修学旅行生らに語り続けている沼田鈴子さんが「私は被爆者です。今日のみなさんの話は涙なしには聞けませんでした。日本、特に広島の人が残虐な行為をしたことを深くお詫びします」と語って頭を下げた。その話が終わるか終わらないうちに五人がみな立ち上がり「私たちも悲惨なめにあったので、あなたのうけた悲しみを理解することができます」といって沼田さんに握手を求めた。 女性の蕭嬌さんは沼田さんの肩を抱きしめて涙をうかべていた。私はずっと五人に同行していたがそのなかでもっとも感動した場面だった。

 同じ被爆者に対する態度として、きわめて対照的であった。これは男と女に対する違いもあるだろうが、やはり日本の戦争責任に対する姿勢の違いが、彼らに対照的な態度をとらせたのだろう。原爆投下に対する彼らの受けとめ方には二つの側面がある。ひとつは、日本がアジアを侵略し多くの人々を虐殺したことが原爆投下をもたらせたのであり、原爆はアジアの人々を解放するものであったという認識である。もうひとつは、原爆によって殺された人たちの多くが戦争に直接関係していない女性や子どもたちであり、戦争が起こって被害をうけるのは一般の市民であること、原爆によって殺された人々もまた被害者であるという認識である。つまり同じ戦争の犠牲者であるという共感だ。この感情は原爆資料館を見たことによって、原爆による被害の実態に触れ、強まったように見える。

 原爆資料館でのインタビューや共同記者会見の模様を報道した各社の新聞記事では、いずれも後者の側面が強調された書き方になっている。事実、そういう場ではそのような発言をしていた。しかし、個人的にもっと突っ込んで聞いてみると、確かに女性や子どもたちが原爆の犠牲になったことは悲しいことだが、それは日本自らが招いたことだと突き放して見ているところがある。だから日本の加害責任を問わない議論には厳しい態度を示すのだ。その一方で、日本の侵略を反省する人には非常にやさしく、その人の痛みを理解しようとし、同じ人間としての共感を示すのである。

 原爆がアジアを解放したという議論は、そのまま肯定できるものではない。原爆投下にはアジアの民衆を解放しようとする意図などなく、むしろアメリカによる冷戦のはじまりを告げるものであって、しかも人類の生存を危うくする脅威の兵器の誕生を意味するものだったことはいうまでもない。一瞬にして数万人の命を奪い、その後も何十年にわたって放射能で人々を苦しめる兵器の使用はいかなる理由をもってしても正当化されるものではない。また日本の侵略戦争が原爆投下を招いたものであるにしても原爆投下が肯定されるものではないし、アメリカによる原爆投下の犯罪性・非人道性が免罪されるわけでもない。そのことを確認しつつも、ただ私たちが考えなければならないことは、アジアの人々が原爆投下をアジアを解放してくれたものとして受けとめていることだ。そして彼らにそのように受けとめさせた原因はなによりも日本のおこなった侵略戦争にあるのだ。彼らのそうした認識を解きほぐすためには、日本人が自らおこなった侵略戦争に対する真摯な反省が不可欠である。

 原爆の残虐性を引き合いにだして、それと比べて日本軍のおこなったことを帳消し、ないしは軽視する傾向も一部にあるが、それは自己の責任を棚上げにした議論であり、アジアの人々には受け入れられるものではない。だから核兵器廃絶の声が日本だけでなくアジアの声、世界の声として広がっていくためにも日本がおこなったことへの厳しい自己点検と総括が欠かせないのではないだろうか(拙稿「八・一五はアジアの人々にとっていかなる日か」参照)。

軍都広島  

 広島は日本で平和を語るときにかかせない地名であり、広島という名はたんに一都市の名前にとどまらず、日本の人々の平和への願いの象徴的存在となっている。ノーモア・ヒロシマという言葉は、二度とくりかえしてはならない悲劇として国境を越えて広がってきている。広島という一個の地名を越えて、原爆被害・平和への願いの象徴としての意味をこめるとき、「ヒロシマ」と呼ぶ。

 現在、広島は平和都市広島といわれるようになっているが、原爆投下以前の広島はその名とは正反対の都市だった。明治になってから初めての本格的な戦争は、一八九四年八月に始まった日清戦争だ。その二か月前、現在の山陽本線が広島まで開通した。戦争が始まると広島駅から港のある宇品港までの軍用鉄道が突貫工事で作られ、兵士や武器・弾薬などの軍事物資が広島に集められ、この鉄道を通って宇品港から朝鮮や中国にむけて送られていった。それよりさき、歩兵第一一連隊も宇品港から出兵していった。九月には大本営が東京から広島に移された。広島城内の第五師団司令部の庁舎に天皇が来て大本営を設けた。その建物は原爆で消失したが、その土台は残っていて、その前に「明治二十七八年戦役広島大本営」と刻まれた石柱と「広島大本営跡」という説明のプレートが建っている。 帝国議会も広島にうつってきて、仮の議事堂まで作られた。広島は戦争の出陣基地としての道を歩むことになった。

 広島から海岸沿いに山を隔てた呉は海軍の軍港であり、また海軍工厰があり、沖合いの江田島は海軍兵学校があるという海軍の拠点であった。呉もあわせてみると広島とその周辺は軍とともに発展してきた地域であり、軍都広島と呼ばれるのにふさわしかった。戦前の広島の地図(図)を見るとわかるように市の中心にどっかりと軍がいすわっていた。その後のたびかさなる侵略戦争でも軍都広島はその出陣基地としての役割を果たしていった。こうした広島のなかで、かつての広島鎮台の系譜をひき広島城内に司令部のあった第五師団、その傘下にあって精鋭部隊として日清・日露戦争などで武勲をたてたといわれる歩兵第一一連隊などが郷土部隊として、名を馳せていた。 朝鮮・中国への侵略とともにあった軍都広島の歴史に終止譜をうったのが原爆だった。

被爆者のマレーシア慰霊の旅  

 原爆の問題を考えるうえで、こうした軍都広島の問題を考えなければならないというとらえ方は、広島で平和運動に取り組んでいる人たちのなかで広がってきている。たとえば、広島県教職員組合の平和教育研究所が作成した平和教育用の副読本『ひろしま 一五年戦争と広島(試案)』(一九八六年)はそうした視点で書かれたすぐれた教材である。そのなかで元日本兵は「わたしは、侵略戦争によって多くの中国人をはじめアジアの人びとを殺し、苦しめてきた結果として、原爆の犠牲がもたらされたと思うようになりました。日本が侵略戦争をしていなかったら、原爆は落とされなかったでしょう。だからといって、原爆の非人道性を許すわけにはいきません」と語っている。この副読本は、原爆投下にいたる日本の侵略戦争の問題をきちんとおさえたうえで、なおかつ(あるいはだからこそというべきかもしれないが)原爆のもつ非人道性を告発している。

 しかし、この副読本には第五師団(第一一連隊を含む)がアジア太平洋戦争中にマレー半島でおこなった中国系住民に対する虐殺の事実はまったくふれられていない。それはその事実を無視したのではなく、副読本を作成した人たちがマレー半島での住民虐殺の事実を知らなかったからだろう。だから、マレーシアからきた五人の証人の証言が注目を集め、心ある人々に衝撃を与えたのだった。 しかも五人はみずから進んで原爆慰霊碑に花輪を捧げたいと申し出てそれをおこなった。これはたいへんなことだと思う。なぜなら、自分たちの家族や友人を殺し、自分をも銃剣で刺して殺そうとした、第一一連隊の兵士たちの家族や隣人たちが原爆の犠牲になったのであって、そうした人たちにその死を悼んで花輪を捧げたのだからだ。シンガポール陥落を祝って提灯行列をした人たちの死を悼もうというのだから。加害者の家族の死を悼もうとする彼らの寛容さを真摯にうけとめなければならない。

 私は五人の広島への旅を『朝日ジャーナル』に「虐殺の証人たちのヒロシマへの旅」と題してレポートした。そのレポートの最後をこう結んだ。「広島の地であらためて『一二・八』が問い直されなければならないし、今度は広島の人々が、十一連隊の元兵士も戦後の若い世代も含めて、虐殺の地を訪れる番であろう。そのことが、ヒロシマの訴えがアジアの人々の共感を得て、アジアの声となり広がっていく貴重な一歩となるにちがいない。」

 私がこんなことをいうまでもなく、広島の人たちの動きは早かった。その年の一二月三日、太平洋戦争の開戦の日を前に二六人の有志のよびかけで「マレーシアの戦争犠牲者に思いを馳せ、心に刻む集会」が広島平和記念会館で開かれた。この会にはおよそ百人あまりが参加し熱心に聞き入っていた。この集会の模様はTBSによって全国ネットのニュースで報道され、関心が広まりつつあることが感じられた。

 広島からマレーシアに行こうという話も進んでいった。マレーシアでの住民虐殺の問題に最初に取組み、日本に紹介する努力を続け、そのためにマレーシアやシンガポールの戦争の跡を訪ねる旅をくりかえしおこなっていた高嶋伸欣氏が企画したマレー半島南部戦争追体験の旅に沼田鈴子さんら三人が広島から参加することになった。高嶋氏を中心にあわせて三○人がこの旅に参加した。一九八九年三月二七日に日本を出てマレーシアのクアラルンプール〜ネグリセンビラン州内の各地〜マラッカ〜ジョホール州内各地〜シンガポールをまわり四月四日に帰ってくるという行程であった。もちろんこの旅の中心は、広島にきた五人の故郷であるネグリセンビラン州内の虐殺の地を訪ねることであった。クアラルンプールに着くことになっていた二八日私はさきにクアラルンプールに行き、空港で一行をまっていると蕭文虎さんをはじめ日本に来た四人(蕭嬌さんはティティで待っていた) が迎えにきていた。一行が到着し、到着ロビーから出てきた。沼田さんが出てくると四人 はそばにかけより、手を握って再会をよろこびあった。蕭さんが涙をうかべていたのが印象に残った。

 翌日、朝早く出発してネグリセンビラン州で最大の虐殺があったイロンロンにむかった。この村は全滅させられてなにもなくなっており、生き残った人たちの多くは隣町のティティに住んでいて、イロンロンの犠牲者の記念碑と殉難墓もティティの義山(共同墓地)に建てられている。まずこの記念碑と殉難墓に御参りし犠牲者を弔った。ここで蕭嬌さんが待っており沼田さんと二人は手をにぎりあったまま泣いていた。そののちティティの町の集会所でおこなわれた交流会に臨んだ。まずティティの中華義山理事会首席の黄金覧氏が「私たちはうらみをもっているのではありません。これからの世界の平和のためを願っています。ともにがんばりましょう」と歓迎の言葉でわれわれを迎えてくれた。ついで日本側一行を代表して沼田さんが立った。沼田さんは「私は戦争中、広島にいて第一一連隊がしたことをなにも知らされずにいました。そして原爆で片足を失い体も心も苦しみました。戦争が終わって原爆がおとされるまでの歴史を知りました。事実を知らないことの恐ろしさを感じました。日本軍がみなさまにご迷惑をかけ、みなさんはどんなに苦しかっただろうかと思います。大阪で(刻む会の集会)その事実を知ったときの驚き。私は一一連隊のおこなったことを申し訳ありませんでしたとおわびします。心からおわびしたいと思います。私はしっかりと自分の目で事実を確かめ、なくなられた方の慰霊をしたいと思います。歴史を消してはいけません。事実を伝えることが体験者の役目です。二度とあのようなことがないよう、帰ったらすぐにでも日本の人たちにこのことを伝えたい。みなさまがたと手を結び、仲良くしていきたいと思います」。

 この言葉をうけて、蕭庚年氏が立って、私は父と弟を殺されそれ以来、日本製品をけっして使わなかった。しかし今沼田さんに会い、彼女もまた戦争の被害者であることがわかったと語りかけた。最後に広島の小学生が折った折り鶴や習字を送り、交流会は終わった。その後、プルタン〜スンガイルイ〜クアラピラ、翌日にはマンティン〜プタスをまわりネグリセンビラン州の旅は終わった。
 マレーシアの五人の広島への旅に対する答礼の旅はこうして実現された。沼田さんの語ったことに関して、当時未成年の被爆者が日本軍のやったことについて謝る必要はないのではないか、という疑問が旅行の参加者から出たようだが、ただ必要があるかどうかは別としても沼田さんの気持ちとしてそうせざるをえなかったのだろうし、だから話おわったあとで、「これでよかったのでしょうか」とそばにいた私に訊ねられたとき私は「よかったですよ」と答えたのだ。すくなくとも彼女の誠意はティティの人たちに通じたと思う。 現地の各新聞は大きな記事で非常に好意的に報道していた。

 マレーシアの旅から帰った沼田さんは、修学旅行生たちへの語りのなかに「原爆を落とされた広島は、かつて大本営がおかれていたんよ。広島の軍隊が外国で虐殺したんよ」と原爆の悲惨さに加えて、戦争で広島が果たした役割を問う内容の語りをつけくわえるようになった。原爆は自分たちを解放してくれたのだという人たちと手を結ぶためには、日本がおこなった戦争の責任をきちんと問いなおさなければならないということを痛感して帰ってきたのだった。
 この年の八月六日広島でフィリピンとマレーシアより虐殺から生き残った人たちをよんで、刻む会の広島集会がもたれた。原爆記念日に加害責任を問う集会が開かれ、予想をはるかに上回る六百人以上が集まり、証言者の話に耳を傾けた。マレーシアからは、家族を皆殺しにされ、本人も銃剣で何か所も刺された鄭来さんが来日し、体験を語った。

 原水爆禁止運動は日本の平和運動の代表的な運動であり、広島はその平和への願いを象徴する地でもある。それは広島の人たちにその責任を押しつけているのではなく、ヒロシマは日本の侵略と戦争被害の象徴的存在であるということなのだ。だから軍都広島とか、広島の一一連隊が虐殺をしたというのは、広島の人たちを責め、その責任を追求しているのではなく、日本全体の責任を象徴するものとしてとりあげているのだ。その広島で自分たちとの関わりのなかで、侵略戦争に対する責任を問い直そうという動きが、マレーシアでの住民虐殺の事実の掘り起こしの刺激を受けて、広がってきていることは日本の平和運動にとって大きな意味があるといえよう。そしてそのことはささやかながらも日本とマレーシアの人々の間で心と心の交流と理解が生まれていることでもある。

 被害と加害ということで一言ふれておこう。加害責任を明らかにしようと取り組む人々の中の一部に、これまで日本の平和運動は被害ばかりを強調してきた、これからはそうではなく加害のことを重視しなければならないという趣旨の発言をする人が出てきた。そのこと自体に異議はないが、ただそういう言い方にはやや疑問がある。広島で戦後何十年かを経て、ようやく被爆体験を他の人に話す決心がつき、語り部をはじめたところ、なぜ被害ばかりを話して、加害のことを話さないのか、と言われたという話も伝わってくる。そうしたことをどう考えたらよいのか。

 被害と一口に言うが、その重みはかんたんには想像できない。沖縄戦の体験者がようやく口を開き始めたのが七〇年代に入ってからのことであるし、沖縄のチビチリガマの生存者がその体験を話始めたのは八〇年代になってからだ。これまで、被害のことしか語ってこなかったというが、その被害体験の重みを私たちがどれほど理解しえていたのだろうか。実はそのこと自体が問われているように思う。

 沖縄戦で多くの犠牲者を出し、県民すべてが戦場にたたきこまれた沖縄では、ベトナム戦争のとき、激しい反戦運動が展開された。戦争の苦しみと悲惨さをなめつくした人々は自分たちの土地から爆撃機が飛び立ち、自分たちが加害者に加担していることが耐えられなかったからであろう。被害者になったということは、その悲しみや苦しみを体験したことであり、そのことは日本軍によって被害者になった人々の悲しみや苦しみも理解できる、共通の条件があるということだろう。もし問題があったとすれば、自分の被害にはこだわっても、日本軍によって被害を受けた人々のことに思いをいたらなかった、そうした被害体験の総括と継承の仕方であろう。

 アジアの人々に多大の被害を与えた日本は、同時に日本の人々の生命も軽んじた国家であった。戦争被害と加害は対立的にとらえるべきものではなく、両者の相互の関係をきちんとおさえることによって、共に深まっていくものであると思う。そうした戦争のとらえ方の中でこのマレー半島での華僑虐殺と広島の問題を考えていきたい。

マレーシアでの住民虐殺掘り起こしの取組み 

  こうした広島での取組みを生み出すきっかけとなったのは、実は日本の文部省がおこなった教科書検定の問題だった。  マレーシアで住民虐殺の問題が大きくとりあげられたのは、戦後の歴史のなかで三度ある。最初は戦後直後の一九四六、七年におこなわれた戦争裁判とのかかわりで、調査がおこなわれその事実が広く報道された。二番目が一九六○年代なかばで、シンガポールで虐殺された人たちの遺骨が大量に見つかり、その賠償を要求する運動がおきた。その運動がマレーシアにも波及し「血債」を要求する運動がマレーシア各地でおこったが、六七年に日本がわずかの賠償をおこなうことで終息をみた。その賠償とはマレーシアに対しては貨物船二隻、二九億円、シンガポールに対しても同額で造船所や機械類などだけだった。だから犠牲者の遺族らにはなにも渡っていない。

 第三が一九八二年に国際問題化したいわゆる教科書問題だった。この年の夏、文部省が教科書検定にあたって、日本の「侵略」という記述を認めず、日本がアジア諸国を侵略したことを否定し、日本がおこなった戦争を肯定的に扱わせようとする検定をおこなっていたことが報道され、中国や韓国をはじめとするアジア諸国から厳しい批判をあびた。東南アジア関係でも「東南アジア侵略」という言葉が「東南アジア進出」に書き換えられたりした(帝国書院『新詳世界史』)。もちろんこうした検定に対する批判はかねてから国内でもおこなわれ、家永三郎氏による教科書検定訴訟はその代表的な取組みであるが、政府文部省はそうした批判を無視してきていた。しかし国際的な批判の前には、とうとう「侵略」という記述を認めざるをえなくなった。

 このとき中国や韓国などからの批判は日本国内でも広く紹介された。ところが日本ではほとんど紹介されなかったが、マレーシア、なかでも華人社会でもこの問題は大きな反響をひきおこしていた。マレーシア政府はマレー人優遇政策(ブミプトラ政策)をとっていて、被害者が中国系住民に集中しているこの問題は取り上げようとしていない。しかし華人たちは、日本が侵略の事実を否定するのならば、自分たちの手で事実を記録して残し、伝えなければならないと考え、みずから動き始めた。それはネグリセンビラン州でもっとも活発に取り組まれた。

 ネグリセンビラン州が虐殺がもっとも激しかったというのではなく、一番犠牲者の多いとみられるジョホール州では各地で戦後直後に虐殺についてのくわしい報告書が作成され、記念碑も建てられていたし、マラッカでもそうだった。ネグリセンビラン州はそうした報告書も作成されておらず、調査がまだきちんとおこなわれていなかったことが、逆に今こそ調査をして記録を残さねばならないという運動をひきおこしたのだと考えられる。その取組みの中心になったのが、ネグリセンビラン州の中華大会堂であり、各村の遺族たちが積極的に協力し、実際の調査・記録は州内に住む新聞記者(通信員)たちがあたった。また現在のマレーシア政府の連立与党であるマレーシア華人協会(MCA)や野党第一党である民主行動党(DAP)もともにその取組みに協力した。そして虐殺から生き残った人たちを訪ねてその証言を集めて新聞で報道し、さらに証言者を募った。証言を文字にして残すだけでなく、虐殺の跡から遺骨を収集し、記念碑を建て、毎年春の清明節には慰霊祭をおこなうなどの取組みを進めた。くわしくは本書のなかで紹介しているが、マンティン、スンガイルイ、カンウェイ、プタス、チェンカウなどはそうした例である。

 証言の収集は特に八四年に本格的に取り組まれ、こうして集められた証言はまとめられて、一九八八年一月にネグリセンビラン中華大会堂から『日治時期森州華族蒙難史料』として刊行された(村上育造氏の訳で『マラヤの日本軍』として翻訳が出版された、以下『 蒙難史料』と略記))。その後、若干の資料が追加された再版が九〇年九月に刊行されている。

見つかった陣中日誌  

 こうしたマレーシアでの動きを紹介したのが、当時シンガポールに駐在していた松井やより氏だった。スンガイルイの虐殺の記念碑がジャングルのなかから発見されたことやカンウェイの虐殺記念碑が建てられたこと、遺族らによって日本政府に対して謝罪と補償の要求がされたことなどが朝日新聞を通して報道された(一九八四年七月〜八月)。しかしこれらの記事のあつかいは小さなものでほとんど注目されなかった。その後、一九八五年に刊行された松井氏の『魂にふれるアジア』のなかで「アジアの八月一五日」と題した章にスンガイルイなどについて紹介された。

 松井氏の努力と時期的に平行するかたちで、高嶋伸欣氏によって精力的に虐殺の事実の発掘と日本への紹介がおこなわれた。氏はマレーシアを旅行中にたまたま日本軍による虐殺のことを知り、それ以来、たびたびマレーシアを訪ね虐殺の地を訪ねるとともに生存者から証言を聞き、一九八三年からはマレー半島縦断の旅を教師たちを中心によびかけて組織し多くの日本人が自分の目と体で虐殺の事実を確かめ、国内でその事実を広めようという取組みを始めた。ただこの第一回の八三年のときはネグリセンビラン州は素通りしており、翌年以降、松井氏の記事などによりネグリセンビラン州も旅のコースに組み入れられた。この旅以外にも氏はたびたび同州を訪ね、虐殺のあった村や虐殺の記念碑を確認し、日本に紹介する努力を続けてきた(巻末文献目録の高嶋氏、地理研究会、東南アジアで考える旅の会の項参照)。ただ残念ながら研究者の取組みはなく、対応する日本側の史料が不明で、虐殺をおこなった部隊もわからないままだった。

 私は八七年夏のマレー半島縦断の旅に参加し、現地をはじめて訪ねた。そこでネグリセンビラン州での虐殺が一九四二年三月に集中していることはなにか意識的なものがあると感じたし、せめてどの部隊が、なぜそういう虐殺をおこなったのかをあきらかにする必要を感じ、帰国してから関連する文献史料にあたってみた。そのなかで、防衛庁の図書館の戦史史料のなかから歩兵第一一連隊第七中隊などの陣中日誌と出会った。ネグリセンビラン州の現地では、虐殺のあった場所とその日付がわかっているが、それが陣中日誌に記載された日本軍の行動と多くが一致していた。しかも粛清行動の命令が順をおって残され、粛清によって毎日何人殺したということまで克明に記されていた。一九四二年三月に虐殺が集中していた理由もはっきりした。さっそく高嶋氏に連絡をとり、この陣中日誌の分析にとりかかった。この陣中日誌はその年の一二月八日の開戦記念日にあわせて、共同通信社による配信によって全国の地方紙四二紙(千四百部)に掲載され、歩兵第一一連隊が軍命令により組織的に中国系住民を虐殺したことが全国的に報道された。一方この陣中日誌の内容については、詳細な分析は大学の紀要にまとめるとともにそのポイントを『朝日ジャーナル』に「掘り起こされた住民虐殺」として紹介した。加害者である日本軍の史料が出てき、マスコミで広く報道されたことによりこの問題に対する関心が急速に広がっていった。そうした関心を広がりをうけて、心に刻む会がマレーシアから虐殺の生き残り五人を日本に招待し、証言集会を開くことになったのである。

  ※残されていた関係する陣中日誌は次の分である。

   「歩兵第一一連隊第七中隊陣中日誌」一九四二年一月一日〜六月三○日分
         同                      七月一日〜一二月三一日分      
         同              一九四三年六月一日〜四四年一○月三一日分 計三冊  
   「歩兵第一一連隊第三中隊陣中日誌」一九四一年一月一日  
                              〜一九四五年四月三○日分  
                           (四三年一月〜四四年六月分なし)六冊    
   「歩兵第一一連隊第一大隊砲小隊陣中日誌」一九四二年二月一日  
                                〜一九四三年一二月三一日分 三冊   
   なお少しあとの時期のものであるが、第二大隊、第八中隊の陣中日誌の一部も残っている。  

陣中日誌とは 

  将兵が戦中(陣中)に個人的に付けていた日記のことを陣中日記とか陣中日誌と呼んで紹介しているものがあるが、それらはあくまで私的な文書であって、ここでいう陣中日誌とは性格がちがう。陣中日誌とは陸軍が定めた作戦要務令(一九三八年九月)のなかで作成することを義務づけられている公文書である。原則として中隊以上の部隊で作成され、「各部隊若しくは各人の経歴及遭遇したる実況並に所見を記載し戦史の資料と為す」とともに「編成装備、教育、補給、給養、衛生、武器、弾薬、器材、器具、材料、燃料、化学戦資材、被服、装具、馬等に関する軍事の経験を録し将来改良の資料と為す」ことを目的として作成された。そのため記載すべき事項は前者の目的のために「毎日の位置」「作為せる命令、報告、通報中主要なるもの」「行軍、宿営に関する事項」「戦闘の景況」「人馬の異動及現員の概要」「主要なる時期に於ける部隊の編成表及将校、各部将校の職員表」「宣伝に関する事項」「その他一日間に於ける緊急事項等」の八項目があげられ、後者の目的のために六項目があげられている。部隊長は適時陣中日誌を点検し捺印か署名をおこない、一か月ごとにまとめて一部は大本営(参謀本部)に提出し、一部は部隊で保管することとされている。

 この陣中日誌とは別に、ある戦闘がおこなわれたときその間の戦闘経過概要、彼我の態勢、彼我の損害、消耗弾薬などをまとめた「戦闘詳報」が作成される。これも作戦要務令で定められた軍の公文書である。公文書とはいってもその記述の内容には厳密な史料批判が必要であって、ほかの史料と同様にそのまま信用できるわけではないが、軍の公文書で粛清の事実が命令も含めて確認されたことによりもはや虐殺を否定することはできなくなった。その意味では決定的な史料であることは疑いない。

米軍に没収された陣中日誌   

 ではなぜこの陣中日誌が残されていたのだろうか。軍の資料の多くは、特に問題のあるものは敗戦と同時にすぐに焼却されてしまった。戦闘のなかで処分する暇がなく米軍に没収されたり、個人的に密かに持ち出されたりしたものがわずかに残されているにすぎない。防衛庁の図書館にはそうした陣中日誌が断片的に保管されている。

 さきに紹介した第七中隊など本書で利用している第一一連隊の各部隊の陣中日誌が処分されずに残されたのは、橘丸事件のおかげである。第一一連隊はマレー半島からオーストラリア北方の豪北地区の島々に移動し、連合軍の反撃に備えていたが、連合軍は豪北地区をとばして、太平洋沿いにマリアナ―フィリピン―沖縄と日本本土へむかっていった。そのため豪北にいた日本軍は後方に取り残された形になった。そこで軍中央はこの地域の部隊を東南アジア地域の拠点であるシンガポールに集結させることにした。だが制空権も制海権も米軍に握られているため移動はきわめて困難だった。小さな船で夜間だけ島づたいに移動するなどの方法をとったが、遅々として進まなかった。そこで考えたのが、病院船を使うことだった。病院船なら国際法で保護されているので、ここに将兵を病人にしたてて武器弾薬と一緒に運ぼうとしたのだ。第一一連隊の第三大隊を除く二つの大隊などが病院船橘丸に乗り込んでケイ諸島を出発したのが一九四五年八月一日だった。武器は船底や行李の奥に隠し、将兵は病人の恰好をしてそれぞれ偽名のカルテまで作られた。しかしアンポン島南方を航海中の三日米駆逐艦の臨検をうけ、偽装が見破られてしまった。そのため国際法違反で船ごと拿捕され、一個連隊がまるまる捕虜になったのだ。橘丸はマニラまで曳航されそこで終戦を迎えた。厚生省援護局がまとめた『インドネシヤ方面部隊略歴』 によると、このとき「連隊人事功績其の他一切の書類(機密書類は事に破却□し)並びに遺骨約三○○柱(師団全部のもの)を押収せら」れたという。一部の書類は処分したようであるが、かなりの書類が米軍に没収されたようだ。これらの書類は米本国に送られた後、戦後の一九五八年に日本に返還され、そのまま眠っていたのが、ようやく日の目をみたのである。国際法違反の行為が歴史の貴重な史料を残すことになったとは皮肉と言おうか。

 この本は、陣中日誌をはじめとする日本側の史料や関係者の証言、つまり粛清をおこなった加害者側の資料とマレーシア現地での生存者の証言、虐殺の跡の調査によって得た、被害者側の資料とを合わせ、ネグリセンビラン州内で日本軍がおこなった華僑粛清=中国系住民の虐殺の実態を明らかにしようとするものである。それは一つの州での出来事ではある、同じ命令はマラヤ全土に出されており、ほぼ同じ時期にマラヤ全土でなんらかの形で粛清がおこなわれたのであり、一地方だけの出来事ではない。また時期的に見ると太平洋戦争が開始されてから、おそらくもっとも早い時期におこなわれた組織的な住民虐殺であって、太平洋戦争とはいったいなんであったのか、という問題を考えるうえで重要な出来事であると考えられる。

 ではネグリセンビラン州での日本軍の跡を一つひとつたどってみていくことにしよう。

<以下、略>