基本的なスタンス   2003.10.23改訂

このホームページを開設している私の意図、スタンスについてかんたんに書いてみました。なぜこうしたテーマの研究をし、発言をしているのか、という質問への回答です。論文とか講演というのは、その限られた枚数(時間)のなかで、どのような読み手(聞き手)かを想定し、テーマも切り口もしぼっていますので、それ一つだけでは私の考えている全体像を示したものではありません。そこでこのコーナーを作ってみました。 2001.3.31記

世界全体の帝国主義や戦争犯罪をなくし解決するための重要なステップとして、日本の戦争責任問題の解決を!

 日本が犯したさまざまな侵略戦争、植民地支配、それらのなかでの数多くの戦争犯罪や人道に対する罪などについて、きちんと調べ明らかにして事実を認め、その責任と取ること(謝罪、賠償、くりかえさないための教育や対策などを含む)は、何よりも日本国民の責任です。私たちが自らの責任を果たすことによってのみ、他国・他国民のそうした行為を批判し、やめるように主張することができるようになります。自国への批判の基準は当然、普遍的なものでなければなりません。たとえばアメリカが太平洋戦争中におこなった原爆投下や都市への空襲、朝鮮戦争やベトナム戦争での都市への空襲や住民虐殺、生活破壊、いまなおアメリカが各地でおこなっている同様の行為も、私は戦争犯罪としてきびしく批判しています。日本がおこなった戦争を侵略戦争と認めない人々は、そうしたアメリカの数々の犯罪を批判せず、むしろ日米安保によって積極的に協力支持さえしています。他人の間違いを持ち出して自分の間違いを帳消しにするのは卑怯です。他国の犯罪を許さず、他国の犯罪を批判できる資格を得るためにも、自らの犯罪をきちんと総括することが必要不可欠でしょう。

未来志向だからこそ戦争責任問題に取り組む!

 歴史を振り返るのは、けっして過去を見るためではなく、現在の自分たちがどこにいるのか、よりよい未来を築くためにどうすればよいのか、それを考えようとするとき、私たちは歴史を振り返ります。そもそも歴史学は未来のための学問です。今日の日本を考えるとき、韓国・北朝鮮や中国、東南アジア、さらには世界の人々との間に、信頼関係を作ることができていません。その最大の問題の一つが戦争責任問題です。あれだけのひどいことをさんざんしておきながら、その事実を否定したり、反省しないままに過去のことだとうそぶいている日本人が信頼されないのは当然でしょう。これからアジアや世界の人々と、政治・経済・安全保障・環境などさまざまな分野で協力していくときに、日本がおこなった侵略戦争の問題は何よりもまず解決しておかなければならない問題です。

国家エゴの不毛な張り合いを克服し、アジアの人々との理解と友好を進めるために!

中国や韓国などでは一方で、一面的な日本批判がなされてきました(保守派)が、他方で民主化の進展とともに日本を批判しながらも自国の問題をも冷静に議論しようとする人々(良識派)が生まれてきています。この良識派が生まれてきた背景には、経済発展と民主化がありますが、同時に日本国内で戦争責任に真剣に取り組む人々の増大とそれらの人々との交流があります。日本がおこなった戦争や植民地支配を正当化する日本での議論は、‘やっぱり日本人は何も反省していない’とこの保守派を活気づけ、冷静に議論しようとする人々を窮地に追いやるだけです。日本の右翼と、中国や韓国の保守派とはお互いに持ちつ持たれつの関係にあることを見ておく必要があるでしょう。その背景には、東アジアが不安定であるからこそ日米安保体制や自衛隊(とその増強)を正当化できる、民主的平和的な改革を阻み、現在の政治体制と利権構造を維持できるという理由があります。そのことは中国や韓国などの保守派にも共通する点です。日本が戦争責任問題をきちんと処理することは、アジア諸国の良識派を励まし、民主化を促し、東アジアの冷戦構造を解体していく取組みの一環でもあります。他国を一方的に非難しあう関係ではなく、批判すべきところは批判しつつも、自己反省と相互理解を進める重要なきっかけになるでしょう。そのためには侵略戦争と植民地支配の責任がある日本側がまず真摯(しんし)な姿勢を示す責任があります。
 

今日の無責任社会・日本の現状を変えるためにこそ戦後の出発点の見直し、すなわち戦争責任問題の解決を!

 現在の日本の政治や経済を見ると、日本は無責任社会です。何をやっても、失敗の原因と責任を明らかにし、メスをいれるのではなく、あいまいなままにして誰も責任を取らない、あるいは金の力で当面の矛盾をしのぎ先送りする、など無責任が蔓延しています。何百兆円も借金を作りながら、目先のことしか考えずに不必要な公共事業を次々におこなう政治家や業界、それに巣くう利権屋たちが日本の権力を握っている現状はまさにその典型です。こうした問題は戦争責任問題への対処の仕方と同じです。経済援助だといって札束をちらつかせて、相手を黙らせてきたやり方もその一つでしょう。戦後の日本の出発の間違いがこうした現状を生み出したといってよいと思います。昭和天皇が戦争の責任をまったく取ろうとしなかったことは、戦後日本の頽廃の出発点でしょう。戦争責任問題への取組みは、こうした日本の無責任社会を変えていくためにも不可欠な課題です。

内輪の人だけでなく、他の国民・民族・社会の人々の痛みや悲しみを感じ、ともに生きていくことができる人間になるために!

 侵略戦争ではなかったとか、日本がおこなったさまざまな残虐行為を否定し、「日本人の誇りを」などといっている人々は、仲間内だけで自慢話をして、他の人々の痛みや悲しみには無感覚なエゴイストです。自分は立派な人間だと自分で叫んで陶酔している、そんな人間にロクなやつがいるわけないでしょう。そうした人々の歴史観は―誰かが言っていたことばですが―、「マスタベーション(自慰)史観」です。しかもマスタベーションは普通は一人こっそりとするものですが、他の人に自分のそれを見せつけて喜んでいる、実にグロテスクな人々です。さらにそうした議論に影響を受ける人がたくさんいるということ自体、日本人が頽廃し利己的になっている証拠です。人間性というのは、仲間内に対したときではなく、そうではない人々に対したときにはっきり現れます。日本の戦争責任問題を解決するための営みは、私たちが人間性を回復するための(あるいは人間性を身につけるための)過程でもあるでしょう。